特殊講義 2002.前期 Hiromichi IMAI

 私は、以前、大塚久雄や丸山真男などの戦後民主主義者たちのナショナリズムの肯定的な位置づけについては、少なくとも現在という時点からそれを見るとき、問題があるといわざるをない。「現代においては、ナショナリズムの位置づけが、戦後民主主義者たちのそれから、全面的に反転させられざるをえなくなりつつある、という事情」がある、と述べた。そして、以下で再録する大塚の言葉を紹介した。
 今日はまずその問題を確認しておきたい。「近代」を問題化するというわれわれの基本的な問題設定と直接に関わっているからである。その大塚の言葉とはこうである。

 「ナショナリズム(その基底をなす民族の問題をも含めて)は、もちろん暗い『国家主義』的なもの[=ウルトラ・ナショナリズム的なもの−今井]への逸脱の可能性をもはらんでいるけれども、それ自体としては、社会体制のいかんを問わず、つねに歴史的現実をはるかに人類の理念へむすびつけるところの必然的な中間項として、本質的に深い展望をはら」んでいる(「現代とナショナリズムの両面性」、『大塚久雄著作集E』(岩波書店 1969)、316頁)。

 ここでは、個人は、民族に包摂され、ナショナリズムを通してはじめて人類的なものにつながることができる−−その道に大きな落とし穴があるけれども−−、という認識が示されている。それは、田辺哲学的にいうと、個−種−類の関係の構造に関わる認識だということが出来る。

 〈ナショナリズムとデモクラシーとの結合〉という課題を戦後の日本の課題として提起した丸山においても、基本的にこれと同様のナショナリズム観が前提となっている。そこでは、ナショナリズムがかかえもつ「暗い『国家主義』的なものへの逸脱の可能性」をデモクラシーを通して閉ざしながら、「歴史的現実をはるかに人類の理念へむすびつけるところの必然的な中間項」としてのナショナリズムの本来の意味を発揮させたい、と考えられているわけである。

 つまり、ナショナリズムは、
 @一面では排外主義的で自閉的な民族主義への転落の可能性をもっているが、
A他面で、本来的には、個と類との中間項としての位置を占める、人間存在にとっての不可避で不可欠な存在様式と関連して成立するものである、という認識がある。

 そして、この両面性に対してどのように対処するのかという課題を軸として、戦後民主主義が、戦前の日本の反省との関係において、意味づけられたわけである。

 ところで、前二回の講義を前提にしていえば、このような大塚や丸山のナショナリズム理解は、「本質主義」的な次元での、国民主義的な人間存在理解というものが前提になっているのではないか、と思われる。
 無論、国民主義的な人間存在理解は、歴史的に相対化されている。しかし、例えば丸山がラートブルフの民主主義論を継承する位置に立っていたことは疑うことはできないであろう。

 ラートブルフは、「民主主義は多数者の制約されることのない支配を欲する」のに対して、「自由主義は…多数の意志に抗しても自己を主張する可能性を個別意志に保障することを要求する」、と表現していた。その対抗的関係の中で理解された民主主義思想は、ラートブルフにとっては、人間は「政治体の中で、あるいは国家の中でのみ、十全たる人間になることができる」と考える人間存在論を前提としていた。かくして、この民主主義思想によっては、「政治的共同体」や「国家」へと積極的に参加することに「人間の本質的価値」が見出されるとされていた。「民主主義思想は、国民国家に帰属することにおいて個人は自らのアイデンティティを獲得し、それへ積極的に参加することによって、そのことを主体的に、自発的に確証しうる、と考えることになる」わけである。
 繰り返すことになるが、ラートブルフにおいては、このような民主主義思想は、自由主義思想に対置されていた。それは、「所有的個人主義possessive individualism」の帰結としての資本主義的経済体制を、政治的個人主義を基礎とする政治体制を通して克服しようとする試みを示していた−−因みに、ラートブルフは社会民主主義者であった−−。

 このことを〈近代の超克〉というモティーフを用いて表現すれば、「近代」を通しての「近代」の克服の試みだ、ということができる。

 このような思考図式を前提としてみれば、「自由主義的近代」の克服についてのさまざまな試みという形で〈近代の超克〉というモティーフを整理することができる。
 「自由主義的近代」の「前近代」を復活を通しての克服。
「自由主義的近代」の「**的近代」を通しての克服。
 「自由主義的近代」の「ポスト・近代」を通しての克服。

 更にこの図式の精密化の必要性。
 しかし、〈近代の超克〉という発想をこのように一般化してみれば、ヘーゲルにおいて既にこのような問題が発生していたことを知ることができる。このことはすぐあとで確認するとおりである。

 しかし、ともあれ、この図式がもつより包括的な意味を理解したい。そのためにさしあたりは、フランシス・フクヤマの『歴史の終焉』論に手がかりを得ようと思う(Francis Fukuyama, "The End of History and The Last Man", New York 1992)。そのことは、ヘーゲルの議論に接する絶好の通路ともなりうる。

 フクヤマの『歴史の終焉』は、「リベラルな民主主義の正統性(legitimacy of liberal democracy)」を示すための著作という意味をもっている。「リベラルな民主主義」には「抜本的な内部矛盾」がない−−その意味については、行論の過程で示す−−。
 それは、あまりにもイデオロギー的であり、その結論にも従いがたい−−但し、私には、それはロールズのアメリカ的体制の正当化論(長尾龍一風にいえば、《American Way of Lifeの国体論》)ときわめて親縁性をもつものに見える−−が、議論の構図そのものはきわめてクリエィティヴなものだ、と評価していいのではないかと思われる。

 「コジェーブ(Alexander Koj`eve)の解釈によれば、へーゲルはわれわれに歴史のプロセスを理解するため」に、「経済面からの歴史解釈」とは違った、もう一つ別の「メカニズム」、つまり「「承認を求める闘争(struggle for recognition)」にもとづいたメカニズム」を提示している。「われわれは、経済面からの歴史解釈を投げ捨てる必要こそないが、一方でこの「承認」という考え方は、人間的な熱意や意欲を理解するうえで、マルクス主義の見解やマルクスに由来する社会学的伝統よりもはるかに豊かな、まったく非唯物論的な史的弁証法を再発見させてくれるのである」(上、241)。

 このようなフクヤマの議論を基礎になっているのは、ヘーゲル及びコジェーヴの次のようなテキストに代表される哲学的議論である。

 「生命を賭けることによってのみ自由は得られる。自己意識の本質とはたんに生きているということではないし、それがその最初にあらわれたときの直接的な形式そのものでもない。このことは、個人が生命を賭けることによってのみ、試され、そして証明されることである。…生命を賭けなかった個人も、一人の人間としては認められることは確かだが、しかしそういう人は、自立した自己意識として承認されるという真理には到達したことにならないのである」(へーゲル『精神現象学』)。

 「人類の発生と進化につきまとういっさいの人間的な欲望−−自己意識や人間としての実在性(human reality)を生み出す欲望−−は、結局のところ「承認」を求める欲望の機能を果たしている。そして人間としての実在性を明るみに出すために生命を賭けるというのは、こうした欲望のために生命を賭けることである。したがって、自己意識の「起源」について語ることは、必然的に、「承認」を求めるための死を賭した闘争について語ることにほかならない」(コジェーヴ『へーゲル読解入門』)。

 コジェーブはへーゲルの教えのなかから「承認を求める闘争」や「歴史の終焉」といった要素を取り出し、「それらの要素」を独自の仕方で「へーゲルの教義の主眼にすえている」。そして、「当面の議論のため」にフクヤマが「興味」をもつのは、「へーゲルそのものではなくコジェーブによって解釈されたへーゲル、あるいはへーゲル=コジェーブという名前の新しい総合哲学者なのだ」(上、241)。

 ところで、ヘーゲルのこのような議論は、アングロ・サクソンの伝統をひく「自由主義」に対する批判として、意味をもつ。

 アングロ・サクソンの伝統のなかで生きつづける自由主義のもつ真の意味をつまびらかにするためには、「自由主義の源泉をなす哲学者たち、つまりホッブズやロックの思想にまで時代をさかのぼる」べきだ。「もっとも古くから延々と生きつづける自由主義社会−−イギリスやアメリカ合衆国、カナダなどアングロ・サクソンの伝統のなかに息づく社会は、通例、ロック哲学の文脈において理解されてきたからである」(上、244-242頁)。
 しかし、この「自由主義の源泉」としてのホッブズとロックにも立ち戻る場合、へーゲルは、「二つの理由」から、「われわれの特別な関心を引く存在」となる。

 @「第一に彼は、自由主義についてホッブズやロック以上に高い次元で見事な理解を示している。ロック流の自由主義が説かれていた当時の人々は、この自由主義から生み出された社会と、そうした社会の典型的産物であるブルジョアに対して、たえまない不安を抱いていた。その不安とはつまるところ、ブルジョアが何よりも自分の物質的幸福にばかり気を取られ、公共心も美徳も持ち合わせず、周囲のより大きな社会に少しも献身していないといった一つの道徳問題に端を発している。要するに、ブルジョアはわがままだというわけである。そしてこの個々人の利己主義が、左はマルクス主義者からも、右は貴族主義的共和主義者からも、自由主義批判の際の槍玉にあげられてきたのだ」(上、242頁)。
 このロック理解には問題がある。ヴェーバー。

 「ところがホッブズやロックとは違ってへーゲルは、われわれに、人間の人格のなかの非利己的な部分に基礎をおくリベラルな社会についての自覚を与え、同時に、その非利己的部分を近代の政治的計画の核心にすえつづけようとしたのである」(上、241-242頁)。

 「非利己的部分」とは「勇気」・「気概」(プラトン)。
 ここに、フクヤマがヘーゲル=コジェーヴをもち出すことによってあらためて掘り出そうとする自由主義批判の原型が現れ出ている。
 「欲望」的人間vs「気概」的人間。


 フクヤマは、このヘーゲルの構想が最終的な実現を見たのが、欧米のリベラル民主主義であり、社会主義の崩壊によってそれの最終的勝利が確認された、つまり「歴史」は「終焉」した−−ヘーゲルの歴史哲学は現代において確証された−−、というのである。

 しかも、このようなヘーゲルの議論立ち戻ること、その時、コジェーヴ=フクヤマは、「承認を求める闘争」を核心としてヘーゲルを解釈するわけだが、このよう「歴史を「承認を求める闘争」として理解すること」は、「現代世界」を解明する上で重要な意味をもつ、と考える。それは、「現代世界を知るうえで、じつにわかりやすく有益な方法」である(上、242頁)。

 「われわれリベラルな民主主義国の住人は、すべての動機を経済的理由に還元するような時事問題の解説にすっかり慣れ、また頭から足の先までブルジョア化してしまったため、政治の世界の大部分がまった<経済とは無縁なものであることに気づいて驚く場合がしばしばだ。実際のところわれわれは、ほとんどの戦争や政治抗争の原動力である人間性のプライドに充ちた断固たる態度をとろうとする側面について語るための共通の語彙さえもっていない」(上、242-243頁)。

 この側面を、コジェーヴ=フクヤマは、「承認を求める闘争」という考え方に即して求めようとするわけだが、この「承認を求める闘争」という考え方は「政治哲学と同じくらい古い概念であり、政治の世界そのものと重なり合うような現象と関連している」。しかし、過去四百年にわたってこの意味での政治哲学は顧みられなかった。自由主義が人間のその側面を否定してきたからである。
 だからこそ、それは「今日ではいささか奇異で聞き慣れない言葉」に思われるのである−−英米の思想圏からドイツの思想圏に眼を移せばそうはいえないのだが…−−。

 しかし、実際には、「「承認を求める闘争」は、われわれの周囲のいたるところに見られ、旧ソ連や東欧はもとより南アフリカ、アジア、ラテンァメリカ、そしてアメリカ合衆国においてさえ、自由主義的な諸権利を獲得するための現代の運動の基盤となっているのである」。
 「権利を求めての闘争」の原動力は「承認」されることの要求にある、というわけである−−俺もおまえも同じ人間ではないかということを確認し合うことの要求にある、といってもいい−−。

 「「承認を求める闘争」の意味を明らかにするには、人間もしくは人間性についてのへーゲルの考えを理解する必要がある。へーゲルに先立つ近代初期の自由主義の理論家たちにとって、人間性に関する議論は、「最初の人間」すなわち「自然状態」にある人間の描写という形で提示された。ホッブズやロック、ルソーは、この自然状態を原始人についての経験主義的もしくは歴史的な解釈として理解すべきだとは考えていなかった。むしろこうした哲学者たちは、因襲の産物にすぎない人間性の側面−−ある人がイタリア人か、貴族か、あるいは仏教徒かといった事実など−−をはぎ取り、本来の人間に共通の性格を明らかにしようという一種の思考の実験を意図していたのだ」。
 欲望的存在としての人間という本質主義的人間理解。

 「一方へーゲルは、自然状態にある人間という教義を否定し、人間性が永久不変だなどという考え方は受け入れようとしなかった。彼にとって人間とは、自由かつ未決定なものであり、歴史的時間の経緯のなかで独自の性質を生み出し得るものであった」(上、242-243頁)。人間の歴史存在論的理解。

 「へーゲルのいう「最初の人間」も、食物や睡眠、住居、ことに自分の生命の保持に対する欲望などある種の基本的な自然的欲望については、動物と変わるところがない。この点でいえば、彼は自然界の、あるいは物質界の一部である。しかしへーゲルの「最初の人間」が根本的に動物と異なるのは、彼が…まったく非物質的なものをも求める点にある。とりわけ彼は他の人間の欲求を欲する。つまり、他の人間が自分を必要とし、あるいは承認することを求めるのだ。ヘーゲルによれば、人間はたった一人だけでは自分を意識するようにはならない。他の人間から承認されないかぎり、個々の人間としての自分に目覚めたりはしないのだ。言い換えれば、人間ははじめから社会的な存在なのである。そして、自分の価値とかアイデンティティという個々人の感覚は、他者からの評価と密接にかかわっている」(上、244頁)。

 「しかしながら、へーゲルのいう「最初の人間」がもっと根本的に動物たちと異なっている点は、もう一つある。彼はたんに他者から承認されたいだけでなく、一人の人間として承認されたがっているのである。そして本来の人間としてのアイデンティティを構成するもの、つまりもっとも根本的かつ独自な人間の特質とは、自分の生命をあえて危険にさらすという点である。したがって「最初の人間」は、他の人間と出会うたびに激しい戦いを引き起こし、相手に自分を認めさせようとして自分の生命を賭けるのである。
 人間は根本的には…社会的な動物だが、その社会性は彼を、平和な市民社会のなかへでなく、純粋な威信を求める激しい死闘へと駆り立てていく。この「血なまぐさい戦い」がもたらす結果は三つに一つだ。
 まず、戦った双方が死ぬ場合には、人間としての生命も自然の創造物としての生命も終わりを迎える。次に、戦いをおこなったどちらか一方が死ぬ場合には、生き残った者は不満足のままだ。なぜなら、勝利した自分を認めてもらおうにも相手の意識がもはやないからである。そして最後に、戦いが主人と奴隷の関係を生み出して終わる場合がある。そこでは、戦いの一方の側が、暴力的な死の危機に直面するよりは奴隷の生活に甘んじようと決意する。そして主人となった側は、自分が生命を危険にさらし、それによって他の人間から承認されたことに満足する」(上、245-246頁)。
 しかし、この主人と奴隷の状態の中でも、「承認を求めての闘争」は継続される。互いにひとかどのものとして承認し合うまで。さもなくば、奴隷は、いじけた、隷属的な存在で終わる。

 「へーゲルのいう自然状態での「最初の人間」同士のはじめての出会いは、ホッブズがいう自然状態、あるいはロックのいう戦争状態と同様まったく暴力的であるが、それは社会契約その他の平和な市民社会の関係にではなく、支酷と服従というきわめて不平等な関係に行き着くのである」(上、246頁)。

 「初期の階級社会の成り立ちについてのへーゲルの理解は、歴史的に見ておそらくマルクスより正確だろう。伝統的な貴族制社会の多くは当初、よりいっそうの冷酷無情さと残虐性と勇気を武器にして定住性民族を征服した遊牧民族の「勇士の気風」から発生したのである。
 この征服の時代が終わると、のちの世代の主君たちは自分の手に入れた土地に定住し、支配下にあるおびただしい数の小作農「奴隷」から税や貢ぎ物を取り立てる地主としての経済関係を当然のものと見なすようになってしまった。だが、いくら長年の平和と安逸によってこの貴族たちが甘やかされためめしい宮廷人に成り下がってしまったあとでも、勇士の気風−−進んで死の危険を冒そうとする気持ちからくる生来の優越感−−は依然とし、世界じゅうの貴族制社会の文化の核心として残されてきたのである」(上、246-247頁)。

 このような「威信を求める戦い」=「承認を求めての闘争」に「進んで生命を賭することの重要性」は、「人間の自由がもつ意味についてのへーゲルの見解をもっと深く掘り下げることによってのみ理解できる。
 われわれになじみ深いアングローサクソン的な自由の伝統においては「自由は、たんに抑制のない状態として解釈されがちだ。だからホッブズは「自由とはまさしく敵対物−−つまり運動に対する外部からの妨害物−−の不在を意味しており、このことは理性ある生物だけでなく、理性も生命もない創造物にもあてはまるかもしれない」と述べているのである。
 このように「ホッブズの定義」によれば、「何かの行動を物理的に抑制されていない人間は「自由」だと見なされる。しかし人間というものがある肉体的・動物的な特質をもつかぎり、男女の別を問わず誰もが生理的欲求や本能や欲望や情念などの有限の寄せ集めにすぎず、それらの要素の複雑ではあるが結局は機械的な相互作用が当人の行動を決定していく、と考えることもできる。したがっで、飢えや寒さにさいなまれ、.食物と住居という自然な欲求を満たそうと必死になっている人間は、クマはおろか岩よりも自由ではない。なぜなら彼は、より複雑な一連の規則にしたがって動く、より複雑な機械にすぎないからだ。彼が食物と住居を求める際になんら物理的制約を受げないという事実は、うわべの自由を生み出しはしても、真の自由を生み出しはしないのである。
 ホッブズの偉大な政治学的著作『リバイアサン』は、まさにそのような高度に複雑化した機械としての人間を描くところからはじまっている」。「反対にへーゲルは、人間についてのまったく異なった理解から出発する。人問はみずからの物理的・動物的な性質によって決定されるものではない。しかも人間のまさに人間たるゆえんは、そうした動物的な性質を征服し否定するみずからの能力のなかにあるというのだ」。「だがわれわれは、このいっそう深遠な意味において人間が自由であるということを、どのようにして知るのだろうか?」(上、247-249頁)。

 「へーゲルにしても、人間が動物的な側面や限定され制約された性質をもっていることは否定しないだろう。…しかしながら人間はまた、みずからの自然の本能にまっこうから反した形で行動する力も明らかに備えている。それも、いっそう高次元の、あるいはいっそう強い本能を満たすために現在の本能にそむくのではなく、ある意味では背反行為そのものを求めてそうするのだ。
 純粋な威信を求める戦いに進んで生命を賭けることが、へーゲル流の歴史解釈にとって重要な役割を果たしている理由もここにある。生命を賭けることで人間は、自己保存というもっとも強力かつ基本的な本能に反して行動できる力を立証しているのだ。コジェーブがいうように、人間のもつ人間的欲望は、自己保存を求める彼の動物的欲望を越えなければならない。そして、歴史の始まりの原始的な戦いがひたすら威信をめぐって、あるいは認知の証であるメダルや旗など見るからに碩末なものをめぐっておこなわれたという事実の重要性も、ここから生じてくる。
 われわれが戦うのは、自分が進んで生命を賭けており、だからこそ自分は自由な正真正銘の人間である、ということを他の人間に認めさせるためだ。もしも家族を守るためとか、的の土地や財産を奪うというような目的(ホッブズやロックに教育されたわれわれ現代のブルジョアにいわせれば合理的な目的)のために血なまぐさい戦いがおこなわれたとすれば、その戦い自体はなんらかの動物的な欲求を満たす手段にすぎない」(上、250-251頁)。

 このようなコジェーヴのヘーゲル解釈は、自由主義経済の行き詰まりが「不安」を引き起こし、実存哲学が成立した時代思潮の中で、まさしくそのような時代思潮を踏まえて行われた。その意味では、このヘーゲル解釈には、自由主義的な人間理解を超えた人間理解を定式化しようとする意欲に充ちみちている、ということができる。事実、コジェーヴは、ハイデッガーの哲学に大きな影響を受けている。

 このモデルは、それ自体としては、国民主義的な人間存在論を含んでいない。この人間にいろいろなヴァリエーションを与えていけば、
 「自由主義的近代」の「前近代」を復活を通しての克服。
「自由主義的近代」の「**的近代」を通しての克服。
 「自由主義的近代」の「ポスト・近代」を通しての克服。
 として多層化された〈近代の超克〉を具体化していくことができる。例えば、内村鑑三の「近代」批判は、〈武士道を通して理解されたキリスト教〉、或いは〈キリスト教を通して理解された武士道〉による欲望的世界の克服、といったように。
 丸山の立場は、ロック的近代のルソー的近代を通しての克服といえようか。