特殊講義 2002.前期 Hiromichi IMAI

 前回の講義では、自由主義と民主主義との対比を、ラートブルフの議論に立脚して説明した。そのポイントは、「民主主義は多数者の制約されることのない支配を欲する」が、「自由主義は…多数の意志に抗しても自己を主張する可能性を個別意志に保障することを要求する」、という点にあった。そして、そのような立場の差異が出てくる根拠は、つまるところ、それぞれの立場が前提としている人間観の差異にあった。
 民主主義思想は、人間は、政治体の中で、あるいは国家の中でのみ、十全たる人間になることができると考える。国家の中に生きることが人間の本来的な存在のあり方だ、ということになる。国家への参加が積極的な価値になる。
 これに対して自由主義の国家哲学思想は、「個人の人権、基本権、自由権、すなわち自然的で前国家的な自由の諸部分」こそが、つまり政治体から離れた個人のあり方こそが、最優先されるべき価値であり、それらの価値に対しては、国家は、二次的な手段的存在にすぎないとみる。国家は、手段的価値をもつにすぎず、自体的な価値をもたないというわけである。つまり、自由主義にとって、個人とは、政治的領域に吸収され尽さない something を、しかも個人自身にとって決定的に重要な something をもつものだという点に、その人間論的根拠があった。

 ところで、この問題は、それをもっと一般化して理解しておけば、かなりの射程をもった視野を開くことができるようである。そこで今日は、そのことをもう少し話してみたい。

 例を、ロールズの「第二原理」に求めてみたい。ロールズのこの「原理」は、ある種の所得再分配政策を正当化史、それを提示するという意味をもっている。その背後に、所得再分配政策一般を正当化する人間観が前提とされている。このことに注目したい、というわけである。
 そして、それを、この「ロールズ的意味でのリベラリズム」と「リバティリアリズム」及び「コミュニタリアニズム」の立場との論争の中におき入れて、ラートブルフの議論を一般化する議論を展開してみたい。

 そのために、議論の出発点をLibertarianismの代表的主張者とされるNozickに求めたい。
 因みに、libertarianismという語は、本来の「自由主義」にあたるliberalismの語が、特にアメリカ合衆国においては、古典的な意味とは正反対のwelfare liberalism−−経済的自由の制約(政府による競争経済への介入)」を介して社会的平等や福祉の充実の実現をめざす立場−−を指す言葉として用いられることから、それと区別して古典的な意味での自由主義の現代版を指示するために造語されたものである。日本語では、「自由尊重主義」と訳される場合が多い。

 ノージックは、「人格」を論ずるにあたって、「諸個人の別個独立性の尊重」を強調する。その基礎には、「各個人は目的であって、単なる手段ではない」というカント的原理がある。そして、ここから一切の国家的介入主義に反対する。税の徴収→所得の再分配/社会福祉事業という回路に対して、批判的立場をとる。
 それは、西欧的な普遍主義の中核に位置を占めていたオーソドックスな自由主義の現代的表現。政治的に言えば、国家介入主義的なリベラリズムの社会政策−−大きな政府論−−以前的イデオロギー(cheap government論を想起せよ)の現代的再構成。
 ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』(1974年)のもつ重要性はまさしく次の点にあった。つまり、@「(集産主義的体制と比較して)自由市場の方が資源配分の上で効率的だ」。Aこの観点に立って「自由主義的個人主義[経済的自由主義−今井]を擁護する」。B具体的には、「集産主義的な介入が…自然権や人権に対して加える「暴力」」に他ならないことを示し、それを批判する(ノーマン・バリー『自由の正当性−−古典的自由主義とリバタリアニズム−−』(木鐸社 1990)、13頁)。

 「集産主義的な介入」という語は、具体的には、《国税の徴収→所得の再分配/社会福祉事業》という回路の存立が、自由主義的な市場経済に対して介入主義的・干渉主義的であるということを意味している。
 しかし、なぜ《国税の徴収→所得の再分配/社会福祉事業》という回路の存立は、ノージックの「人格」論と対立することになるのか。そしてノージック的意味における「人格」/「諸個人の別個独立性」を損ねることになるのか。

 ノージックは、人間観その他の点で基本的にジョン・ロックを踏襲している。このロック−ノージックの思想史的関連において核心をなすのは、「人格の自己所有の理念」。
 『市民政府論』においてロックは次のように主張した。「各人は自らの人格のうちに固有のものを有している(Every Man has a Property in his own Person)。これに対して当人以外の何者も一切の権利を持っていない。彼の身体による労働、彼の手になる仕事は、固有の意味で彼のもの、と言ってよいだろう」と。
 つまり、まず「人格」とは「自己」を所有するものだ、というのである。この人格の自己所有の理念から、所有への自然権が導き出される。一個人は「自然が提供し、そのままにしておいた状態から、そのものを取り出して、それに自分の労働を混合して彼自身のものである何ものかを付け加えることによって、そのものを自分の所有物とする」というわけである。このようにして、所有は一切の政治的状態に先立つものとされる。
 先ほど、私は、「自由主義にとって、個人とは、政治的領域に吸収され尽さない something を−−しかも個人自身にとって決定的に重要な something を−−もつものだという点に、その人間論的根拠があった」、と述べた。このsomethingとは、「自己所有の理念」とその論理的帰結としての「所有への自然権」のことだ。ロックはこう考えたわけである。

 ここで注意を要するのは、
 @「自己所有の理念」と「所有への自然権」とを繋いでいるものは、自らが所有する肉体を自ら自身が駆使しての「労働」だということである−−自己労働・自己所有−−。ここで重要なことは、このような個人と権利と所有の理解(possessive individualism)こそが、西欧的な普遍主義の中核に位置を占めていた思想であった、換言すれば、われわれがこれまで問題にしてきた「「普遍的」な「西欧的価値」の源流には、ジョン・ロックの「自己所有の理念」が屹立し、それが近代的人権思想の源流をなしていた、ということである。
 ロックにおいては、人権/権利は「所有(property)」という局面で−−より具体的にいえば、@神とただひとりで向きあう自立した個人[=「自己所有」の主体として、自己の存在に対して、神以外の何人にも負うところのない自立した個人]が、A人間に対して与えられたそれ自体としては意味も価値もない自然を、B自分の労働を通して切り刻み、その生産物を自分の「プロパティ」として「排他的に所有する」という局面で−−、問題にされている。
 ここでは、自然は労働の対象・原料−−しかも無限な−−とみなされるにすぎず、人間の生命と連続性をもち、人間存在を根底において包み支えるものとは理解されない。このような自然観の上に、自立的個人の人権やその財産の権利が成り立っている−−いわば「自然」からも、「隣人同胞」からも疎外されている人間−−。
 このロックの思想は、無論ヴェーバーのいう「プロテスタンティズムの倫理」と内面的に深く繋がっている。つまり、ヴェーバーのプロテスタンティズム批判は、「プロテスタンティズムの倫理」の頽落を衝くことを通して、ロック批判でもある。

 Aこの「労働」を「天職」としての「労働」(=Beruf, calling)と解するとすれば、この《「自己所有の理念」から「所有への自然権」へ》という連関は、人間の宗教的営為の外枠だ、ということになる。つまり、"something"とは人間の宗教的営為のことだ、ということになる。
 Bこの場合、《「自己所有の理念」から「所有への自然権」へ》という連関が「国家以前」のものだと主張することは、宗教的営みへの国家的介入を原理的に拒否することを意味する。宗教的個人主義。宗教的自由主義。
 Cヴェーバーに従って、「プロテスタンティズムの倫理」から「資本主義の精神」への頽落−−『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』においては、ベンジャミン・フランクリンに体現されているところの頽落−−が歴史的にあったということを踏まえれば、この宗教的個人主義/宗教的自由主義は、その頽落に対応して、経済的個人主義/経済的自由主義に転化する−−思想史的には、ロックからアダム・スミスやリカードへ−−。
 Dリバタリアンとしてのノージックの主張は、ノージック的観点からは、しかし倫理的個人主義/倫理的自由主義と経済的個人主義/経済的自由主義の二重性の上に立脚するという意味をもつものと考えられる。このことは、古典的自由主義経緯在学の主張者達についてもいえる。「頽落」をいうのは、自由主義経済への批判の立場からである。

 こうして、「自己所有の理念」を説くロックの所説は、後世のLibertarianたちによって、あらゆる形態の国家干渉主義に対する決定的な反対論の原型と解釈されることになった。国家干渉とは、権力という外なるもの・他なるものによって個人の行動を方向づける「他律」を意味する。それは、「人格の自己所有」という理念の否定に他ならないわけである。因みに、〈パターナリズム〉もまたは、「自己」が他者所有に帰するということを意味する。そして、Libertarianは、国家干渉から高水準の福祉が得られようと、そのことによって自ら補の主張の妥当性が傷つけられることはない、と考える。
  例えばこの立場からは、「道徳的意味合いからいえば、所得を稼いだ者から所得を取り上げてそれを再分配することを弁護するために用いられる外的な道徳原理なるものは、単に、正当に得られた財産を不道徳にも強奪することを、正当化するにすぎない」(バリー、前掲書、16頁)と考えられることになる。

 ここにおいて、国家を介して行われる再分配政策を道徳的に基礎づけようとする「リベラリズム」の平等主義志向それ自体が道徳的批判の対象となり、そこに道徳哲学的/権利論的論争の地平が生じることになる。

ロールズの自由主義…ノージックらのリバタリアンには、ロールズの観点からすれば、人間の「複数性」を前提として成り立つ「共同性の感覚」が欠けている。或いは、「共同性の感覚」を人間にとって構成的な−−人間を成り立たせる上で不可欠な−−契機と考える観点が欠けている。
 この「共同性の感覚」を基礎にする限りで、ロールズの立場は、本来的な意味での自由主義の立場から一歩離れる。
 「「共同性の感覚」とは、「自然のめぐりあわせ−−すなわち、もろもろの生まれつきの才能や能力の運/不運のこと−−に恵まれ、かつ自分たちが恵まれてきていることを知っている人びとは、才能や能力に恵まれない状態にある人びとの生活状態を改善するという条件を満たすかぎりでのみ、自分たちの幸運から利益を得ようとすることができる」というロールズ的な人間了解−−のちに『正義論』第一七節で〈才能の分配=共通資産〉論に仕上げられる直観−−を意味している。
「公正としての正義」という彼の見解は、〈他者の同様な自由と両立できる最も広範な自由に対する全員の権利〉という完全な平等主義だけからなるのではない。〈社会的・経済的不平等は、多数派の利益だけではなく全員の利益になっているときに限り、許容される〉との正当な不平等の可能性についての主張も同時に含んでいる。「生まれつき恵まれた立場にある人びとは、恵まれない人びとの状況を改善するという条件に基づいてのみ、自分たちの幸運から利益を得ることが許される」というわけである。

 以下、この点をめぐるロールズとハイエク/ノージックの対立を意識しつつ、そこを切り口としてロールズの議論を見ていこう。

 「より大きな生来の資質をもつ人は…より価値のある人であり、そのような才能を用いて獲得しうるより大きな利得に値する」と考える人がいるかも知れない。「しかし、そのような見解は、明らかに正しくない」(A Theory of Justice, p.103-104)。
 ここで、「友愛」の原理が強調されることになる。「自由や平等に比べて、友愛という観念は、民主主義論においてあまり大きな位置を占めてこなかった」。その観念は、抽象的に理解されたにとどまり、それがもちうる具体的内容は、あまり明確にされてこなかった。しかし、格差原理は、「友愛の原理に関する一つの解釈」を提供するものと考えることができる(A Theory of Justice, p.105)。
 「格差原理the difference principle*は、分配されている生来の才能を共通の資産と見なし…それを分有しあおうという同意を表わしている。天性によって恵まれた立場にある人々は誰であれ、恵まれなかった人々の状況を改善するという条件に基づいてのみ、自らの幸運から利得を得ることが許される。生まれつき有利な立場にある人々は、単に自分がより多く恵みを得たからというだけの理由で利得をうるべきではなく、訓練と教育のための費用を償い、不運な人々の助けになるように自らの資質を使うべきである。誰もより大なる生来の力量を受けるに値するわけではないし、社会におけるより恵まれた出発点に立つに値するわけではない。…これらの偶然性が最も不運な人のために作用するように、基本構造を定めることができる。こうしてわれわれは格差原理に到達することになるわけである」(A Theory of Justice, p.101-102)。
 *正義の第二原理
【第一原理】各人は、基本的自由に対する平等の権利をもつべきである。その基本的自由は、他の人びとの同様な自由と両立しうる限りにおいて、最大限広範囲にわたる自由でなければならない。
【第二原理】社会的・経済的不平等は、次の二条件を満たすものでなければならない。
(一)それらの不平等が全員の利益になると無理なく予期しうること。
 (二)それらの不平等が全員に開かれている地位や職務に付随するものでしかないこと。

「このような解釈に立脚すれば、友愛の原理は、完全に実行可能な規準になる」。この時、「自由、平等、友愛という伝統的な観念と正義の二原理の民主的解釈とは、以下のように、つまり〈自由〉を第一原理に、〈平等〉を公正な機会の均等と結びつける第一原理の平等の観念に、〈友愛〉を格差原理に、対応させることができる。…以上の考察に照してみれば、二原理の民主的解釈が実力主義の社会に通じていくはずがないことは明らかである」(A Theory of Justice, p.106)。
 このロールズの才能の共通資産論は、ロックの「人格の自己所有の理念」そのものを真っ向から批判している。ここに、ロールズの「道徳」によって「経済」を制約するリベラリズムのモティーフが成立する。実際の政治的文脈においては、このタイプのリベラリズムは、ニュー・ディール期から成立していたが。

ともあれ、このような主張は、ロールズ自身「カント的立場」に依拠して成立するものだと了解しているが、その主張の背後には、後年披瀝されることになるロックへの批判的な意識がある。「カント的視点からすると、ロックの学説は、道徳的人格の社会関係を、その自由や平等にとって外在的で、結局はそれを破壊することになる歴史的・社会的偶然(市場において生じる偶然−今井)に従属させており、その点で不当である」(PL, p.287)。

 ハイエクやノージックはこの「偶然」を受忍されるべきものと見ていた。自由のコスト。だが、ロールズは、それを社会的制度によって克服するべきものと見ている。

 しかし、ロールズの主張には矛盾があるのではないか。ノージックは、この点に「ロールズの正義原理に含まれる実体的な核心」があると見て、「才能のプーリング」論を攻撃の対象としている。その批判とはこうである。
 ロールズによれば、自然的才能の分配を社会全体の「共通資産」と見なし、その分配がもたらす利益を分かちあうという合意を表わしているのが「格差原理」に他ならない。しかし、そのロールズは、功利主義批判を展開する際に、「諸個人の間の相違」や個人の「別個独立性」を否定するものとして批判している。しかし、「才能の共通資産」論は、「人格の別個独立性」を否定することは、功利主義と変わらない。「才能の共通資産論」と功利主義批判とは、整合性を保っていない。

 ただしノージックは、国家による強制的な弱者救済措置を拒否しているのであって、ヴォランタリーな相互扶助の意義は認めているし、「過去の不正義が余りに重大な場合、それを矯正するために〔最小国家以上の働きをする〕拡張国家が短期的に必要とされるかも知れない」という保留も設けている。
 これとの関係でいえば、ロールズのリベラリズムは、「政治的自由の強力な擁護」と「経済的自由への制約(政府による競争経済への介入)」を特徴とするwelfare liberalism(福祉を志向するリベラリズム)という性格を濃厚に帯びている。かくして、その理念の実現は、政府機能にに託されることになる。それは、男女・貧富の別なくあらゆる住民をカバーする社会保障制度と完全雇用を政策目標に掲げて、所得再分配と市場への介入を行なう「ニューディール型リベラリズム」の思想的表現であり、自由放任を旨とする古典的リベラリズムに鋭く対立する「大きな政府」のリベラリズムである。
 現在の福祉国家のパターナリズムは連帯や友愛の絆を見えなくしているが、ノージックが問題にしているのはそのことだと解することもできる。
 しかし、要するにここでの問題は、不平等を焦点とするいわゆる「社会問題」の解決を、個々人の自発的な慈善活動にゆだねるか/国家による強制的な弱者救済措置を必要と見るか、という点にある。

 これについては、私は、マイケル・ウォルツァーの、「ローカルでアマチュアの公務員によって(少なくとも部分的には)運営される、強力な福祉国家」という理念に魅力を感じている。但し、そこには、同時にNPOなどを中心としたヴォランタリー・アソシエーションの機能を更に重ねあわせるべきであろう。こう考えると、問題は直ちに現代日本の「少子高齢社会」をめぐっての議論にもなりうるが、それについては、今は立ち入らない。
 要するに、ここでの問題は、国家と市場と市民社会の構造的関係をめぐっている(ウォルツァー「市民社会論」、思想1996.9所収参照)。

 「才能の共有資産論」は、リバタリアン的個人主義に対するアンチテーゼとしてのみ有意味なのではないか。日本やアジアでは、この議論は危険だ。個と共同体の緊張関係を維持しその緊張関係をcreativeなものとして機能させていく精神的風土がないところでは、マイナスの機能しか果たさないのではないか、と懸念されるからだ。
 私は、この意味から、ノージック的な「自立した個人」のイメージには、ある種の共感を感じる。つまり、日本をふくめたアジア、とりわけ東アジアにおいては、儒教的・家族主義的な共同体的メンタリティは、「人格の別個独立性」を原理的に否定する性格をもっており、それが、市民的政治文化の成熟を疎外する大きな要因となっている。
 このようなアジア的集団主義問題との関連においては、ノージック的人間観は、ラディカルな批判的意味をもっている。
 その意味で、日本/アジアにおいては、リバタリアニズムという思想は、単に保守的なものにとどまるわけではなく、大いに批判的/核心的であるというアンビヴァレントな性格をもっている。そして、儒教的・家族主義的な共同体的メンタリティに批判的な、その意味で反伝統主義的・反保守主義的立場をとる人に、リバタリアニズムは魅力的なものと映る。
ここで問題となるのは、このような枠組みによって事態を理解した場合、リバタリアニズムは直ちに「マーケット至上主義」という意味をもってしまうことにある。

 ここに、更にMichael Sandelのようなcommunitarianの主張が興味深い形で絡み合ってくる。その議論は、われわれの論脈に即していえば、差異原理を基礎づけるためには、〈人格の共同体内在性の原理〉とでも呼ぶべき議論がなければならない、ということを主張するものである。しかし、それを今日ここで議論するわけには行かない。

 以上の議論のさしあたっての総括…ポイントは、人格の自己所有という場合構想力人格の核心をなすものとして何を考えているのかという点にある。

 人格とは何かという問題が重要なのではなく、人格とは何かを誰が決定しうるかという問題が重要なのだ。つまり、人格とは何かとは、それぞれの人格の主体的なコミットメントによって選択されるべき問題であって、人格とは、まさしくその選択とコミットメントにおいて成立するのだ。
 しかし、この私の主張は、「負荷なき自我」−−具体的状況とは何の関連ももたない、空中の楼閣のような自我−−の主張とは何の関わりもない。人格のその選択とコミットメントは、まさしくその選択とコミットメントを不可避とする問題状況と呼応的関係にあるものと見なされるべきものだ、私はこのように考えているからである。
 しかも、その選択主体にとって、人格のあり方については、その具体的な問題状況との関係において、さまざまな可能性が開かれている。multi-identityに対してすら開かれている。
 リベラリストも、リバタリアンもコミュニタリアンも、人格を実体化されたものとして捉えた上で、その人格のいずれが真かを考えている。これらの議論は、本質主義的な人格理解をめぐって、いわば哲学的ドグマの次元で対立しあっている。自我とは本質的には何か、人格とは本質的にはそもそも何か。自我・人格と共同体とは、本質的には、どのように関連あっているのか、このような次元で論争しあっている、というわけである。
 しかし、私は、ヴェーバー的な意味における価値相対主義者として、人格とは何かという本質主義的な問題が重要なのではない。むしろ、人格とは本質主義的なものではなく、人格たりうる存在者が主体的な決断を通して選択し、それへのコミットメントにおいて、自らの人格性を確認するものだ。かくして、「人格とは何か」を誰が決定しうるかという問題こそが、決定的に重要なのだ、と考えている。つまり、人格とは何かとは、それぞれの人格の主体的なコミットメントによって選択されるべき問題だ、従って人格とは、リベラリスト的なものでも、リバタリアン的なものでも、コミュニタリアン的なものでもありうる、と考えている。換言すれば、人は、人格とは私にとってはこのようなものだと主張しうるが、本質主義的にそれを主張することは適切ではない、というわけである。『正義論』以降のロールズの、ある意味でのコミュニタリアニズムへの接近は、この本質主義的議論のもつ難点に気づき、そこから脱却しようとする方向性を示しつつあるのではないか。
 そして、真の法哲学的問題は、その次の段階に潜んでいる。
 つまり、この観点からする人格のありようは実に多様なものであろう。私は、そのような人格の多様なあり方を前提とした上で、正義論の問題の核心は、その多様な人格の共生可能性という点にあると考えている。換言すれば、リベラリストも、リバタリアンもコミュニタリアンも共生しうる社会の枠組。ロールズもそのような方向性を歩んでいるように思われる。