特殊講義 2002.前期 Hiromichi IMAI

 前回の講義、ラートブルフの自由主義的人間観と民主主義的人間観の議論から出発して、人間観と政治観との関係を、現代のアメリカにおける議論に即して一歩深めようとした。
 そして、まずは、リバタアリアンとリベラリストの人間観を、「人格の別個独立性」VS《別個独立なものとしての個人がもつ「共同性の感覚」》というように要約して、そこに潜む問題を論じた。
 今日は、それを受けて三つの話題に即して議論を展開する。
 (1)コミュニタリアンの議論
 (2)リバタアリアン/リベラリスト/コミュニタリアンの議論地平の、本講義の観点からする批判的検討。
 (3)人格論の次元での私なりの問題提起

 (1)「才能の共有資産論」は、リバタリアン的個人主義に対するアンチテーゼとしてのみ有意味なのではないか。換言すれば、人間存在の友愛性を説くことによって、福祉政策を正当化しようとする限りにおいてのみ有意味なのではないか。
 しかし、哲学的な人間存在論としては、やや安直な気がする。「人格の別個独立性」と「才能の共有資産論」は、本当に整合的か、その点で、ロールズの議論は必ずしも説得的だとは思われないのである。

 まさしくこの点において、communitarianの主張が興味深い形で絡み合ってくる。その点を、さしあたりは、この問題を正義論の枠内で最初に提起したMichael Sandelの議論に即して、そのポイントだけを簡単に見ておく。
 そのサンデルの議論は、われわれの論脈に即していえば、ロールズの格差原理のような議論、「才能の共同資産論」を基礎づけるべくつきつめて考えれば、結局自我/人格の社会的内在性という議論に行き着かざるを得ない、というのだ。そして、リベラリストは、結局は、才能の所有主体として〈国民国家〉を、或いは〈国家〉によって管理される〈国民的共同体〉を考えている、ということになる、というのだ(同、237頁)。
 この議論は適切だ。そのうえで、サンデルは、才能の所有主体としての〈国民国家〉=〈国民的共同体〉という議論を肯定しつつ、そのことを正当化する議論として、共同体論を提示しようとするわけである。
 ここに、いわば〈才能を持つ自我の共同体内在性〉という人間存在論が展開されるわけである。

そこで、その議論のポイントを簡単に見ておこう。

 サンデル…ロールズの「格差」原理は社会的再配分政策の正当化根拠として働くが、その正当化は、人が自分の才能や能力を、共通善のために共同体によって利用される共同体の資産とみなすということによって行われるものとされる。
 サンデルは、もしそうだとすれば、ロールズは、それを基礎づけるためには、「人格」とは「共同体内在的なもの」だということを証明しなければならないはずだ、という。
 「人格」とは「共同体内在的なもの」だとすることによって、一方では〈人格の自己所有の理念〉を否定し、他方で〈才能の社会所有の理念(=共通資産論)〉を〈人格の共同体内在性の原理〉によって基礎づけなければならないということになるはずだ。

 このようにいうサンデルの観点から見れば、ロールズの人格ははなはだ抽象的なものである。つまり、その人格性・道徳的アイデンティティは、そのひとが属する具体的な歴史的共同体との関連から切断されている。抽象的な人格の観念−−カント的な人格の観念−−に立脚している。
 そのような「人格」観念は、具体的な共同体から遊離し、独立してしまっている。この意味で、それは、本質的に「負荷なき」自我である。

 それは、何を価値あるものとみなすのか、どのような人間になるのか、どのような社会を是認するのかを、自由に選び取ることができる純粋な選択能力の主体というほどの意味しかもっていない。

 ここで、この問題を、本講義のイントロダクションに用いたマックス・ヴェーバーに即して捉え返してみよう。後論の布石のためにも。

 ヴェーバーは、「文化」を、「世界に起こる、意味のない、無限の出来事のうち、人間の立場から意味と意義とを与えられた有限の一片である」、といっている(『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』、岩波文庫、92頁)。人間にとって「意味と意義」とをもつ現象を、ヴェーバーは、「文化」と呼んでいる。しかも、その「意味と意義」とをもつ現象は、「世界に起こる、意味のない、無限の出来事」の中の小さなはなれ小島だ、と考えているのである。
 しかし、ヴェーバーにとっては、その「世界に起こる、意味のない、無限の出来事」の中の小さな小島が成立するのは、「われわれが世界に対して自覚的に態度を決定し、それに意味を与える能力と意志とをそなえた文化人である」(同、93頁)からである。
 この《意味賦与能力の主体》というヴェーバー的人格観念は、「何を価値あるものとみなすのか、どのような人間になるのか、どのような社会を是認するのかを、自由に選び取ることができる純粋な選択能力の主体」という観念と、ある意味で通底している。
 それが全く同義と解していいとは思っていない。その点に、実はこの議論を焦点があるのだが…。

 ところで、このように人間は、ヴェーバーによれば、それ自体としては無意味な世界に対しての《意味賦与能力の主体》としての意味をもつ。
 例えば、瀋陽事件を想起しよう。ヴェーバー的にいえば、それ自体は、無意味な事象の一断片にすぎない。しかし、例えば、今井という個人人格にとっては、それは、主権国家の終焉とそれに代位するべき〈市民的政治文化〉の関係を端的に象徴する歴史的事件である。私は、そこにそのような意味を投入することによって、その「事件」を構成し、それを解釈しているのである。
 日本外務省は、中国の武装警察隊は、中国外務部は、北朝鮮の政府・当局者は、韓国政府は−−また更にその他その他は−−、それぞれの観点から、それに意味賦与し、それに従ってその事件を構成するだろう。その事件の構成は、ある意味では、刑事裁判において、検察と弁護側が、それぞれに全く別の要素とストーリーをもった「事件」を構成するのと、本質的には違ったものではない。

 このようなヴェーバーの態度は、本質主義的な見方を否定するという意味をもっている。そこには、この「事件」のうちにそれの「本質」がひそんでいると見て、この「事件」とは本質的に何であったのか、と問うような見方の原理的否定の態度がある。「事件」は、観点の選択に基づき、その観点によって構成される。観点が変われば、この事件は「再構成」される。例えば、歴史学にとって、「明治維新」とは何であったのかが、観点の変更に伴って不断に新たに論議されうるように。また、新たな証拠がひとつ出て来ただけで、ある刑事事件の様相がまるきり異なったものとなるように、というわけである。

 ともあれ、このように人間が、それ自体としては無意味な世界に対しての《意味賦与能力の主体》としての意味をもつがゆえに、ヴェーバーにとっては、その主体が、学問的研究の担い手ともなりうるのであった。

 ところで、今この文脈でのわれわれにとって重要なことは、このような本質主義的な見方は、人格とは本質的には何かをめぐって論争しているリバタアリアン/リベラリスト/コミュニタリアンの議論地平にも当てはまるのではないか、という点である。

 何を価値あるものとみなすのか、どのような人間になるのか、どのような社会を是認するのかを、自由に選び取ることができる純粋な選択能力の主体というサンデルの「負荷なき自我(=人格)the unencumbered self」論は、このようなヴェーバー的人格を「本質主義」的に矮小化したところに成立する観念だというべきではないか−−無論、リベラリズムは、自分の自我論をこのようなものだといっているわけではなく、サンデルの立場から批判的に構成された観念にすぎないのだが−−。

 ともあれ、サンデルは、ロールズ的人格とともに、このような「選択能力の主体」としての人格、ヴェーバー的人格をも否定している。このことは事実であろう。

 このような自我理解に対して、サンデルは、意味は、自我以前の共同体にある、と考えている。自我以前に、共同体にはさまざまな意味と価値が実現されているのであって、その自らが属する共同体にコミットすることによって、われわれの自我が構成される、というわけである。自我と共同体的価値と、どちらにプライオリティがあるのか。ポイントはここにある。

 ここで、ヴェーバーの「超越論的前提」という語に注意せよ。その語は、自我が「文化的世界」を突き抜けた存在であるということが意味として含まれている。
 このことは、「世界に起こる、意味のない、無限の出来事」の中の〈意味をもつ領域〉という小さな小島が成立するのは、「われわれが世界に対して自覚的に態度を決定し、それに意味を与える能力と意志とをそなえた文化人である」(同、93頁)からだという議論からも窺いとれるところである。このような文化人は、所与の文化を突き抜けて、それを相対的なものとしてみることができる地点に立ち得ている。

 ヴェーバーの人格は、文化的世界を時間的に一歩突き抜けた存在として理解されている。比喩的に言えば、そのうちに「未来」が食い入っているような「現在」の立場に立っている。それは、共同体がわれわれに背負わせる過去を振り切ることが出来、未来へと自らを投げることができる主体である−−サンデル的自我は、共同体の中に降り積もった過去を背負うことによってはじめて自我となりうるような自我へと傾く一面がある−−。
 ヴェーバー的主体は、文化的世界に対して超越的であることによって、それに対して批判的でありうる。文化的世界を壊し、再構築しうる主体である。「作為」の主体でありうる。

 サンデルによれば、自分が属する共同体の「共通の企図や目的」に言及することなしは、われわれは、政治的主張を正当化することができないし、「市民としての、共同生活への参与者としての、自らの役割に言及することなしには、自らの人格性を捉えることができない(サンデル『正義の限界』、IA頁)。
 共同体の中で占めるわれわれの一定の「役割」こそが、「現在のわれわれの人格−−ある国の市民としてか、ある運動の成員としてか、ある大義の同志としてか−−の一部を構成するものである」(同、IB頁)。要するにわれわれのアイデンティティを構成する。
 このような自我のあり方を、サンデルは、「位置をもつ自我」the situated selfと呼んで、「負荷なき自我」the unencumbered selfに対置している。

 私は、「負荷なき自我」the unencumbered selfと「位置をもつ自我」the situated selfとの対置には、大した意味があるとは思えない。この対置を前提とする限り、私は、哲学的には、「位置をもつ自我」the situated selfを支持する。その上で重要なのは、「位置をもつ自我」the situated selfが、自らの「位置situation」を超越する能力をもつものとして理解されているか否かだ、私はこう考えている。
 例えば、私が、日本という政治的共同体に決定的に制約されているということを承認する。しかし、それにかかわらず、私は、その自らの制約されたあり方を否定しうる、と考えている。「位置をもつ自我」the situated selfであることを自己了解している私が、同時に更に自らの現在のこの「位置situation」を超越する能力をもつものとして理解しようとしている、というわけである。

 次のサンデルの表現には、このような一面がうかがえる。しかし、実に曖昧。ただ、私は、コミュニタリアンとしてのサンデルが、リベラリズムの自我論を、近代が隘路に陥っていることに対する文明批判的観点から展開しようとしていることに対しては、賛成したい。
 ただ、私は、コミュニタリアンの議論を忠実にフォローしているわけではない。このような問題点に即してそれをフォローして私を批判するレポートがあれば、有り難い。

 権利論的自由主義が説くのとは対立的に、共同体論者は、自らを「独立した者」、「自らの意向や愛着からまったく離脱した自我の担い手」と理解することはできない。「われわれの一定の役割は、現在のわれわれの人格−−ある国の市民としてか、ある運動の成員としてか、ある大義のの同志として−−の一部を構成するものである。しかし、現在暮らす共同体によって、われわれが部分的に定義されるとしたら、そのよづな共同体を特徴づげでいる企図や目的にも、われわれは関連している。アラスデイル・マキンタイアが書いているように、「私にとって善であるものは、そのような役割で暮らす者にとっても善であるべきである」。結末が閉じられていないとしても、私の人生の物語は、私の自己同一性が導き出される、そのような共同体−−家族であれ都市であれ、部族であれ国民であれ、党派であれ大義であれ−−の物語のなかにつねにはめ込まれている。共同体論的な見解では、このような物語によって、たんに心理学的相違ではなく、道徳的相違がもたらされる。その物語によって、われわれはこの世界に状況づけられ、われわれの生活に道徳的な固有性が与えられる」(『自由主義と正義の限界』(三嶺書房 1992)、xiii-xiv頁)。

 「しばしば、自由主義者は、共同善の政治学や、それが適徳的な固有性を肯定することから、偏見や不寛容への道が開かれると、論じている。近代国民国家はアテネの都市国家(polis)ではないと、彼らは指摘する。近代生活の規模や多様性からは、アルストテレスの政治倫理学は、最良でもノスタルジアにすぎず、最悪では危険なものとなる。善のヴィジョンで、統治しようとするいかなる試みも、全体主義の危険な誘惑に落ち込むものであると思われる。'
 これに対して、共同体論者は、不寛容が最も繁栄するのは、生活の形態が乱れ、根幹がぐちつき、伝統がゆるんでいるところであると、応答する。.今日では、全体主義的衝動が生じるのは、確固として状況づけられた自我の自信からよりも、孤立し、混乱し、欲求不満である自我の当惑からである。
 自我は、共通の意味がその力を失った世界の大海で途方に暮れている。ハンナ・アレントが書いているように、「大衆社会を非常に耐えがたくしているのは、それに加わっている人々の数からではたく、少なくともそれが主なる理由ではない。それよりも、人々に介在する世界が、人々を集結させる力、つまり、関係させるとともに、分離させる力を失っているという事実こそが理由である」。われわれの公共的生活が衰弱し、共同的関わりあいへのわれわれの感覚が減少する限り、その程度に応じて、全体主義的解決策という大衆政治に陥りがちになる。このように、共同善の党派は権利の党派に応答する。共同善の党派が正しいとすれば、われわれの最も緊急を要する、道徳的、政治的構想は、われわれの伝統に内在するものの、今日では消滅しつつある市民的共和制の可能性を再活性化することである」(同、xv-xvi頁)。

 もしこのようなことがいえるとすれば、私は、「位置をもつ自我」the situated selfでありながら、まさにそのことを通して自らの「位置situation」を超越する能力をもつものでもあり、それゆえに「世界」に対しても自分の共同体に対しても「自覚的に態度を決定し、それに意味を与える能力と意志とをそなえた文化人である」、ということになる。そして、そのようなものとして、「選択能力の主体」/「決断能力の主体」である、ということになる。
 ヴェーバーは、人間とはまさしくそのような主体であるからこそ、「文化科学」的認識者でもありうる、というのである。

 「社会科学の領域においては、学問上の問題wissenschaftliche Problemeが提起される最初のきっかけは、経験上、実践的な「問いかけ」praktische >Frage<であるのが普通であり、そのため、すでにある学問的問題の存在を認めるということ自体が、ある特定の方向に向けられた、生ける人間の意欲Wollen lebebdiger Menschenとの人格的結びつきのうちにあるのである in Personalunion stehen」(同、50頁)。

 この超越可能性を抱えもつがゆえに、「位置」をもちながら、同時に「選択能力」の担い手でもある人格という観念こそが、決定的重要性をもつ、こう私には思われる。

 この社会で意味ある役割を果たすことによって、「自我」と見做しうるだけの自らの「自我」が成立する、というわけだ。



「個人としての私は、私に授けられた資産を所有する(排他的な意味で)とも、その行使からの成果に特別の道徳的要求権があるとも主張しない。私の自己同一性が構成されるためには、多様な複合体−−両親、家族、都市、部族、階級、民族、文化、歴史的時期、おそらく神、自然、たぶんチャンス−−に負うており、したがって、私が持つようになるものに、何らの功績(あるいは、責め)を、ほどんど、もしくは、まったく主張しない。私の一部の何かが、誰の、あるいは、何の責任であるかを正しく選別するのは、時には不可欠としても、困難な道徳的活動であり、ある時点を過ぎた後では、完全に選別するのは不可能となるかもしれない。しかし、先行する道徳的意味で、特定の機会に認められたものに、いかなる場合でも価しないことには、私は同意する。まず、私が選ぶようになる性質を、私自身の権利として、所有していないからであり、次に、私がそれを所有しているとしても、他ならぬ、一連の特定の属性か資格に、有効な規則が報いるという権限が私にはないからである。
 このことから、一見すると「私の」資産と思われるものが、ある意味では、共通資産として、記述する方がより適正であると想定するのは、合理的であると思われる。他のものが私を作り出し、様々な仕方で、私を、つまり、現在の私の人格を作り続けているので、そのようなものを私が確認できる限り、それを「私の」業績に参与するものや、それからもたらされる報酬の共通の受益者とみなすのは、ふさわしいと思われる。このような(一定の)他のものの業績や努力に参与するという意味が、参与するものの反省的な自己理解を受け入れるところでは、自らの多様な活動の範囲を越えて、われわれは、自らを、共通のある事柄を持つ個体化された主体としてよりも、より広い(しかし、依然として規定的な)主体性の一員として、つまり、家族、共同体、階級、国民、国家であれ、それらを「他者」としてよりも、共通の自己同一性に参与するものとして、自らをみなすようになるかもしれない。
 このように拡大された自己理解から帰結されるのは、「私の」資産や人生の見通しが、共通の努力のために役立つようになるさい、他者の目的のために用いられる場合としてではなく、自らのものとみなす共同体の企図に貢献する仕方として、私が経験するようになることである。犠牲と呼ばれえるとしたら、私の犠牲が正当化されるのは、私が利益を失う以上に、見知らぬ他者が利益を得るという、抽象的な保証からではなく、むしろ、私の努力によって、私が誇りを持ち、私の自己同一性が画定される生き方を実現するのに貢献するという、より強力な観念からである。もちろん、個人としての私は、共通の努力に関連する性質を所有する功績があると要求できないことは本当であるとしても、それにもかかわらず、このように貢献することに、私が適しているという誇りを持つことができ、この適しているということが、おそらく私が拾い集める便益以上に、私が称えられる正しい原因となるであろう」(同、233-234頁)。
 私は私の才能の所有者ではありえないとしても、「少なくとも、私は、「ここに」位置する資産の保管者でありえ、それ以上に、私自身を一員と見なす共同体のための保管者でありうる」(同、236頁)。