特殊講義 2002.前期 Hiromichi IMAI
 3 丸山の民主主義論に対する基本的視角−−あるいは、丸山の福沢論の前提たるpraktische >Frage
 3−1、丸山真男は、戦後民主主義の出発点において、二つの記念碑的な論文を発表した。「超国家主義の論理と心理」(『中央公論』1946年5月号掲載)及び「陸羯南−−人と思想」(『中央公論』1947年1月号掲載)である。この二つの論文で、丸山は、明治維新以降の日本の国民国家形成において民主主義的要素が過少であったこと、その分だけナショナリズムの非合理的要素が過剰に利用されて「超国家主義(ultra-nationalism)」への道が拓かれる結果となったことを、批判的に明らかにした。そして、それを克服するためには、ナショナリズムとデモクラシーとを結合させ、その中でナショナリズムを合理的なものへと分節化していく必要があることを示した。このような戦後日本に対する課題の提示は、戦後民主主義の精神的な支柱になった。  しかし、このような展望の提示は、現在では、反省的総括の対象となりつつある。そのポイントは、この丸山の観点が国民国家の次元を排他的な政治的領域と見ていること、その結果、非政治的領域がもつ政治的インプリケーションが看過されていることにある。しかし、私はこのことを踏まえた上で、丸山の民主主義観には、更に重大な問題がある、と考えている。丸山が民主主義を、〈下からの権力形成〉ということに力点をおいて理解している点である。その理解は、〈下からの権力形成〉の帰結として成立した権力には、それだけで直ちに十分な正統性を承認するという傾向をもたらした。そのことは、われわれがそのような権力からも自由で干渉のない多くの領域を必要としているということを看過させ、それに対する批判的対決の必要性を蒸発させがちになる。  この民主主義理解は、丸山においては、国民国家の次元を排他的な政治的領域と見ることと結合している。戦前戦後を通じての丸山の一貫した課題は、この国民国家の次元において〈下からの権力形成〉を達成することであった。羯南論で示された〈ナショナリズムとデモクラシーとの結合〉という課題は、そのことを端的に表現している−−下からのナショナリズム形成!−−。しかし、政治を排他的に国民国家次元において理解することと、〈下からの権力形成〉の帰結として成立した権力には直ちに正統性を承認することとは、少なくとも現在においては、ともに問題視されねばならない。  それが現代という時点で問題にされなければならないのは、次のような事情があるからだ。  (1)まず第一に、現代においては、ナショナリズムの位置づけが、戦後民主主義者たちのそれから、全面的に反転させられざるをえなくなりつつある、という事情である。例えば、大塚久雄の位置づけはこうである。「ナショナリズム(その基底をなす民族の問題をも含めて)は、もちろん暗い『国家主義』的なもの[=ウルトラ・ナショナリズム的なもの−今井]への逸脱の可能性をもはらんでいるけれども、それ自体としては、社会体制のいかんを問わず、つねに歴史的現実をはるかに人類の理念へむすびつけるところの必然的な中間項として、本質的に深い展望をはら」んでいる(「現代とナショナリズムの両面性」、『大塚久雄著作集E』(岩波書店 1969)、316頁)。〈ナショナリズムとデモクラシーとの結合〉という課題を戦後の日本の課題として提起した丸山においても、基本的にこれと同様のナショナリズム観が前提となっている。  逆にこのような大塚のナショナリズムの位置づけや丸山の議論を私が批判しようとするのは、ナショナルなものは、いまやこのような「本質的に深い展望」をはらむものではなくなった。この意味では、その位置づけや議論は、あらゆる形態の主権的国民国家とともに、いまや超克の対象となっているという認識に立っているからである。  (2)このようなナショナリズムの位置づけは、例えば、松下圭一によっては、明確に越えられている。松下は、現代は主権国家の機能が三分化し、国際機構・国(中央政府)・地方政府という三つの次元で政府が立体的に構造化されつつある時代だと見、またそこに現代の実践的課題があると考えている。このような観点からは、〈ナショナリズムとデモクラシーとの結合〉という戦略を政治課題の中心に見るのは、致命的に時代遅れであろう。  (3)現代では、しかし同時に「新しい社会運動」がさまざまな領域で展開されている。そしてそれこそが、社会にひそむさまざまな〈非合理〉を問題として発見し、それを突きつけてその〈非合理〉を支える人々の意識を変革し、それを解消していく主要な要因となりつつある。この運動の特徴は、そのほとんどが、非政治的(=非国家的)領域において、少数者の抵抗運動として、しかも多くの場合ナショナルなものの枠組を越えてグローバルに、展開されているところにある。  ここではとりわけこの(3)の運動に着目してみよう。そのような運動は、社会関係の細部に宿る大小さまざまな次元での無数の政治的・社会的な権力関係、あるいは目に見えない暴力的関係を問い直そうとする運動だ、といえよう。その典型として、フェミニズムの運動がある。また、必らずしもこの「新しい社会運動」の範疇には入らないが、管理職ユニオンの運動に見られるような〈会社主義〉に対する叛乱の意味をもつ運動も、社会的な権力に対抗する運動だといえよう。これらの運動の目標は、このような有形・無形の権力・暴力を問題化し、解体することにある。このような運動が、民主的正統性をもつ政府や自治体に抵抗しなければならない場合も少なくないであろう。しかもわれわれは、このような民主的に正統化されている政府や自治体への抵抗を、民主主義を信奉するがゆえに否定されるべきだとは考えない−−ケルゼン−−。  ある意味では(2)の松下に代表されるような主張も、主権的国民国家に帰属する絶対的権力を問題化し、それを解体しようとする発想に立っている。そしてこの主張は、(3)の運動が活発に展開されているような政治文化を背景にもってはじめて、有意味なものとして実現可能となろう。しかし、例えばその主張の結果として実現された地方政府もまた、いかに民主的なものであれ、権力であることに変わりはない。それに対して抵抗することが必要になる場合がないわけではない。  このような事態がもつ意味を適切に理解するためには、「国家からの自由」、「民主主義的国家[やその他のあらゆる民主主義的権力]のからの自由」を含めた「権力からの自由」を標榜する「自由主義」の復権が図られねばならない−−因みに、本稿で私が自由主義という語を用いる場合、すべてこの「権力からの自由」の意味での自由主義をさしている−−。古い自由主義の単なる復権が重要なのではない。ナショナルなものと主権的国民国家を超克するために、いわばそれを一旦方法的に復権させることが必要だ。自由主義は、こうして一旦復権された上で、現代的なレレヴァンスをもつ形に再構成されねばならない。

 3−2 私の理解する自由主義と民主主義との対比を、ここで用語法として明確にしておくことが必要であろう。この私の理解は、ワイマール期の法哲学者グスタフ・ラートブルフの議論(田中耕太郎訳『ラートブルフ著作集1 法哲学』(東大出版 1961)、196-197頁参照)に立脚している。但し、ラートブルフは、この対比を行いつつ、私とは逆に民主主義の立場を選択している。丸山の民主主義も、ほぼこのラートブルフの精神において理解されているように思われる。  ラートブルフによれば、民主主義と自由主義の間には、質的差異がある−−それは彼にとってはルソーとロックの差異でもある。換言すれば、彼の民主主義概念は彼のルソー解釈に基づいて再構成されたものであり、自由主義概念はロック解釈に立脚して定式化されたものなのである。−−。  このラートブルフによれば、民主主義とは、つまるところ、多数者意志を第一義的なものとして尊重しようとする政治思想、いわば〈多数者意志第一主義〉である。これに対して、自由主義は、少数者意志・個人意志を尊重する政治思想、いわば〈少数者の権利第一主義〉である。  この対比を、ラートブルフは、「民主主義は多数者の制約されることのない支配を欲する」のに対して、「自由主義は…多数の意志に抗しても自己を主張する可能性を個別意志に保障することを要求する」、と表現する。自由主義にとっては、多数者意志の支配としての民主主義は、少数者に対する多数者の専制となる危険性をもつ。換言すれば、個人の自由は、多数者の権力それ自体によっても抑圧される可能性があると見て、それをも警戒する思想、それが自由主義だというわけである。  この自由主義思想からすれば、たとえ人民を主権者とする民主主義的権力であっても、それは一定の限界内に封じこめておく必要がある。民主主義的権力からもまた、われわれは自らの自由や権利を侵害されるかも知れない。だからそれへの警戒心は、決して眠らせてはならない。この意味で、われわれの人権と自由を最終的に担保するものは、民主主義権力を含めた権力に対する抵抗権の発動である、あるいは市民的不服従の行為であるといわねばならない。  民主主義思想は、人間は、政治体の中で、あるいは国家の中でのみ、十全たる人間になることができると考える。それに積極的に参加することに人間の本質的価値を見出そうとする。かくして、国民国家を前提とすれば、民主主義思想は、国民国家に帰属することにおいて個人は自らのアイデンティティを獲得し、それへ積極的に参加することによって、そのことを主体的に、自発的に確証しうる、と考えることになる。こうして民主主義思想は個人を政治体に統合していこうとする衝動をもっている。  これに対して自由主義の国家哲学思想は、ラートブルフによれば、「個人の人権、基本権、自由権、すなわち自然的で前国家的な自由の諸部分」こそが、つまり政治体から離れた個人のあり方こそが、最優先されるべき価値であり、それらの価値に対しては、国家は、二次的な手段的存在にすぎないとみる。国家は、手段的価値をもつにすぎず、自体的な価値をもたないというわけである。  ここで重要なことは、この自由主義にとって、個人とは、政治的領域に吸収され尽さない something を、しかも個人自身にとって決定的に重要な something をもつものだということである。私は、例えば先に挙げた「新しい社会運動」は、このような国家−−あるいは社会−−に吸収され尽さない something を防衛するための、あるいは既に国家や社会に吸収されてしまったそれを奪還するための、ネットワークとして成立し展開されていると評しうる、と考えている。自由主義は、一旦復権された上で、直ちに現代的なレレヴァンスをもつ形に再構成されねばならないと述べたのは、このような文脈においてである。  無論、すべて論者がこのように自由主義と民主主義の概念を截然と区別して用いているわけではない。しかし、われわれの当面している問題をシャープに理解するためには、ぜひともこのような区別が必要になる。そして、本稿での議論が一定程度成功していれば、この区別は有効であったことになる。  戦時中の論文で、大塚久雄は、「『経済統制』(経済計画)」の進行する中で、「新たな『経済倫理』(エートス)」が急速に成長しつつある。この新たなエートスは、営利の追求を媒介として結果的に全体に参入するという意味で欺瞞を含んでいる「古い資本主義的『自由』経済」を「超克」しながら、「直接的に、『全体』による『統制』(計画経済)のうちに参入し」ようとするものであり、「個別的『経営』(また個人の勤労)の『全体』(国家)的計画へのつながりを直接に意識」しようとするものである。このエートスは、この意味では、「『全体』(国家)性の自覚」でもある、としている(「最高度“自発性”の高揚」、『大塚久雄著作集G』(岩波書店 1969)、341頁)。  ここには、個人は国民国家に帰属することにおいてアイデンティティを獲得し、それへの積極的参加によって、そのことが主体的に、自発的に確証しうるという民主主義的な考え方が、劇的なまでに明確に定式化されている。それは、以上の意味での自由主義的考え方の、明確な対極をなしている。丸山の立場は後につぶさに見るが、「近代的自由」は「民族国家そのものの構成原理である」という言葉(「ラッセル『西洋哲学史』(近世)を読む」、『丸山真男集B』(岩波書店 1995)、74頁。以下では、丸山の引用の論文名は本文で示し、頁づけは(B、74頁)というように記す)には、丸山が大塚と同質の思想を抱いていたことが示唆されている。  以下、このような問題関心から、私は、丸山の戦前から戦後にかけての議論−−時期的にはほぼ1940年代の10年間ほど−−を、批判的に検討してみようと思う。あらためていうが、焦点は、国民国家の次元において〈下からの権力形成〉を達成するという丸山の課題意識が、どのような問題性を孕んでいたのかの確認にある。  三、戦前から戦後にかけての丸山の思想形成の過程に即して、そこにひそむ問題性の剔抉を行う場合、問題の所在を指摘するだけでなく、そのような問題が丸山の理論形成と絡みあいながら発展していった様子を具体的に見ていくことが必要であろう。  このような観点に立っていえば、戦前の丸山の理論的・思想的発展は、基本的に次のような三つの段階を経過して達成されていった、と見ることができる。すなわち、  (1)徂徠学における儒教の政治化及びそれに立脚する政治組織改革論とカール・シュミット的な決断主義とを接合させ、  (2)そのシュミット的決断主義を更に国民的決断主義とでも呼ぶべきものへと発展させようとする−−ここではラートブルフやカール・シュミットに理解されたルソー主義が大きな役割を果たしている−−が、その展望はその発展を阻害する要因が根強く存在する日本の現実の中で挫折する。その後、  (3)その阻害要因の究明を、大塚の「前期的資本」という概念を翻案して「前期的」国民主義という概念を構成しつつ展開していく、という三段階である。この戦前の到達点は、そのまま戦後の丸山の思想的出発点をなすが、その発展の経緯の中で、丸山の思想にまつわる問題性も明確な姿を現わしてくる。  以下、順次、このような諸段階の内実について多少なりとも立ち入った説明を行いつつ、問題性の構造を明らかにしていこう。

 (1)徂徠学における儒教の政治化及びそれに立脚する政治組織改革論とシュミット的な決断主義との接合の様相は、例えば丸山の「或日の会話」という対話形式の小エッセイ、及びそこで提起された問題に対するその後の丸山の発言を検討すれば明らかとなる。  若き丸山がこのエッセイを執筆したのは、『公論』という雑誌の1940年9月号に掲載されたことから推測すれば、おそらくは、同年6月の近衛文麿の枢密院議長の辞任・新体制運動への乗り出し声明から、同年7月における新体制運動促進のための社会大衆党の解党、日本労働総同盟の自発的解散の決定、米内内閣の総辞職、第二次近衛内閣の成立という、一連のあわただしい時局の経過中であった−−因みに、近衛内閣発足直後に閣議で「基本国策要綱」が決定されたのは同年7月22日、体制翼賛会の発会式が10月12日である−−。それは、丸山が「近世儒教における徂徠学の特質並びにその国学との関連」を発表し終えた直後、そして「近世日本政治思想における『自然』と『作為』」の構想・執筆の時期であったと見て間違いない(以下では、前者の論文に言及する際には「徂徠学の特質」、後者については「『自然』と『作為』」と略記する)。  こうしてこのエッセイは、時局的にも、丸山の思想・理論の成熟という観点からも、はなはだ微妙な時期に執筆されたのだが、ここで丸山は、徂徠学−−ここでは徂徠学は徂徠の高弟である太宰春台の『経済録』に限定されて扱われているが−−とカール・シュミットの間には、「決断主義」という共通性が存在することを指摘し、こう述べている。  非常状態においては、通常状態を支配する「法則」は、「多少とも妥当性を失う」−−「国家緊急権」の発動を考えよ!−−。その非常事態において「事態を救いうる」のは、「具体的情勢に即した具体的処置」だけである。シュミットは、「これを『例外状態における政治的決断』と呼んでここに偉大な政治的転換の契機を見出し」た。春台もまた、「『事ノ上ニ在テ、常理ノ外ナル』場合を重視して、『理ヲ知テ勢ヲ知ラザレバ大事ヲ行フコト能ハズ』と言っている」(@、312-313頁)が、「勢ヲ知」って「大事ヲ行フ」ためには、自明のことだが、断固たる決断を要する。つまり、丸山は、徂徠学の作為をシュミットの決断主義という概念で読み替え可能と考える。その上で丸山は、眼前に進行しつつある近衛新体制を、「新しき制度の作為が行われ」つつある(「『自然』と『作為』」、A、88頁)ものと評価するのである。  この意味においては、「徂徠学の特質」論文において検出された徂徠による儒教の「政治化」とその発想に立脚した「政治組織改革論」が、「『自然』と『作為』」論文における決断主義的な「作為」の概念へと展開させられていく中で、丸山の近衛新体制に対する時事的問題関心は重要な作用を果たしていたといえよう。少なくとも、時事的問題関心と彼の徂徠学理解の深化とが、相互作用の関係にあったことだけは、確かであろう。この「或日の会話」は、この相互作用の様相を十分に証言してくれている。  それはともかく、この対話編における丸山の分身Bによれば、「統制」が、「例外状態」でなされることの自覚なしに、通常事態を支配する「経済法則を顧慮」して展開されている間は、「その統制はたかだか旧経済機構の修繕の意味しか持た」ない。そのような統制政策は、「それ自身新しい経済体制樹立という『大事』の主体的媒介者たりえない」。この意味で、従来までの「統制」は、「客観的には前者の範疇[つまり、旧経済機構の修繕−今井]に属する」にすぎなかった。にもかかわらず、政治家は、「恰も後者[例外状態における新しい経済体制樹立という『大事』−今井]に属するが如くに振舞った」。そこから、「色々の困難や摩擦が発生した」。こう述べて丸山は、この自己の分身Bに、「幸い近衛内閣の下に漸く後者的意味での統制確立の機運は熟してきた」、と結論させている(@、313頁)。  ここで丸山の問題関心は、政治組織改革を行う際の政治的指導者の決断に向けられている。その上で、丸山は、春台とシュミットが強調する意味での「決断」−−あるいはそのようなものとして理解された「作為」−−を通して「新しい経済体制樹立という『大事』の主体的媒介者」たろうとしている近衛文麿とその「大事」−−つまり近衛新体制−−に、好感を示している。このことは、聞き手のAに、「春台の経済論ついに新体制論にまで飛躍したね。しかしたしかに[春台の『経済録』のことを−今井]『現代離れ』なんて言ったのは僕の失言だった」と反応させていることからも窺い取れよう(同)。丸山にとって、徂徠学の研究は、1940年の段階において、「現代離れ」したものなどでは断じてなかったのである。  以上を踏まえた上で、丸山は、その決断主義を国民的決断主義の方向に発展させていこうとする。それはまた徂徠学における「作為」の概念の狭隘さに批判を向けていく過程でもあった。

 (2)さて、今や丸山は、シュミット的決断主義を更に国民的決断主義とでも呼ぶべきものへと発展させていこうとする。というより、むしろ丸山がシュミットの概念を受容するときには、政治的指導者の決断は、国民的次元での決断を誘発して、民主主義的な方向性を切り開くべきものとしての意味を与えられていた。そのことは政治的指導者が、「新しい経済体制樹立という『大事』」の「主体者」とされずに、「主体的媒介者」とされていたことにも明らかである。大塚の表現をかりれば、丸山もまた、国民に、「『全体』(国家)性の自覚」とそれに基づく「『全体』(国家)」へのコミットを求めていたのである。  ところで、シュミット的決断主義の国民的決断主義−−民主主義的決断主義といっても同じことだ−−への転回を、丸山は、そこにルソー主義的民主主義を投入することを通して遂行しようとしていた。詳細に立ち入ることは避けるが、シュミットの決断主義も、ある意味では、国民的決断主義と呼べないわけではない。しかしシュミットには徹底した人間性悪説があって、大衆の自発性には、全く信頼を置いていなかった。にもかかわらず彼は、国民を全面的に政治化し、全体主義体制を構築しなければならない、という強烈な問題意識を有していた。それゆえその国民的決断主義には、徹底した指導者主義が伴っていた。その指導者像には、ドストエフスキーの「大審問官」の表情が与えられもする*1。これに対して丸山は、現実存在としての国民についてはともかく、あるべき国民像のうちには、主体性と自発性の担い手を見ていた。その限りで、丸山が決断主義の主体を国民に求め、その概念を民主主義化しようとしたのに対して、シュミットの決断主義は権威主義的決断主義の色彩を濃厚にもつといわざるをえないのである。

 *1拙稿「カール・シュミットにおける国家倫理」、『ユリスプルデンティア 国際比較法制研究U』(ミネルヴァ書房 1993)所収、96-99頁参照。

 このような丸山の国民的決断主義は、民主主義を自由主義と対立的なもの−−上述3−2−−の意味においてであって、丸山自身の用語法に基づく議論からはこのことは表面化してこない−−とする思想史解釈を成立させる。戦後のある論文において丸山は、中世的権力構造を解体した近代においては、「唯一最高の国家主権」と「自由平等な個人」という二元性が成立するが、この二元性はルソーによって克服され、統合されたと解釈している。個人の側から「自由権」による「主権」の「制限」を要請する自由主義的立場は、この二元性がそのまま維持されていて、「唯一最高の国家主権」と「自由平等な個人」が別々のものとして併存し対立している限りにおいて有意味である。しかし、諸個人が政治化して「“公民”として主権に一体化し」、「国民」として「主権を完全に掌握し」てその二元性を一元化した場合、つまり国家の主権が国民の主権となった場合、「国家の万能は、理論的には、なんら国民的自由の制限にはならない筈だ」から、自由主義は固有の意味を失うと考えられる。国民の主権が国民を抑圧する筈がないから、というわけである。  しかし、「ルソー的理論への反情」をもっているバートランド・ラッセルは、この意味での「国家の万能」をすら、「全体主義」だと指弾する。しかし、丸山は、そうだとすると、「フランス革命憲法、とくにジャコバン憲法はまさしく全体主義の典型といわねばな」らないことになる、と反論する(B、73-73頁)。この丸山の議論は、明らかに、主権の発動は国民的決断に由来すると見る国民的決断主義を、そしてそれをルソー起源と見る理解を示している。  丸山は、学生時代の懸賞応募論文「政治学に於ける国家の概念」の中で、「弁証法的な全体主義」という概念を提起し、それは当時の「全体主義」から区別されるべきことを強調していた(@、31頁)が、これが何を意味しているのかは、このラッセルとの応答から明らかとなる。「弁証法的な全体主義」という概念は、しばしばラッセルのような自由主義者に「全体主義」と誤って批判されるところのルソー的民主主義のことなのである。そしてそこではそれが、「個人か国家かの Entweder-Oder の上に立つ個人主義的国家観」に、したがって自由主義的国家観に、対置されていたのである。  丸山の懸賞応募論文は、この「弁証法的な全体主義」による、独占資本の寡頭支配形態にまで達した市民社会の内在的矛盾(@、26頁参照)の解決を要求する一面をもっていた。それゆえこの論文の結語部分で、若き丸山は、「我々の求めるものは…個人主義的国家観でもなければ…中世的団体主義でもなく、況んや両者の奇怪な折衷たるファシズム国家ではありえない。個人は国家を媒介としてのみ具体的定立をえつつ、しかも絶えず国家に対して否定的独立を保持するごとき関係に立たねばならぬ。しかもそうした関係は市民社会の制約を受けている国家構造からは到底生じえない」(@、31頁)、というのである。  この丸山の指摘は、次のようにパラフレーズ可能であろう。すなわち、自律的で自覚的なナショナリストたる個人−−「国家を媒介としてのみ具体的定立をえつつ、しかも絶えず国家に対して否定的独立を保持する」ような個人−−が、「弁証法的な全体主義」(=ルソー的民主主義)を体現する国家、つまり「自然権と国家主権の絶対性」との「二元」性を克服し、それを国民主権において「調和」させた(@、14-15頁)国家を構成し、もってその国家を市民社会の制約から脱却させるだけでなく、むしろ逆に市民社会を統制していくべきだ、と。つまり、丸山は、政治的指導者の決断を媒介とした政治組織改革ということで、「市民社会の制約を受けている国家構造」のルソー主義的な改革という方向性を展望しようとしているのである。それゆえにこそ、二元性に固執する自由主義的国家観は、超克の対象とされるのである。  しかし、「或日の会話」以後の丸山の発言から見る限り、指導者の決断という観点から見た近衛新体制への期待は、直ちに裏切られたようである。つまり、この展望はその発展を阻害する要因が根強く残存する日本の現実の中で挫折した。このことは、例えば1948年に公表された論文「日本ファシズムの思想と行動」で、「近衛新体制運動」は、それが「成立当初のいわばほんの一瞬間」は「国民再組織としていくらかでも下からの要素を代表するかに見えた」。だが、そのような動きは「忽ち旧勢力の反撃にあって」、結局は「官製的=形式的なものになってしまった」(B、270頁)、と述べていることから明らかである。「新しい経済体制樹立という『大事』の主体的媒介者」たるべき近衛の決断は空振りに終わり、下からの「国民再組織」の可能性は、官僚主義の中に飲み込まれてしまった。指導者の決断は、国民的次元での決断を誘発しえず、国民の前近代的心理を克服することができなかった。かくして「日本ファシズムは…独自の国民組織をついに持つことなく、明治以来の官僚的支配様式とえせ立憲制を維持したまま八・一五を迎えた」のであった(B、313頁)。  この言葉に表現される事態を、丸山は、実は既に戦時中に感じ取っていた。そのことが、「或日の会話」の約一年から二年後にかけて公表された「『自然』と『作為』」論文を執筆する日本思想史研究者としての丸山に、次のようにいわせた。「徂徠学」は、幕末期にはさまざまな思想家に受け継がれて、「著しくその内容を豊にし」、「作為の立場」は「具体的発展」を遂げていった。にもかわらず、「作為の立場そのものの理論的展開は殆ど全く見られなかった」。つまり、「作為する主体が聖人或は徳川将軍という如き特定の人格に限定されている」という「理論的制約」から、ついに脱却できなかった(A、107頁)。政治的指導者の権威主義的決断主義という「制約」を克服しえなかった、というわけである。そもそも「徂徠学」とその系譜には、この制約が「執拗に附纏って」おり、「『人作説』(=社会契約説)への進展の契機が全く欠如していた」(A、107頁)。  この「『自然』と『作為』」論文には、徂徠学の作為の論理の発展形態としての「近世末期の一連の制度改革論」では、結局制度が「上から樹立さるべき」ものと考えられ、「庶民は…なんら能動的地位を認められていない」。ここに、この「一連の制度改革論の変革性を制約した共通の特色」があった(A、107頁)、という指摘が見出される。これは、丸山の胸中においては、この近衛新体制という「上から」の「新しき制度の作為」にもかかわらず、それが下からの決断を誘発するどころか、それへの下からの「根強い心理的抵抗」がその意図の貫徹を阻害するという構図が、幕末の制度改革論が遭遇した時の構図と二重写しになっていたことを、しかも幕末期の限界が依然として現在の限界を規定していると考えられていることを、推察させる。つまり、丸山における思想史研究と時論との関係のあり方を、具体的に推察させる性格をもっている。  無論、近世末期に比べれば、近衛新体制においては、庶民にも能動的な地位が割り振られていた。その点に、近世末期の制度改革論と総動員体制論との決定的な差異がある。しかし、庶民は、「総力戦体制」が不可欠になってきた段階においても、依然として旧来の「自然」の中に埋没したままで、「『人作説』(=社会契約説)への進展の契機」を、つまり自らが総動員体制の中で能動的な地位を担い切るという契機を、「欠如」させていた(同)。この点は、近世末期と同様であった。総動員体制の不首尾は、かくして「明治時代は全市民的=近代的な瞬間を一時ももたなかった」(A、124頁)ことの歴史的帰結でもある。  ここで丸山は既に、(2)の展望の現実化の阻害要因の究明という(3)の課題に向かいつつある。しかしその前に確認しておきたいことがある。丸山は、ルソー的民主主義の核心は、〈下からの権力形成〉にあると見ていた点に関わることである。そのような発想が、「近衛新体制運動」も「ほんの一瞬間」は「国民再組織としていくらかでも下からの要素を代表するかに見えた」ことに着目させていた。この意味で、丸山の民主主義観は、たとえ下からであろうと、権力主義的な性格をもつものであった。そして、〈下からの権力形成〉として成立したものであれば、その権力は、丸山の批判を免れることができた。  丸山が民主主義の核心を〈下からの権力形成〉に見ていたことを、またそのことの問題性を、最も明らさまにしているのは、1948年に発表された論文「日本ファシズムの思想と行動」における次の一文であろう。そこで丸山は、なぜ戦前の日本においては、「国民の下からのファシズム−−民間から起つたファシズム運動がヘゲモニーをとらなかつたのか。なぜファシズム革命がなかつたのか」と問う。そして、「ファシズムの進行における『下から』の要素の強さはその国における民主主義の強さによつて規定される」、つまり「民主主義革命を経ていないところでは、典型的なファシズム運動の下からの成長もまたありえない」という(B、315頁)。  この丸山の指摘は、民主主義革命での〈下からの権力形成〉を経験していないところでは、〈下からの権力形成〉を通してのファシズムも、また〈下からの権力形成〉を通しての総力戦体制の構築もなしえない、ということを意味する。ここに、戦前の丸山の近衛新体制を見る観点が人を当惑させる原因がある。近衛新体制の〈下からの権力形成〉を通しての構築への期待が民主主義への期待であることになるからだ。戦後の丸山は、この発想の問題性に気づいて、民主主義と「下からのファシズム」との親縁性を指摘しながら、同時にその差異を明らかにすることに力を注いだ。なるほどその差異化は一定の成功を収めてはいる。しかし、丸山の民主主義理解それ自体の問題性は、その差異が明らかにされたとしても、残り続ける。

 (3)シュミット的決断主義の国民的決断主義への転回という展望は、現実政治的には挫折した。かくして丸山は、指導者の決断が国民的決断を誘発してそれを自らの政治的基盤とすることを阻害した要因の究明に向かう。この阻害要因は、丸山にとっては、つまるところ日本のナショナリズムがその近代化過程において「国民形成の『前期的』段階」=「『前期的』国民主義」の克服に失敗したこと、それに由来するさまざまなマイナス面を抱えもったこと、にあった。  そのことを、1953年の「日本におけるファシズム」の議論は、あらためて明らさまにしている。それによれば、〈国民形成の「前期的」段階〉の未克服のゆえに、戦時中の日本は、合理的な「総力戦体制」の構築に失敗した。それどころか、そのマイナス面は、「総力戦体制」の足を引っぱりさえした。このマイナス面は、「戦争がいわゆる総力戦的段階に進化し、国民生活の全面的組織化を必須とする」局面において、その実現を求める「叫喚的なスローガン」にもかかわらず、「逆比例」的に「暴露されて行った」(D、70頁)。丸山は、その具体的な事例を挙げている。  まずは、@「強制疎開計画の実施や労働力の徴用配置や工業生産力の拡充」というような、総力戦体制に必要・不可欠とされた政策が、このマイナス面を象徴する「家族主義や『農本』思想や『郷土愛』」によって「根強い心理的抵抗を受けた」という事実。  更には、A大政翼賛会は、「東条翼賛選挙の際、…『縁故や情実による投票の悪弊を断乎廃して国家公共の見地から候補者を選択せよ』」との趣旨を、「各地で演じた紙芝居」で「繰返し説」かねばならなかった。つまり、「前期的」国民主義は、「東条翼賛選挙」にとってさえ桎梏になった。従って、大政翼賛会は「近代的選挙の精神」−−つまりは民主的選挙の精神−−を、国民に説かねばならなかった、という皮肉な事実。  これらの事実は、丸山によれば、「日本帝国の支配層がナショナリズムの合理化を怠り、むしろその非合理的起源の利用に熱中」したことの「代償」であった。その非合理性の利用に熱中した連中は、「国家総動員の段階に至って初めてその法外の高価に気づ」かねばならなかった。この意味では、「国家総動員の段階」では、「ナショナリズムの合理化」が緊急の必要事であった。しかし、当然だが、「時はすでに遅かった」(D、70頁)。  つまり、戦前の対話風エッセイにおいては、丸山は、近衛が「決断」を下して「国民生活の全面的組織化」へ向けて「新体制」を発足させたことを、徂徠学的・シュミット的枠組から、ある種の期待をこめて、肯定的に見ていた。しかし、その期待は裏切られた。指導者の決断は国民的決断にまで深化・拡大されなかった。近衛新体制と東条翼賛選挙を批判的に回顧する戦後の丸山の議論は、その期待を裏切った最深の根拠たる日本の「前期的」国民主義の問題性を、つまり合理的な「国家総動員体制」をも構築しえない「ナショナリズムの合理化」の未完を、あらためて確認しているのである。  しかしこの問題は、戦前の論文「『自然』と『作為』」においても、「国民主義の『前期的』形成」においても、明確に意識されて投影されていた。「『自然』と『作為』」への投影に関しては、前項末尾で既に示唆した。ここでは、「国民主義の『前期的』形成」への投影を、簡単に確認しておこう。  そもそも日本における「『前期的』国民主義」は、明確には、「外船渡来」によって成立した。この意味で、「外船渡来」は、「国民意識の割拠的分裂を白日下に照し出す契機」であった。と同時に、「それの止揚としての国民的統一観念を発芽せしめる契機でもあった」(A、245頁)。吉田松陰において、「尊皇攘夷論」は、「歴史的限界の許す限りの道程を歩み尽」した(A、263頁)。つまり、松陰は、「尊皇攘夷の推進力を幕府から諸侯、諸侯より家臣、家臣より浪人へと漸次下の社会層に求めて行った」。だが、松陰が「最後に望みを託したのは、『草莽の志士』であって、かつそこにとどまった」。「外船渡来」の国家的危機の中で、「国家的独立の責任を最後まで担う者は誰か」という問題が問われたのに、それに「国民の政治的総動員」という回答が発せられることはなく、その発想が成立しえないことが問題視されることもなかった(A、265頁、266頁)。  この丸山の議論は、徂徠学的・シュミット的な決断主義が国民的決断主義にまで転回していかなかったことを、あらためて思想史的に確認する意味をもっている。しかも、幕末期の問題に「国民の政治的総動員」といった語を動員しているという事実からは、近衛新体制の後退に対する丸山の詠嘆を読みとることができる。  ともあれ、「『前期的』国民主義」の非合理性は、「国家的独立の責任を最後まで担う者」は「国民」だ、「国民の政治的総動員」だということが明確に貫徹されなかったことに起因する。その不貫徹が、非合理的な要素の動員によって補完されていった。それが日本が「超国家主義」への道を辿っていく原因となった。逆にいえば、この時点の丸山には、このような「『前期的』国民主義」の限界が克服され、国家的独立(=政治力の国家的凝集・集中)を達成して、そこに国民的統一(=政治力の国民的浸透)を可能にし、「国民の政治的総動員」を可能にする方向性を明確に追求した時、「近代的国民主義」が成立可能になるという構図が準備されている。陸羯南は、明治二十年代にこの課題に遭遇したし、丸山も戦前のこの段階で、あらためてその課題に行きあたっていたのである。  ともあれ、欠如しているのは、「国民の政治的総動員」あるいはデモクラシーの契機、つまり〈下からの権力形成〉である。「前期的」国民主義は、「国家的独立(=政治力の国家的凝集・集中)」の必要性に対しては比較的鋭敏であったが、その反面「政治的関心を益々広き社会層へ浸透せしめ、それによって、国民を従前の国家的秩序に対する責任なき受動的依存状態から脱却せしめてその総力を政治的に動員するという課題」−−あるいは、「現実に国民の政治的総動員を不可能ならしめている社会的素因にまで突進んだ見解」−−は、「著しく遅れ」あるいは、「殆ど見られな」かった(A、265頁、266頁)。この議論に丸山が眼前に見ていた事態に対する彼の感想が盛りこまれていることは明らかだ。

 3−3 さて、われわれは、丸山における戦前の時事問題に対する問題関心と思想史学者としての丸山の理論の形成とが絡みあって発展していく様相を、(1)(2)(3)の段階に区別して垣間見た。その発展過程を、〈下からの権力形成〉を軸とする国民主義的民主主義思想が貫いていたことは、明らかであろう。それは「前期的」国民主義の克服をこそ主要な課題だと見る問題意識に支えられたものであった。そしてその限りで、丸山の立場は、既存の国家秩序との闘争において国家からの自由を求める自由主義を包摂しうるものであった。その自由主義の要求は、〈ウルトラ・ナショナリズムからの、民主主義国家への自由〉という丸山の立場と歩調を合わせることが可能だったのである。しかし、その立場が自由主義を包摂し得るのは、丸山の課題が「前期的」国民主義の克服にある限りにおいてである。そしてその限りにおいて、したがって戦後においても、この課題が実践的意味をもちえた限りにおいて、この民主主義思想の難点は全面的に露呈せずに済んだ。  このようにいいうる所以を、自由主義と民主主義の関係に関わるより一般的な論理次元に降り立って確認しておきたい。「ラッセル『西洋哲学史』(近世)を読む」において、丸山は、「近代的な自由意識というものは…無規定的な単なる遠心的・非社会的自由ではなくて、本質的に政治的自由なのだ」として、「“国家からの自由”として表象される初期の自由主義も」、実際には没政治的だったわけではなく、「政治的秩序に絶えず立ち向」い、「既存の国家秩序との闘争に於て自由権の獲得を志向していた」という(B、72頁)。  この丸山の議論は、自由主義の固有性を消去して民主主義に解消しようとする議論の出発点となっている。つまり丸山はまず、自由主義から、非政治的なそれを排除する。また、それを具体的に前近代的な「既存の国家秩序からの自由」を志向していたと見て、“国家一般からの自由”という意味をも消去する。そうしておいて、その「既存の国家秩序からの自由」は当然に「民主主義的国家への自由」を排除しないばかりか、むしろそれを必然的に含意すると考えるのである。  こうして、丸山は自由主義を「既存の国家秩序からの、民主主義的国家への自由」を要求するものとして再構成する。かくして、丸山によれば、自由主義が、「自由権」の獲得を通して絶対主義国家の主権の制限を求めねばならなかったのは、結局は、主権が国民に担われた民主主義的なものではなかったから、従って主権が国民の自由を侵害する危険があったからであった。つまり、もし主権が国民に担われる民主主義国家の段階になれば、このような主権の制限は、理論的には、不必要になるというわけだ。民主主義国家においては、「自然権と国家主権の絶対性」という「二元」性が克服され、「調和」するに至る。かくして、民主主義国家が成立すると、自由主義は、固有の意味を喪失する。つまり、自由主義は民主主義に吸収されて、その一契機となる。丸山にとって、自由主義とは、ルソー的民主主義への流入していくべきものであり、「『人作説』(=社会契約論)」への進展の契機」をもつ限りで、意味あるものであった。  この丸山の論理は、“国家からの自由”のスローガンは一般性をもたず、「民主主義的国家への自由」と決して矛盾しないと考える場合にのみ、妥当性をもつ。しかし、もし自由主義が“国家からの自由”のスローガンを国家一般に対して主張する立場だと解するなら、したがって“民主主義国家からの自由”をも主張する立場だと解するなら、丸山の論理は、このように解する自由主義者にとっては、耐え難く抑圧的なものになる。既にみた丸山とラッセルの対立は、このような次元で生じていたのである。 丸山の民主主義思想の難点は、課題が「前期的」国民主義の克服にある限りにおいて、全面的に露呈せずに済んだと述べたのは、この意味においてである。課題が「前期的」国民主義でなくなったとたんに、そして国民主義的民主主義が基本的に実現されたとたんに、丸山的民主主義思想は、自由主義思想に対して抑圧的な様相を示してしまうのである。 ラッセルは丸山と全く違ったルソー解釈を提示し、ルソーの『社会契約論』は、「“デモクラシー”への lip service 」をしながら、実際は「全体主義国家の justification に傾いている」と言い切っている(B、70頁)。つまり、ラッセルは、民主主義国家においても、「国家主権」と「自由平等な個人」の間の緊張関係は消失せず、それゆえ“国家からの自由”というスローガンを主張し続けることには、十分な意味があると考えている。それゆえ、ラッセルは、「国民が主権を完全に掌握している限り、国家主権の万能は…国民的自由の制限にはならない」と見るルソー主義に反撥し、そこに「全体主義国家」の正当化論を見る。つまり、主権と個人の対立緊張関係を見失った民主主義は、私生活をすべて組織化し政治化しようとする全体主義に容易につながっていく、というのである。 私には、これまで見てきた丸山の合理的な総動員体制に憧憬する議論を想起すれば、このラッセルの議論は、誠に問題の核心を衝くもののように思われる。しかし、ルソー主義者としての丸山は、勿論このラッセルのルソー批判には首肯しない。かくして丸山は、このような形での「ルソー理論への反情は、結局、民主主義のもたらす多数の“圧制”に対する個人主義者の本能的恐怖に根ざしている」のだ、といい放つ(B、73頁)。しかし、もしラッセルのいうように自由主義者ロックをルソーから明確に区別しうるのであれば−−丸山はそれに反撥するが(B、70-71頁参照)−−、この丸山の言葉は問題の本質を衝いてはいないことになる。このような問題が存在するがゆえにこそ、私は、「自由主義」と「民主主義」を厳密に区別するラートブルフの議論を本稿の出発点としたのである。  こうして、丸山の主権論とそれを担う国民的主体の形成という問題設定は、民主主義の実現された段階においては、「国家からの自由」を価値と見る自由主義を排除しようとする内的衝動を顕在化させることが明かとなった。「新しい社会運動」などの現代的運動が戦後民主主義の地平を超えようとするのは、この意味では必然的なことだというべきなのだ。古典的な意味での自由主義を丸山の議論から弁護することが重要なのではない。問題は、そのような発想が、国民国家を相対化しようとする〈市民的政治文化〉への志向性と相容れないものだという点にある。この点の具体的な論及は、本稿においてなしうるところではない。ここでは、このような問題の所在だけを指摘しておこう。

 七、隅谷三喜男は、ある論文で、「日本においては…ついに[戦争に対する]抵抗運動は運動としては生起しなかった」、といっている。なるほど「戦争に対する消極的非協力や、戦争による生活の困窮に対する不満、軍事ファシズムに対する不信、さらに侵略戦争に対する個人的抵抗といったものがなかったわけではない」。だが、それは「抵抗運動」にはならなかった、というのである。  ではそれはなぜ「抵抗運動」にはならなかったのか。隅谷は、そもそも「日本には、『抵抗』という思想が存在しなかった」からだ。「より正確にいえば、[日本の]伝統的価値体系の中では、抵抗に対して積極的な評価が与えられ」ず、「むしろ『無抵抗』に積極的な価値が賦与されていた」(『日本社会思想の座標軸』(東大出版 1983)、196頁)からだ、という。このことは、現代においても、依然として妥当するといわねばならないであろう。  「長いものには巻かれろ」とか「出る杭は打たれる」といった言葉は、国家権力や会社権力との緊張関係に陥りそうになった人に、自らの譲歩によってそれを解消させる行動をとらせるために、依然として大きな力を発揮している。そしてそのような行為は「和の精神」に適ったものとして称賛される。このことを念頭に置けば、私は、この隅谷の指摘には、依然として深刻な意味がある、と思う。しかもこの指摘は、主権的国民国家の終焉と〈市民的政治文化〉の構築との関係において、また会社主義の解体の展望との関係において、玩味すべき意味をもっている。  しかし、私は隅谷の議論を全面的に肯定するわけではない。隅谷は、日本における「抵抗思想」の不在という問題の根源を、天皇制とそれに象徴される日本的共同体イデオロギー・家族主義イデオロギーに求めようとしている(同、195頁、また197頁以下)。無論、その指摘は決して誤りではない。しかし私は、更に、そのような日本的共同体イデオロギーを克服しようとした民主主義思想それ自体にも、抵抗の思想は基本的に欠落していた、と考えている。そこには、民主主義の健全性を維持するためには、民主主義的多数派に対する少数者の市民的不服従の運動が不可欠だというような発想*1は、十分には存在しない*2。そのような民主主義思想は、その欠落の反面として、やや過剰な同調志向を、下からの自発的な協調志向を、内在させていた。  いな、むしろそのようなものとしての民主主義思想が日本的共同体イデオロギーの克服を標榜してきたがゆえに、ある意味では、その欠落は日本的共同体イデオロギーが抱えていた問題以上に深刻な問題だとさえいいうるのかもしれない。つまり、日本社会は、コンセンサスの過剰−−無論、それは「根まわし」・「以心伝心」・「無言の圧力」といった言葉に象徴される歪んだコンセンサスではあろうが−−に悩み、ディセントの過少に悩んでいるのではないのか。民主主義の過剰による反権威主義的自由主義の過小に悩んでいるのではないのか。この点があらためて真摯に反省されるべきであろうと思われるのである。無論、ここには更に検討されるべきさまざまな問題が絡み合っている。しかし、本稿では、さしあたりこのことを指摘しておくことで満足しておかなければならない。

 *1この点については、不十分なものながら、拙稿「価値相対主義の問題性と市民的不服従」(今井弘道編『法思想史的地平』(昭和堂 1990)所収)の200頁以下、および「『主権国家』の終焉と市民的不服従」(『月刊フォーラム』、1996年5月号掲載)を参照。 *2このような発想が丸山に全くないわけでは決してない。しかし、このような問題領域に関わる丸山の指摘は、十分な展開がなされていない。私は、そのことは丸山の思想の上述のような構造に根拠をもつのではないか、と推測している。

 [追記]本稿は、『月刊フォーラム』1987年8月号の「民主主義の可能性」という特集に掲載されたものである。この論文は、この時期の私の丸山への関心の一断面を、この特集の趣旨にあわせて短時間でまとめたものであって、丸山論それ自体としては、決して十分なものではない。しかし、このような一面を含む丸山の全体像については、やがて私なりに纏め、その不十分さを補う機会ももちうるだろうと考えて、それに内容に関わらない表現技術的ないくつかの修正を加えただけで、ここに収録して頂くことにした。