特殊講義 2002.前期 Hiromichi IMAI

 以下の議論は、講義プリントの3−2に対する補完的議論である。そのことに触れる前に、

 http://www.juris.hokudai.ac.jp/~imai/(仮完成という段階であるが、過去のプリントはここから取り込むことができる 質問・意見は、imaihiro@ed.hokudai.ac.jpに、ということは、既にいったが、 HPのメールのところをクリックすると、メールが出せるようになっている)。以上念のため。

福沢は、「「文明」の仕組みを説くにあたって、終始、「徳義」を相対化するような形で論を進めた」。それは、「儒教に育まれた従来の価値観が、「文明」を支える「売買の道」に好意を持たず、むしろ、道徳的非難をもって臨んできたことを意識して、「文明」をそうした非難から解放しようとする意図」が働いていたからだ。「実際、明治期において、多くの士族たち、そして、彼らによって構成された民権派の論客、また、中江兆民や、その弟子で明治社会主義の思想家となる幸徳秋水などは、総じて、売買や流通に従事することを名誉あることと見倣さず、それを、道徳的非難の気分で眺めるという点で共通するものがありました。たとえば、中江兆民は、J・J・ルソーの文明批判の書である『学問芸術論』を高く評価しますが、それは、ルソーが、「技芸の圃を墾き貨利の竇を闢く」こと、すなわち、科学技術の発達と商業活動の進展に努めることを批判し、もっぱら「道義」を重んじて、「利欲」に犯されない人格を育むことを重視した点に、「三代の法」、すなわち、儒教でいう太古の理想的な統治のあり方と共通するものを認めたからでした(「原政」、M11)。すなわち、福沢の考えるような意味での「文明」は、儒教に由来する兆民の道徳観からは、原則として好ましいものとは見倣されなかったのです。こうした反商業主義的な見方や気分は、その後の多くの日本の知識人や一般の人々に受け継がれていったように思われます」(坂本多加雄『新しい福沢諭吉』(講談社現代新書 1997)、79-80頁)。
 上の傍線部分が抱えもつ問題は、日本におけるルソー問題のひとつの核心を衝いていて、重大だ。

 この民権派の論者たちは、「真の「独立自主ノ精神」の発揮を政治領域での活動に求めた」。「人間は、政治参加を通して、まさに人間の名にふさわしい存在たりうる」、と考えたわけである。このような思想は、「伝統的な士族意識を基盤としつつ、ルソーなどの西欧思想の影響を被りながら、日本近代において一つの伝統を形成してい」く。
 そこで「無視できない」のが「中江兆民の議論」である。「兆民は、君主の専制のもとにある人民は、「鄙汚蛆虫の如」きものであると論じ、議会の開設の意義について、一般人民が単なる「生産的動物」を脱して「政治的動物」となった点にあると述べ(『選挙人目さまし』、M23〕、また「実業家も亦政治界を離れて別に生活す可き箇所なし」と記して(「実業家と政治家」、M21)、政治生活の私生活への優位を主張します。兆民の場合は、「禽獣の道」と「人倫」とを区別する儒教の考え方を継承しながら、それを民主主義を支える思想へと革新して、人間が単なる私生活の主体でしかない場合は、「禽獣」、よりひどくは「蛆虫」に等しき存在であり、政治参加を通して、すなわち、「政治的動物」たることで、まさしく、「人倫」の主体としての人間の名に値する存在となると考えられていたのです(参照拙著『市場・道徳・秩序』第三章)」(坂本多加雄、同、136-137頁より)。

「仏学塾における漢学の学習は兆民の意図の実践であったろう。徳性の涵養のため「孔孟の書」を課すというのであるから、漢学学習には文章力の養成というより道徳とか精神、ひいては人間性の啓発といった意味があったと思われる。慶応義塾においても漢書講義がカリキュラムに組まれていたから、義塾で漢学が軽視されていたとはいえないが、福沢が儒学は無用の学とみなしていたからには、義塾の漢書講義も実用的な役割を期待してのことであって、道徳とか精神養成といった側面は考えていなかったと思われる」(松永昌三『福沢諭吉と中江兆民』(中公新書 2001)、64頁)。

 「中江の教育姿勢は生徒の自主性を尊重するところにあった。師弟の関係も自由で、学問を志す者として対等であったとみられる。「孔孟の教」重視は、道徳律を強調し徳目を強制することにあったのではなく、人間の内面性の開発=徳性の培養に主眼が置かれたもので、中江のいう"リベルテー・モラル"(心の自由)の涵養が狙いであったといえよう」(松永、同、68頁)。

 この時期の「"リベルテー・モラル"(心の自由)」の危うさ。福沢の功利主義はこの点に対して冷徹な洞察力を持っている。兆民のフランス哲学理解は儒学的教養をベースに成り立っている。


 ここに存在する問題を、東アジアに即して−−正確に言えば、東アジアの文化圏に属する日本に即して−−考えてみる(以下の議論は、今井弘道を研究代表者とする科研費補助金研究成果報告書『経済発展と法意識・法制度の相互関係の研究−−日本と韓国の比較研究を通して−−』(平成12年3月)所収の今井弘道論文に重要な修正を加えた議論である)。

 「明治国家」を「アジア的価値」を体現した開発国家だと理解することができる。このようにいう場合、「アジア的価値」としては、「民是邦本」(『書経』五子之歌編)、「民為貴、杜稜次之、君為軽」(『孟子』尽心下篇)といった観点−−幕末の思想家・横井小楠の言葉に即して言うならば、「人君何天職、代天治百姓」の観点−−に立つ〈民本主義的仁政〉が考えられている。
 この〈民本主義的仁政〉とは、概念としては、三つの契機からなる。@自己統治能力を本来的に持たない民、A「牧民」を天職とする為政者、Bこの両者の関係のあり方としてのパターリズム−−上からの慈恵・教化と下からの恭順という、人権思想とは相互排斥的関係としてのパターナリズム−−である。

「農工商の三民」は「人に隷属し」、「政治国家の思想」は勿論、「何の思想も何の精神ももたず」、従って「国家にどんな変動があってもこれに関わることなく、どんな虐政をも甘じて受け、禽獣と同じ生命を保存するだけであった」一政治世界を自然世界の一部として受容するメンタリティー一。「我国において政治国家の念をもち国民としての資格を有し国家のエネルギーとなったのは士人以上だけであった」(小崎弘道r政教新論」、8頁、現代語訳今井)。
 †儒教文化圏において人権思想が定着しにくいのは、人権に無自覚であるというよりは、政治・社会関係をこのような三契機からなる〈民本主義的仁政〉というパラダイムを通して見る発想が拭いがたく存在しているからである−−この思考様式は、福祉「国家」論を前提とした生存権思想と親和的な性格をもつ−−。しかもそのパラダイムは、血縁・地縁関係などの日常生活の中で、不断に維持・再生産されている。
 一歩踏み込んでいえば、この儒教的国家を近代法学的に分析し把握するということそれ自体が、実は背理的なことなのである。丸山真男は、ドイツ国家学の歴史においては、「政治的な領域」をめぐる学問が、市民の行為を起点とする「政治学」−−社会契約論を想起せよ!−−という形では展開されなかった。それは、むしろ「行政学」−−行政学的性格を濃厚にもつ「国家学」や「国法学」を含めて−−として展開され、「政治的な領域」がこの「行政学」の発展の中に「のみこまれてしまった」、と指摘している。その原因は、丸山によれば、学問がドイツにおける「市民的自由のひ弱さと、これに対する官僚機構の磐石のような支配力を反映した」ことにあった。このような事実も以上の問題と同じ根源から生じたことであろう。「行政学」的発想は、儒教的政治観念とは親和的なのである。換言すれば、〈市民的政治文化〉が形成されなかった分だけ、政治本来の領域−−政治的共同体において共有される政治目標の確定に関わり、その確定に参加する中で個人が自分と社会全体の関係のあり方を自覚する営みとしての「政治」の領域−−は「行政」の領域に吸収されたわけである。

 この〈民本主義的仁政〉を価値と見る発想は、儒教文化圏において普遍的である−−そこにおいては、マキャヴェリ・ホッブス的な権力観は受容されにくい←→政治を悪(少なくとも必要悪)と見る観念も成立しがたい−−。だが、政治的支配を血縁的共同体の構成原理によって正当化したものとして、この三契機(父・子・配慮)をその本質とする儒教的〈民本主義的仁政〉は、政治的諸関係を父子関係のアナロジーと見ることが限界に達するところにおいて、有効性を喪失する。

 日本では、明治末期に、この三契機は、自然法を拒絶したドイツ的な有機体説を儒教的に換骨奪胎した上で、「家族的国家観」一「族父族子の団結即ち所謂族父統治の国体」(加藤弘之)の有機体としての理解一として表現された。官僚合理性が前面に出、また社会的諸矛盾が覆い難くなってきたときに、国家と社会を融合させるこのような血縁共同体的イメージが再喚起されたことは、なかなか示唆的である。31

 「アジア的価値」を〈民本主義的仁政〉に見る場合、その最深の基礎は、「自己統治能力を本来的に持たない民」という観念−−それは、更に、「国家」から独立した「社会」(Gesellschaft)の自律性という観念の欠如と対応している−−のリアリティにある。そして、「アジア的価値」は、この観念のリアリティに立脚している。この観念がリアリティをもたないところでは、それは、反価値となる。そこでは、〈民本主義的仁政〉という観念も、儒教的国家も維持され得ない。ところで、この「自己統治能力を本来的に持たない民」に施されるべき仁政とは、自然主義的・快楽主義的人間観を前提とした苦悩の最小化・快楽の最大化を内容とする。この意味で、〈民本主義的仁政〉という「アジア的価値」は、カント的な人格の自律−−西欧近代民主主義の当然の前提−−とは対極的な価値である。

 「啓蒙とは、人間が自己の未成年状態を脱却することである。しかしこの状態は、人間が自ら招いたものであるから、人間自身にその責任がある。未成年とは、他者の指導がなければ自己の悟性を使用し得ない状態である。またかかる未成年状態にあることは人間自身に責任があるというのは……他者の指導がなくても自分から敢えで1吾性を使用しようとする決意と勇気とを欠くところに存するからである、それだから『敢えて賢明であれ』『自己みずからの悟性を使用する勇気をもて』、これが啓蒙の標語である」(カント『啓蒙とは何か』)。

 〈民本主義的仁政〉と西欧近代民主主義の差異を、制度論的次元で考えれば、次のようにいえる。さしあたり、西欧近代の法・政治体制の特質を、the govemment,of the people(=人民主権),by the people(=人民の政治参加),for the people(=政治目的としての人民)という語に代表させておこう。その場合、民本主義的仁政は、かろうじてfor the people(=政治目的としての人民)の要件だけは充足する。しかし、他の要件には充足しない。民本主義的仁政とは、君の、君による、人民のための政治に過ぎない。つまり、民本主義的仁政は、政治的主体(=君)と政治的客体(=民)の、融解することのない二元論を前提としている−−前項で示した自然主義的人間観=快楽主義的・功利主義的人間観=愚民観こそは、この二元論の背後にあるものである−−。
 ここでは、政治の核心が政治的共同体を構成する市民の主権的意思形成にあるというギリシャ・ポリス以来のヨーロッパ的政治観念は成立せず、政治は行政−−政治的主体(=君)の政治的客体(=民)に対する働きかけ−−に解消される。但し、このように〈民本主義的仁政〉と西欧近代民主主義が概念的に対極に位置するものであることは、儒教文化圏においては、明確に自覚されていないことが多い

 以上を踏まえていえば、兆民のルソー受容は、国民的次元で全体として為政者になることというように観念されており、《国家から独立した社会の、独立した成員》になるという発想はない。
 戦前の丸山においてもこの点は怪しい。

 丸山は、福沢を「個人主義者たることに於てまさに国家主義者だつた」と見ることが有意味だといっていた。それはどういう意味か。丸山によれば、「国家を個人の内面的自由に媒介せしめたこと−福沢諭吉といふ一個の人間が日本思想史に出現したことの意味はかかつて此処にあるとすらいへる」。
 われわれは既にこの言葉を見た。この言葉は、次の丸山の緑会論文の結語に通じている。そして、その結語は、更に、田辺哲学に通じるものをもっている。簡単にこのことを確認しておこう。

 「今や全体主義国家の観念は世界を風靡している。しかしその核心を極めればそれはそれが表面上排撃しつつある個人主義国家観の究極の発展形態にほかならない。我々の求めるものは個人か国家かのentweder-oderの上に立つ個人主義的国家観でもなければ、個人が等族のなかに埋没してしまう中世的団体主義でもなく、況や両者の奇怪な折衷たるファシズム国家観ではありえない。個人は国家を媒介としてのみ具体的定立をえつつ、しかも絶えず国家に対して否定的独立を保持するごとき関係に立たねばならぬ。しかもそうした関係は市民社会の制約を受けている国家構造からは到底生じえないのである。そこに弁証法的な全体主義を今日の全体主義から区別する必要が生じてくる」(丸山、@31頁)。


 「個人は国家に於てのみ実存すると同時に、国家は個人の自主自由を媒介としてのみ国家となる。個の媒介を失えば単なる民族の共同態に過ぎない。それは自然的基体に止まり、直接の自然力を持って個を統一するも、自由自律的なる人格としての個的主体に由つて理性的に統治の主権が確認せられる如き絶対者社会とはならぬ。国家に於ては他治即自治でなければならぬ。個の参政参与の自治即被治なる媒介を欠く直接態としての民族は、国家とは厳に区別せられる」(「存在論の第三段階」、E294頁)。「国家」は「歴史の中に成立しながら、相対即絶対の超越的意味を有する…。併しながら其不断の媒介態は個の主体的実践と相即するものであるから、之が極度に其自由を奪われるならば、国家は単なる民族の自然存在に堕する」(同)。
 田辺の個人主義と民族主義の批判は、E200頁。


 @国民的に官僚になる。みんなが支配者になる。実際には政治参加者としての士族意識の近代化。
 A牧民官としての官僚になる。支配者としての士族意識の近代化。
 B土臭い庶民としてのしぶとさを発揮する。被支配者意識の尖鋭化(農民一揆的メンタリティ)。

 丸山はどうもこの@の意識をある程度引きずっていた。それは丸山の問題というよりも、日本人の政治意識に関わる問題だ。

 「しかしわれわれの見た所では、徂徠の道とは先王の道であり、先王の道の本質は治国平天下という政治性にあった。それならば徳によって万人が道に参与するとは何を意味するか。仁や智のごとき本来的に政治性を担った徳が道と個人との媒介たりうるのは当然であるが、一般個人の特殊技能を涵養することが政治性と如何なる交渉をもつのか。徂徠はいう、「君の斯の民をして学びて以てその徳を成さしむるも、将た何くに之を用ふるか。亦各々その材に因りて以て之に官し、以て諸れを安民の職に供せんと欲するのみ」(同上)。君主はこれら特殊技能を涵養した者を官僚に抜擢する。かくて彼等は君主の政治的支配を輔佐し治国平天下に参与しうる。しかしなお問題は残る。それならば官途に就かないもの若くは就きえない者にとっては徳を磨くことは無用であり、聖人の道は無縁であるか。この疑問はもっと早く提出さるべきであったかもしれない。けだしそれは、聖人の道を専ら政治性に求め個人道徳を政治に従属せしめる徂徠学においては、政治的支配者の限定性と聖人の道の普遍妥当性の関係如何という根本的な問題にまで遡らざるをえないからである。われわれは彼の答問書において次の様な注目すべき言葉を見出す、「農は田を耕して、世界の人を養ひ、工は家器を作りて世界の人につかはせ、商は有無をかよはして世界の人の手伝をなし、士は是を治めて乱れぬやうにいたし候。各自其の役をのみいたし候へ共、相互に助けあひて、一色かけ候ても国土は立不申候。されば人はものすきなる物にて、はなればなれに別なる物にては無之候へば、満世界の人ことごとく人君の民の父母となり給ふを助け候役人に候」(答問書、上)。全人民が皆役人である!これは前の疑問を矛盾なく解決する唯一の方向である。そうして儒教の政治化もまた是に至って極まるのである」(『日本政治思想史研究』、90-91頁)。