特殊講義 2002.前期 Hiromichi IMAI
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2002.4.12
 2−3 このように、西欧中心主義的な「近代」は、ここ一世紀来隘路に陥っており、その克服が課題となってきた。二度にわたる世界大戦をその帰結と見ることができるが、隘路は依然として突破されていない。ますます問題は複雑化している。このことを踏まえて、さしあたり「歴史認識のズレ」の問題を一瞥してみよう。  日本近代の発展を体現した「明治国家」は独特の「二重性」に苦しんだ*1。その二重性は、日中戦争と日米戦争を二つの中心とし、東アジア・東南アジアを巻き込んだいわゆる「大東亜戦争」に、端的に表現された。「大東亜戦争」は、  @一面では、19世紀以降の欧米のアジア支配に対するアジアの逆襲を意味した。だが、  A他面ではアジアのアジアに対する侵略戦争であったという二重性をもった。しかし、そのうちの@の意味は、Aによって事実上否定されてしまった。

 2−4 この「大東亜戦争」の二重性は「明治国家」の二重性を反映している。欧米列強から開国を強要されて以来、完全な独立の実現こそは、明治時代を貫く日本の基本的な国策であり、悲願であった。その間、一切の国家政策は、この目標との関係において手段としての意味を与えられたといっていい。不平等条約を最終的に廃棄しえたのは1911年であった。しかしその間に富国強兵政策の実現に一定程度成功した日本は、他方で、既に1876年に朝鮮に不平等条約を押しつけ、その後中国にもそれを強要した。抑圧されながら抑圧国になったわけである。このような「明治国家」の二重性が「大東亜戦争」の二重構造を帰結した。因みに、「大東亜戦争」の呼称は、この戦争が、この二重性にもかかわらず、欺瞞的な〈東アジア的自己意識〉の強要の上に成立したことを表現している。

 2−5 この「大東亜戦争」の「二重構造」は二つの意味を含んでいる。(1)〈東アジア的自己意識〉=〈東アジア的共同性意識〉の形成の失敗と、(2)「国民国家一般に本来的な二重性」の日本的表現という意味である。  (1)日本が西欧列強と接触した時期には、  (a)日本は、中国・朝鮮と連携しつつ、欧米中心主義的な主権国家の権力システムと批判的に対峙すべきだという見解が存在した。いわば、〈東アジア的自己意識〉=〈東アジア的共同性意識〉を形成しそれに立脚して欧米の侵略に対処せよという主張である。また、  (b)日本を強力な主権国家として形成し、国際的な権力システムののなかに入り、その権力の分有を目指すべきだという見解もあった。  実際には、(a)の見解は、客観的基盤の脆弱さゆえ支配的となりえず、(b)が圧倒的優位を占めた。(a)の主張者も漸次(b)の立場へ吸収されていった。福沢諭吉の「脱亜入欧」論はその「転化」の完了、〈東アジア的自己意識〉形成論の最終的敗北と見ることができる。それ以降、日本は「国民国家一般に本来的な二重性」の論理に巻き込まれた。

 2−6 「国民国家一般に本来的な二重性」とは何か。自由・平等・博愛のスローガンを掲げつつ近代的な国民国家を完成させたフランスが、いやヨーロッパのほとんどの国民国家が、アジア・アフリカ諸国への帝国主義的侵略を当然のように行った。このことには既に触れたが、この事実に、「国民国家一般に本来的な二重性」が象徴されている。国内では、「自由・平等・博愛」といった〈普遍的価値〉の実現や国民の福祉の実現を目指しながら、それ以外の地域、例えばアジアに対しては、自国の利益のための帝国主義的侵略に邁進したのであった。  しかも、例えば人権といった普遍的価値や手厚い福祉は、このような強国に属しその国籍をもつという〈特殊的条件〉を充たすのでなければ保障のされようがないというディレンマの中におかれていた。

 2−7 「国民国家」というものは、「国民」という概念で示される構成員の「同質性」を前提に成立している。「人権」を憲法に規定している限り、国民国家は全ての国民に、等しく「人権」を保障する。そして、その保障は「主権」によって担保される。ここに、国家は「倫理性」を体現する、「人権」こそは「主権国家の倫理的存在理由を与える理念」だ、などとされる所以がある。しかし、真の問題は、その次にある。  今述べたように、「国民国家」は、「同質性」をもつ「国民」というものを本質的な前提としてに成立している。このことは、「国民国家」が、自国の「国民」を、@国民でないものを区別することは勿論、A「同質性」をもつ「国民」と国内に住んではいるが「国民」ではない「異質者」とを、B場合によっては、法的には「国民」だが実際には「異質」な者とを、等しく扱わないということを意味している。そして、緊急事態の折には、その「異質者」は「内部の敵」として「殲滅と排除」の対象となる。

 昨年春の石原都知事の「第三国人」発言を想起せよ。あの発言は、敢えていえば、朝鮮半島「有事」の時の「内部の敵」たる「異質者」のアイデンティファイを意味している。

同じことは、当然ながら「他の国家」に属する他国民についてもいえる。「他の国家」に属する他国民は、いかなる意味においても人権保障の対象とはならない。もし対象にすれば、「他の国家」の主権の侵害となる。  これが近代的西欧理念が人権と呼んできたものの実態であった。「主権」は人権尊重要求をはねつける万能の護符」であるとしてそれを「神聖化」してきたのは、何も「アジア的価値」論者の発明ではない**。それは、「主権」概念に本質的な属性なのである。かくして、ここには大きな逆説が存在する。「普遍的」人権は、国籍という「特殊的」条件をもつ者にだけ保障され、その条件を持たない者には無意味なものだという逆説である***。「人権」こそは「主権国家の倫理的存在理由を与える理念」だという井上のテーゼの問題性はこの逆説・ディレンマを直視しない点にある。ともあれ、この逆説・ディレンマは、歴史上、実にさまざまな悲劇をもたらした。この悲劇の多くは、われわれの誰もが直ちに想起しうるところではないであろうか。  われわれは、ここでこの問題を「人権の普遍性と国家帰属の特殊性のディレンマ」と呼ぶことにしておこう。しかし、このディレンマは、後に明らかにするように、自由主義的個人観と民主主義的個人観−−国民国家という基盤の上に成立する民主主義的個人観(2−13のBを参照せよ)−−との混乱の表現だといった方が適切であるようだ*4。

 *1996年度法哲学会における私のコメント参照(法哲学年報1996『多文化時代と法秩序』(有斐閣1997)所収。  **今井弘道他編『変容するアジアの法と政治』所収井上達夫論文、27頁。  ***今井弘道「国民国家の終焉と政治概念の転換――その準備的考察――」、フォーラム90s研究委員会・編著『20世紀の政治思想と社会運動』(社会評論社 1998)所収参照。また、1999年度法社会学会において安田信之が組織した分科会「多文化主義と日本社会」における私のコメント参照(法社会年報1999『構造変容と法社会学3』(有斐閣2000)所収。  *4 この問題は、後のわれわれにとっての大きな問題になるはずである。注意を促しておきたい。

 このような主権国家それ自体に内属する二重性が、@アジアに位置するA後発帝国主義という二条件によって増幅されて、日本の歴史に劇的な形で表現された。現在においてこの二重性を端的に体現しているのはイスラエルであろう*1。  ともあれ、独立の主権国家となった途端、いかなる国も−−無論、中国も韓国も−−この二重性から自由ではありえなくなる。私は、西欧中心主義的な人権論の観点からのアジア批判に対しては多くの場合懐疑的だが、国民国家の少数派民族に対する弾圧等の形を取った人権侵害に対しては、アジア人は鋭敏であるべきだ、と考えている。それはこの二重性の発現に外ならないのだ。

 2−8 中国・朝鮮との連帯行動を基礎に欧米中心主義的な主権国家の権力システムと批判的に対峙しようとの見解は、〈華夷秩序〉思想と〈主権国家の権力システム〉の地平を相対化する思想を、ともに必要としていた。その上で、真の〈東アジア的自己意識〉が成立するからだ。だが、その前提が満たされず、日本は、結局は欧米列強が構成する〈主権国家の権力システム〉への仲間入りとその中での相対的地位の上昇をもっぱらの国家目標・国民的悲願とすることとなった。「脱亜入欧」である。  その中で、東アジアは、帝国主義支配の主体と客体に分裂した。そのことが東アジアに共通の歴史認識を不可能にした。日本に侵略された中国や韓国は、当然ながら「大東亜戦争」が欧米のアジア支配に対するアジアの逆襲だとの意味づけを拒否し、それをもっぱら「アジアのアジアに対する侵略戦争」として捉えようとするからだ。私は、この中国や韓国の主張を正当なものとして承認する。しかし、困難は、日本のナショナリストの主張が100%ナンセンスだとはいえない点にある。

 2−9 私は、このような事態を思想史的にもっとも端的に体現した人物として福沢諭吉を理解することができる、と考えている。そのような私の福沢理解は、これまでの福沢の思想史的理解において指導的立場に立つものと見なされてきた丸山真男のそれとはかなりトーンを異にしている。従って、私のこのような理解は、丸山の福沢理解の批判を含まざるをえず、そのことを通して丸山の福沢理解の背後にある思想それ自体への批判を含まなければならないこととなる。そして、そのような二重の批判は、もし成功すれば、思想史的なアプローチを通して、近代日本国家のあり方を切り開く絶好の視点になりうるのではないか、とも考えている。この講義は、そのような作業の一端を、私なりに切り開こうとするものである。

 2−10 私は、明治国家を「緊急権国家」として理解することができる、そして福沢を、「緊急権国家」としての「明治国家」のあり方についての構想を最も包括的な仕方で展開した思想家として捉えることができる、と考えている。そのことは、福沢が「国民国家に本来的な二重性」を思想的にきわめてシャープな形で表現した、ということを意味している。しかもそれは、ある意味では、カール・シュミットが国家学的に見抜いたような「近代的な主権的国民国家の危機」の問題に根柢的な仕方で触れるような性格をもつものであったといいうる、とも考えている。しかし、その問題については、さしあたりは留保しておくこととせざるを得ない。ここでは、その前に、「緊急権国家」という言葉−−この言葉それ自体がシュミットと関連なしには理解できないものなのだが−−の意味について簡単に触れておかなければならない。

 2−11 「国家緊急権」とは、「国家および基本法秩序(ひいては国民生活全体)の維持・存続を脅かす重大な非常事態に対処するため、一時的に平時法制を超えた権限を政府(および/または軍事部)に委任し[典型的には、「戒厳令」−今井]、これに特別措置を可能ならしめる場合の例外権力」のことをいう(小林直樹『国家緊急権』(学陽書房 1979)、25頁)。そして、「緊急権国家」とは、国家が対外的/対内的に持続的な危機状態にある時、それに対処するために、この「国家緊急権」の発動を常態化し、それを法体制に浸透・内在化させた国家のことである。そして、日本の「明治国家」は、欧米との遭遇と圧倒的に優位な武力を背景とした開国の強要という国家と民族の存亡に関わる「危機状態」の中で、その危機の克服を第一義的使命として成立した。その意味で「明治国家」は「緊急権国家」として成立し、1945年8月15日までその性格を維持し続けた。  「緊急権国家」の最大の存在理由は、持続的な非常事態に「合目的的」に対応することにある。その「合目的性」のために、人権は否定されるか、最小限に切り縮められる。人権は、この意味での「目的」に対しては、反機能的なものだからである。「緊急権国家」にとっては、「危機状態の克服」、そのための「強兵の必要性」、更にその「強兵」を可能にする「富国の確立」といった目的連関を実現する手段連関、国家と民族の存立の維持という究極目的に収斂する手段連関を、「人権」を制限してでも貫徹させなければならないのである。その意味で、「緊急権国家」は、立憲主義とは、原理的な緊張関係に立っている。

 2−12 時事的問題との関連における脚注的議論をひとつ。先日、4月8日の『沖縄タイムス』の社説は、「沖縄と有事法制」について論じていた。そこには、「沖縄から見た有事法制の意味」についての非常に重要な議論が、そしてそれを通しての「有事法制」のもつ意味の一側面が、端的に指摘されていた。それはまた、「緊急権国家」としての「明治国家」の性格に関わる問題を示唆してもいる。  @例えば、「旧日本軍は、一九四一年ごろから四五年にかけて、飛行場や砲台、兵舎などを県内各地に建設した。これらの土地は、戦争遂行のために、国家総動員法など戦前の有事法制に基づいて接収したものだ」が、この「接収」が米軍に引き継がれて現在の基地問題につながっていることが、指摘されている。 A更に、米軍統治下の五五年七月、当時の米国民政府が、非常事態を想定した「琉球民間防衛計画」をまとめた時、「沖縄駐留米軍に対する大規模な敵対行動に際して「戒厳令を布告する」ことを想定し、そのような「非常事態においては、琉球政府立法院は、その機能を果たすことが不可能となるので、その活動を停止」する、とうたわれたという事実がある。9.11直後の沖縄の基地で、この点の想像を逞しくせざるをえないような雰囲気が形成されたことを想起せよ。  ここには、「有事法制」−−つまり、「国家緊急権」の発動をめぐる法体制−−というものの基本的な性格が明確に現れている/示唆されている。国家の主権の働き−−この例では、米軍の施政権−−が軍隊の論理へとストレートに表現されて、平時の国民主権等々の「建前」がすべて否定されて、軍隊の機能の全面発揮がめざされる、という性格である。  Bこの主節が力点を置いているのは、このような事態が、戦前に、また米軍統治下で、実施され、あるいは実施を前提とする法整備が成されていたということ、それだけではなく、その後遺症が現実に残っているということ、そして少なくとも沖縄においては、「有事法制」は、その後遺症の上にまた新たな犠牲を強いることになるという点である。 この点については、社説はこう語っている。  「野呂田芳成防衛庁長官(当時)は九九年五月、周辺事態法をめぐる国会審議の中で、「周辺事態」が発生した場合、沖縄県が最も影響を受ける可能性がある、との認識を示した。反響の大きさに驚き、後で発言を訂正したものの、野呂田長官はそのとき「地理的条件から言っても、基地が多く存在することを考えても、言われるようなことがありうるのでは」と語ったのである」。

 しかし、もっと衝撃的な「国家緊急権」の発動が、9.11当日及びその後の事態の推移の中で、論議されていたことが想起されてよい。それは、多分国防省サイドから、ハイジャックされて世界貿易センタービルへの突入が再現されうる飛行機については撃墜すると言明されたことである。この「撃墜」方針には、「非常事態」−−「有事」−−に「合目的的」に対応する為には、「国家緊急権」の発動は人権に優先するという事情が、実にあからさま示されている。

 2−13 私は、福沢の思想は、全体として緊急権国家論の枠組の中にあり、そうであるがゆえに首尾一貫したものであると捉えうる、要するにそれを全体として「緊急権国家」論と見ることができる、と考えている。福沢は、文明開化を、日本の危機存亡の時機の至上課題としての「独立」のための手段と見ていた。つまり、福沢の権利論・人権論は、緊急権国家論の枠組みの中に置かれ、それに制約されていたのである。  そして、この緊急権国家論が、福沢の他のアジア諸国を評価する差異の基本的視点ともなったのであった。かくして、他のアジア諸国が緊急権国家を構築して日本と共に欧米に対抗するという構えをとることができないときには、それらの国は全く否定的に評価され、「緊急権国家」たる日本の国権の発動の単なる対象となる。このような福沢の態度は、以下で示す福沢の文章より明白であろう。この意味では、『脱亜論』は福沢の思想の内在的帰結であった。

 福沢は『文明論之概略』と同時期の論文で、朝鮮に言及して、朝鮮は「亜細亜洲中の一小野蛮国にして、その文明の有様は我日本に及ばざること遠しと云ふ可し、これと貿易して利あるに非ず、これと通信して益あるに非ず、その学問取るに足らず、その兵力恐るるに足らず、しかのみならず仮令ひ彼より来朝してわが属国となるも、なおかつ、これを悦ぶに足らず」と述べている。  また、1881年の『時事小言』では、欧米列強の侵略に対してアジアの連帯が必要であることを意識しながら、その中で「波斯、朝鮮等はとても頼む可からざるものにして、亜細亜洲中最大の支那に依頼せんか、我輩これを事実に証して断じてその頼むに足らざるを知る」と断言する。中国の西洋との交流はほぼ百年になるが、「その改進の緩慢遅鈍なる、実に驚くに堪た」るものだからである。かくして、「方今東洋の列国にして、文明の中心となり他の魁をなして西洋諸国に当るもの」は「日本国民」の外にない。「亜細亜東方の保護はわが責任なりと覚悟すべきものなり……武もつてこれを保護し、文もつてこれを誘導し、速に我列に倣て近時の文明に入らしめざる可らず。あるいは止むを得ざるの場合においては、力をもつてその進歩を脅迫するも可なり」という(福沢、D95頁以下)。

2−14 福沢の『学問のすすめ』の中に、「一身独立して一国独立す」という有名な言葉がある。それを丸山は、@「維新当初の福沢の基本的な課題」が日本を「国民国家」にすることと、日本を「主権国家」にすることという二つであったとし、Aこの「一身独立して一国独立す」という定式において二つの課題の「内面的連関というものが、もっとも鮮やかに定式付けられ」ている。つまり、「個人的自由」が真の「国民的独立」を可能にする、と考えられ、そのことが「主権国家」の確立の内面的前提とされている、というわけである。こうして、「個人的自由と国民的独立、国民的独立と国際的平等は全く同じ原理で貫かれ、見事なバランスを保っている。それは福沢のナショナリズム、いな日本の近代ナショナリズムにとって美しくも薄命な古典的均衡の時代であった」という。  この丸山の評価は、「陸羯南」論での丸山の「デモクラシーとナショナリズムの結合」という言葉につながっていく。しかし、  @この「デモクラシーとナショナリズムの結合」という枠組みを持ち出すことには、福沢解釈として無理がある。  Aにもかかわらず、そう解釈するとき、丸山は自らの思想(=「デモクラシーとナショナリズムの結合」)を福沢に投影している。  B現在、この丸山の「デモクラシーとナショナリズムの結合」の思想(丸山の戦後民主主義の思想家としての基本的立脚点をなす思想)それ自体が問題化されるべきであり、その枠組みで理解された福沢理解の地平そのものが克服されるべきだ。  Cその地平の克服への志向性は、勿論、現代の「主権的国民国家」と「近代」とをめぐるpraktische "Frage"と内的に関係している。

 私は、このような論点を整理する上で、安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』(高文研2000.12)から示唆をえた。しかし、安川の視点は、十分に整理されたものではなく、その議論は、しばしば混乱している。福沢と丸山を批判するときの視点が、東アジアの被抑圧人民との連帯感の上に成立するヒューマニズムとでも呼ぶべきものに求められていて、それが思想史整理を可能にする枠組みにまで精錬されていない結果だ、といいうるであろう。