特殊講義 2002.前期 Hiromichi IMAI

 communitarianに近い観点に立ちながら、それを克服していく論理を考えるための参考としての三木清の議論の紹介。
 今井弘道「三木清の危機意識と自然的制度観の克服−−西田哲学と丸山政治学の批判的考察のための一試論−−」(中村雄二郎/木村敏監修『講座 生命 第六巻』(河合文化教育研究所 2002.9刊行予定)所収)から。


 1. 三木は、ある議論の中で、「世間的」と「世界的」とを区別している。この区別は、「日常性」と「世界歴史性」との「範疇的区別」に、また「閉じた社会」と「開いた社会」の区別に相応し、これまでの議論に即していえば、「有機的時期」と「危機的時期」の区別に対応してもいる。

 ここで「世間的」を共同体論的な人間理解、「世界的」を超越的な人間理解に関わるものと考えて聞いてほしい。

 しかし、ここで重要なことは、「世間的」と「世界的」とは、個々の人間の存在のあり方として、実際には融合されている場合が少なくないのだが、本来的には区別されるべきもの、と考えられていることである(「哲学的人間学」、三木Q376-377頁)。
 ここで三木のこの議論を持ち出すのは、これまでの議論の限界−−人が「制度的自己」になるのは「危機」の時だけなのかといった問が発せられたときに露呈する限界−−を一歩踏み越える論点がここに提示されているように思われるからである。
 「世間的」と「世界的」とが区別されたり融合されたりしながら存在しているとはどういうことか。人間は、一面では例えば、@「妻に対する夫、友人に対する友人」といった「日常的な役」を有している。だが、他面ではA「芸術家として、政治家として、哲学者として等、世界史的な役割を有」してもいる。ひとは、このAの「世界史的な役割」を遂行するためには、@の「日常的な間柄」を否定しうるのでなければならない。無論、その逆もいえる。
 かくしてこの「日常的な間柄」と「世界史的な役割」の区別と統合が必要となる。その区別と統合とを統制するのが、三木によれば、「人格」としての人のあり方である。「真の人格は…日常的な役に於ける人間及び世界史的な役割に於ける人間を越えて内的なものである」。この「内的な人格」が「人間」の「根柢」にあって、「日常的な役に於ける人間」と「世界史的な役割に於ける人間」との関係をコントロールしているというわけである(「哲学的人間学」、三木Q376-378頁)。
 三木は「日常性」を「閉じた世界」と見ている。それがここでは「日常的な間柄」と表現されているわけだが、このことのうちには、日本的「日常性」の弁護論として働く和辻哲郎の「間柄」概念に対する三木の批判的意識がこめられている、と理解して大過ないであろう。ともあれ、この「閉じた世界」からの超越が可能となるのは、この意味での「人格」が「日常的な間柄」を否定する時である。
 ところで、「日常性」=「閉じた世界」からの超越とは、既成的な制度からの超越でもある。そう考えていいなら、ここで三木は、「制度的主体」の問題を、「日常的な間柄」と「世界史的な役割」の区別と統合とを統制する「人格」という角度から考えているといえる。「制度的主体」とは、「主体と客体との内在的関係」が解体した状況の中で、行為者として「主体と客体の関係」の再編に関わり、新たな制度を構想する主体のことである。
 この「制度的主体」は危機の中から自動的に立ち現れてくるわけではない。むしろ、「主体と客体の関係」の解体と再編の論理を構築するために、「危機」論と「人格」論が接合されることが必要だ。そのことがこの「人格」論において示唆されている。
 三木は、「我と汝」という範疇こそが「人格」概念を基礎づけると考えていた(「哲学的人間学」、三木Q378頁)。それを踏まえれば、「不安」から脱して「制度的自己」として生きることが出来るのは、「世界超越の可能性」が「我と汝」という範疇に支えられることによってだ、その支えが得られない時、人は孤独な自我として〈虚無〉と〈生の無意味さ〉に鷲づかみにされて「不安」にさいなまされる。三木は恐らくはこう考えていた。そのことは、三木のやや未整理な次の言葉をあわせ読むことによって明らかとなる。

 「もしも我々がつねに世界と融合的に一体感に於て生きることができるならば…不安はないであろう。併し人間存在には根本的に世界超越の可能性が属する故に、世界のうちへ入って行った我々は、この世界のうちに生きる理由が、明瞭に把握されていない限り、更に再び不安に陥る危険は絶えず存在する。歴史の有機的時期に於ては個人は社会と融合的に生活し得るであろう。然るに危機的時期に於ては社会と個人との有機的関係が失はれ、個人は社会から游離して自我に閉じ籠ることを余儀なくされ、かくてその極限に於て無に面接して不安に捉えられる。否、有機的時期に於ても、人間はその存在の根本的規定によってしばしば世界の外に出て無の上に立たされる」(「哲学的人間学」、三木Q290頁)。

 「主体と客体との内在的関係」が揺るがされる時、人は「客体」に対して「超越的」な位置に、つまり〈虚無〉の上に立たされる。そこにおいて避けることのできない〈不安と孤独〉には、しかし、新たなる共生への憧憬――解体した「主体と客体との内在的関係」の中での〈古き共生〉に代位する〈新たなる共生〉への憧憬――が潜んでいる。かくして、〈不安と孤独〉の克服のためには、この憧憬を充たすべく社会的諸関係や諸制度を作りかえる「制度的自己」として振る舞うのでなければならない。しかし、「再び不安に陥る危険」を免れるためには、その「世界超越の可能性」を「我と汝」という範疇によって支えさせる必要がある。さもなくば「不安」がわれわれを去ることはない、というわけである。

 2. 「人格」の基礎は「私と汝」という範疇にある。三木がこういうのは、「人格」が−−「間柄的存在」を超越することのできる行為主体と理解せよ−−他の「人格」との応答関係において成立するものと考えられているからである。人は「他の人格に対して初めて人格」であり、「他の人格に対する関係を含まない」ような「人格」はありえない。
 この「私と汝」の応答関係を、三木は、「非連続的」な関係と捉えている。これに対比される「連続的」な関係は、「世間の人もしくは間柄に於ける人」に見られる関係、閉じた社会を構成する関係である。地縁・血縁を基礎にする関係といってもよいだろう。
 三木のいう「私と汝」の関係は、こうして「開いた社会」の原型である。だからそこには「公共への憧憬」が潜んでいる。これに対して「世間の人もしくは間柄に於ける人」の「連続的」な関係は、「世間或は世の中」/「家族、国家など」に具現されるが、それは排他的な関係であって「公共への憧憬」をもっていない。この意味で、「閉じた社会」と「開いた社会即ち人類」との「差異」は、「有限と無限との間の、静止と運動との間の差異に等しい」(「哲学的人間学」、三木Q377-378頁)。
 「家族と国民的社会とはその起原に於て混淆しており、密接な連結に於て留まっている」。この「家族と国民的社会」の連結体と「人類」とは、「閉じたもの」と「開いたもの」として対立している。だから、この閉じた「家族や国民」から「段階的に人類に達すること」はできない。「飛躍が必要である」(「哲学的人間学」、三木Q379頁)。
 こう考えてみると、「制度的自己」の問題は、三木にとっては「開いた社会」の原型としての「我と汝」の関係を具体的な「開かれた社会」へと実現していくための、実践的行為を担い手の問題であったことがわかる。上の引用に示唆されているように、三木はこの主張をベルグソンを援用しながら展開している。しかし、三木は、すぐさま「ベルグソンは閉じた社会と開いた社会とを抽象的に対立させているに過ぎ」ない(「哲学的人間学」、三木Q380-381頁)としており、実際にはベルグソンに批判的である。そのことは、三木が「世間的」と「世界的」との対立を、「人格」の観念によって統制されるものと見ていたことと関連している。
 「連続的」な関係からなる「閉じた社会」は、慣習に立脚する単に実定的なもの、制度的なものに支配されている。しかもそれは、人々の日々の伝統的・慣習的な行為によって維持・強化されている。その「閉じた社会」の変革が可能なのは、一方でそこに内在しながら、他方では「私と汝」の範疇を基礎にそれを「超越」してもいる「人格」的応答関係の上に成立する行為によってだ。このような形で、「人格」の観念のうちにベルグソン的抽象性を越え出ようとする契機が潜められている。「危機」論と「人格」論とは接合されるべきものであり、その接合において「主体と客体との内在的関係」の解体と再編の論理が現実に作動する、こう考えられているのである。
 そのことを踏まえて、三木の議論に眼を向けよう。「社会的生活は団体の諸要求に応ずる多かれ少かれ強く根を張った諸習慣の体系」である。そして、「我々の自己」は、完全にではないが、「一表面の部分に於て社会化されている」。「間柄」という他者との有機的な「連続的関係」を通して、この「諸習慣の体系」に繋ぎとめられているのである。その限りで、「我々は開いた社会に達することができぬ」。
 だが「私と汝」の「非連続性」を根拠にすれば、人間は、「独立性」をもつことができ、「閉じた社会」にありながら、「日常的な世間的な間柄」を内部から食い破る「自由な主体」となりうる。だから「閉じた社会」と「開いた社会」とを「抽象的に対立させて」はならない。「世間的」と対立する「人類的」は「抽象」にすぎないのである−−ここで、「人類的」という言葉は「世界的」と互換的に使用されている。念のため−−。
 「人間存在の具体性」は「世間的」と「人類的」の対立の「弁証法的統一」にある。人間は、この意味において「連続的であると共に非連続的」である(「哲学的人間学」、三木Q379-381頁)。こうして、三木は、「人間存在の具体性」を、「世間的」と「人類的」(=「世界的」)との対立の「弁証法的統一」と捉える。この「弁証法的統一」は、その中で「制度的自己」が働きだすことによって動態化しはじめる。しかし、この「制度的自己」の働きは、逆に、この動態化の中での「危機」と動態化を母胎として現実化しうる。「制度的自己」は、単にその自律的意志によって駆動されうるわけではないのである。
 「閉じた社会」と「開いた社会」とのこのような抽象的対立の否定は、「有機的時期」と「危機的時期」との抽象的対立の批判をも含意している。三木の「ミュトス」への着眼が、おそらくは更にそのことと関連している。先に私は、「危機」論と「人格」論との接合においてこそ、「主体と客体との内在的関係」の解体と再編の論理が現実に作動するといった。その接合は、「ミュトス」論に即して考えられている、こういえるのではないかと思われるのである。