特殊講義 2002.前期 Hiromichi IMAI

6.28

 ・ヘーゲル=コジェーヴをもち出すことによって提起された自由主義批判の戦略。
 《「欲望」的人間vs「気概」的人間》という枠組の中で、自由主義が前提とする「欲望」的人間を「気概」的人間によって越え出ていく−−ラートブルフの「自由主義」/「民主主義」論は、このような問題につながっていた−−。
 この《「欲望」的人間vs「気概」的人間》という枠組は、日本的に表現すれば、「町人的人間のあり方」vs「武士的な人間のあり方」ということになろうか。
 現代的には、どっぷりと消費文明に浸かって欲望の塊になりきっているわれわれの存在のあり方をどう越え出るかの問題だ、といってもいいだろう。

・この戦略は、コジェーヴによるヘーゲル解釈によって持ち出されたわけだが、それは原典に忠実で正確なヘーゲル解釈というよりは、戦間期の西欧を中心とした問題状況−−「近代」の行きづまり/西欧の没落−−を踏まえた上でのヘーゲルの読み込みと考えた方がいい。
 コジェーヴ自身、ハイデッガーの影響を強く受けている。ハイデッガーを通してのヘーゲル解釈。

 ・思想史的に見れば、20世紀初頭以後のヨーロッパ、とりわけドイツの問題状況は、思想的にはマルクスとニーチェという問題枠組の中で考えられている。そのことを明確に指し示した人として、マックス・ヴェーバーがいることに注意しておく必要がある。

 「今日の学者、とりわけ今日の哲学者の誠実さというものは、その人間がニーチェとマルクスにどのような態度をとっているかによって測ることができる。この二人がなしとげた仕事なしには、自分の仕事の重要な部分は達成できなかったということを認めないような者は、自分も他人もあざむいているのだ。我々が実存するこの精神的世界は、どこまでいってもマルクスとニーチェによって刻印を受けた世界なのだ」(E. Baumgarten, Max Weber, Werk und Person, Tuebingen 1964, S.554f. )。

 〈「欲望」的人間vs「気概」的人間という枠組の中で、自由主義が前提とする「欲望」的人間を「気概」的人間によって越え出ていく〉というモティーフは、フクヤマの論述では、次のように表現されている−−アーレントやウォーリンを読んだことがある人は、彼らがこの枠組を踏まえていることを読みとりうることに気がつくはずだ−−。

 「ニーチェによれば、近代の民主主義は、かつての奴隷がみずからの主人になったということを体現しているわけではない。それは、奴隷と一種の奴隷道徳の無条件的な勝利を体現しているにすぎないのである。リベラルな民主主義における典型的な市民とは「末人(the last man, letzte Menschen)」である。つまり、近代自由主義の創始者たちによって調教され、快適な自己保存のためにより大きな重要性をもった自分の価値に対する誇り高き信念を捨て去ってしまった「末人」である」(上、30-31頁)。 

 これについては、ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の次の文章を見よ。

 禁欲が世俗を改造し、世俗の内部で成果をあげようと試みているうちに、世俗の外物はかつて歴史にその比を見ないほど強力になって、ついには逃れえない力を人間の上に振るうようになってしまった。今日では、禁欲の精神は−−最終的にか否かは、誰にもわからないのだが−−この鉄の檻から抜け出してしまった。ともかく勝利をとげた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としない。禁欲をはからずも後継した啓蒙の薔薇色の雰囲気でさえ、今日ではまったく失せ果てたらしく、「天職義務」の思想はかつての宗教的信仰の亡霊として、われわれの生活の中を徘徊している。…将来この鉄の檻の中に住むものは誰なのか、そして、この巨大な発展が終わるとき、まったく新しい預言者たちが現われるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、ぞれとも−−そのどちらでもなくて−−一種の異常な尊大さで粉飾された機械的化石と化することになるのか、まだ誰にも分からない。それはそれとして、こうした文化発展の最後に現われる「末人たち」にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無なるものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と。−−」(S.203f.)

 ここで仔細に立ち入ることはできないが、ヴェーバーのこの議論は、W・ゾンバルトやL・ブレンターノらとの意見の対立を背景としている。単純化していえば、資本主義の精神は、宗教や道徳から営利が解放されることによって成立したものか/宗教からある当為が生み出され、それを軸とした倫理を梃子として生み出されたものかという対立である。
 無論、ヴェーバーは、資本主義成立史という論点からは、後者の立場をとっているわけだが、そのヴェーバーも、資本主義の現実という点から見れば、結局は、この宗教的当為から営利が解放されることになっているという事態を批判的に見ているわけである。
 いわば、ヴェーバーにおけるマルクス的視点。

 これと関わることをもう一点。ヴェーバーとトレルチに共通した立場なのだが、彼らは、ルネサンスと宗教改革という二つの要素のうち、近代の形成に決定的な影響を与えたのは、ルネサンスではなく宗教改革だ、と考えていた。

 このことは、ルネサンス的人文主義が形成した人間類型に対して、彼らが、相対的に低い評価しか与えていなかったということを意味している。トレルチ『ルネサンスと宗教改革』(岩波文庫)参照。ヴェーバー自身の見解については、『プロ倫』S.38(邦訳38頁以下)の注(1)参照。

 ここの問題が重要なのは、〈「欲望」的人間vs「気概」的人間という枠組の中で、自由主義が前提とする「欲望」的人間を「気概」的人間によって越え出ていく〉というモティーフはきわめて示唆的でクリエィティヴなものではあるのだが、それだけでは雑すぎるという問題があるからだ−−例えば、「武士道の精神」で「消費社会」の地平を越えるべきだといった類の主張がなされる、ということを考えて見よ−−。

 だから、そのモティーフを前提としつつ、もう一歩踏み込んで、現実に自由主義的近代の克服しうる主体は具体的にはどのように構想しうるのか−−現代的に可能であり、かつ時代の問題を克服しうるような「武士道の精神を体現した主体」とは何か−−、ということが必然的に問題とならざるを得ないわけだ。
 ヴェーバーのプロテスタンティズム論は、まずは資本主義の精神の原型問題に関わっているのだが、同時にこのような視野にも関わっているというべきだろう−−因みに、ヴェーバーを「無神論的カルヴィニスト」と呼ぶ人がいる。ある限定を付ければ、それは示唆的な指摘だということができる−−。

 前回の講義で、私は、「自由主義的近代」の克服についてのさまざまな試みという形で〈近代の超克〉というモティーフを整理することができるとして、次のような三つの類型を提示した。
 「自由主義的近代」の「前近代」を復活を通しての克服。
「自由主義的近代」の「**的近代」を通しての克服。
 「自由主義的近代」の「ポスト・近代」を通しての克服。
 「自由主義的近代」の「日本的/アジア的**」を通しての克服。

 これを提起したのは、〈「欲望」的人間vs「気概」的人間〉という枠組は示唆的ではあるがそれだけでは雑すぎるという問題点を越えて、雑でなく考えていくためのさしあたりの手がかりとして意味をもつ。

 このことは、いわば「ヴェーバー-ニーチェ問題」に関連している。このような事情を念頭に置いた上で、フクヤマに戻ろう。

 「近代におけるもっとも偉大で雄弁な「気概」の擁護者、そして「気概」の復活の予言者となったのは、今日の相対主義とニヒリズムの育ての親、ニーチェであった。ニーチェは、「貴族的急進主義者」と批判されたことに、一言も異を唱えていない」。ニーチェの著作は、確かに「「胸郭(chest)のない人間」の文明そのもの(文化の要素をもたない文明という意味であろう−今井)の台頭、つまり、快適な自己保存以外には何も望まないブルジョアたちの社会の台頭」への「反発」であったと見ることができる(下、40頁)。
 「ニーチェにとって人間の本質とは、欲望でも理性でもなく、その人間の「気概」であった。人間は何よりもまず評価する生き物であり、「善」と「悪」の言葉を発する能力のなかに生命を見出す「赤い頬をした野獣」なのだ」(つまり、本質主義的に捉えられるものではないということが人間の本質だ、というわけだ。本質主義的人間理解を拒絶して、人間は自らの本質を決断的に選択する能力をもつということを強調している。実存哲学につながる点。この点は、前にヴェーバーの人間観として説明したことがある−今井)。…人間がどのような価値を創造したかは、ニーチェにとって中心的論点ではない。なぜなら人間には、追求するべき「千と一つの目標」(つまり無数の目標)があるからだ。地球上のどの民族peoplesも、隣の民族には理解できないみずからの「善と悪の言語」をもっている。人間の本質を形作っているのは、価値評価の行為であり、自分自身に価値を与え、それの承認を要求する行為である。価値評価するという行為は、より善きものとより悪しきものとの選り分けを必要とするがゆえに、そこに不平等主義を内在させている。それゆえにニーチェは、人間に、自分が他者よりすぐれた存在だといわしめるような「気概」のあらわれ、すなわち「優越願望」にしか関心を示さなかった。近代(modernity)の創造者であるホッブズとロックは、身体上の安全と物質的蓄積の名のもとに人間から物事を評価する力を剥ぎ取ってしまった。近代の悲惨な帰結は、彼らの努力が招いたものなのだ、というわけである。
 ニーチェの周知の「権力への意志」という教義は、欲望や理性に対する「気概」の優位性を改めて言明しようとの努力を示すもの、そして近代自由主義が人間の誇りと自己主張の能力に与えた傷をいやすための努力として理解することができる。ニーチェの著作は、へーゲルの説く貴族的主人と、その純粋な威信を賭けた死闘への賛美であり、同時に、自分も気づかぬうちに奴隷の道徳をたっぷりと受け入れてしまった近代への痛烈な非難なのである」(下、41-42頁)。

 この文章からは、ニーチェ解釈がきわめて多様な方向を示すであろうことを読みとることができる−−例えば、ニーチェからヒトラーへというような。「武士道」を主張しても、その多義的解釈可能性には際限がない−−。
 ともあれ、ニーチェのこのような「権力意志」=「気概」の担い手に対する評価から、ニーチェの「貴族道徳」と「奴隷道徳」という対比が成立することにもなる。そして、この「貴族道徳」/「奴隷道徳」のモティーフは、ヴェーバーの発想に、基本的な次元で継承されたものでもあった。「英雄倫理」と「平均倫理」というヴェーバーの言葉は端的にそのことを示している。
 そして、ヴェーバーにとっての問題のひとつの核心が、「経済主義的自由主義」の克服にあった−−ヴェーバーが経済的自由主義及びビスマルク的パターナリズムの克服を志向する社会政策学・経済政策学を自らの専攻に選んだ−−ことを想起せよ。しかし、ヴェーバーは、そこでとどまっていない。

 上で示した『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の結びの一節は、上のフクヤマの論述を、一層深刻な形で、資本主義の精神にまつわる問題として提示している。ここには、西欧近代を生み出したプロテスタンティズムの倫理−−哲学的には、ロック的人間観、世界観−−の危機という問題がある***。

 ここで、講義の冒頭のことを想起しよう。私は、この講義の冒頭で、

 「近代」を特徴づける第一の要素は、
 「1)何よりも「生産力主義的人間中心主義」である。人間は、まず、普遍的に妥当する明晰な理性を持ち、科学技術と知識の開発・習得によって自然を支配し、そのことによって自らの安全を確保し、最大限の幸福を実現するもの、と理解される」。

 と述べた。ヴェーバーをはじめ、この時代の人たちは、勿論、まだ「地球環境の危機」といった問題の存在を知らない。しかし、「生産力主義的人間中心主義」のうちに「近代の危機」・「西欧の危機」が潜んでいるということは、この時代の人々にも察知されつつあった。

 「フランクリンの道徳的訓戒はすべて、正直は信用を生むから有益だ、時間の正確や勤勉・節約もそうだ、だからそれらは善徳だというふうに、功利的な傾向をもっている」。こうしたことから、「たとえば正直の外観が同一の効果を生むとすれば、この外観だけで十分で、善徳へのそれ以上の努力は不必要」だ、といったことが帰結する。「フランクリンによれば、そうした善徳やその他あらゆる善徳は、ただそれが各人にとって実際に有益である限りにおいて善徳であるにすぎず、単なる外観が同一の効果を生むとすれば、その外観を代用するだけで十分だ、ということになる。これは厳密な意味での功利主義にとってはどうしても避けがたい帰結だろう」。
 「ドイツ人がアメリカニズムの善徳に「偽善」を感じるのはまさにこの点だと、ずばり指摘できそうにも思われる。がしかし、真実のところ、事実は決してそう単純ではない。自伝に現われているベンジャミン・フランクリン自身の世にも稀なる誠実な性格だとか、さらには善徳が「有益」だということが分かったのは神の啓示によるので、それによって、神は自分に善をなさしめようとしておられるのだと考えていることに照して」いえば、「営利は人生の目的と考えられ、人間が物質的生活の要求を充たすための手段とは考えられていない。これは、とらわれない立場から見れば、「自然の」事態を倒錯したおよぞ無意味なこと乏言えようが、また資本主義にとっては明白に無条件の基調であって、その空気に触れない者にはちょっと理解しえないものだ。がまた、同時に、それがたたえている雰囲気は一定の宗教的観念と密接な関連を示している。つまり、なぜ「人から貨幣をつくら」ねばならないのかと問われれば、ベンジャミン・フランクリンは自伝で、彼自身どの教派にも属さない理神論者であったにもかかわらず、聖書の句(この句は、彼のいうところによると厳格なカルヴィニストの父が青年時代にくり返し教えたものだ)を引用しながらこう答えている、「あなたはそのわざ(Beruf)に巧みな人を見るか、そのような人は王の前に立つ」と。貨幣の獲得は−−それが合法的に行われるかぎりト近代の経済組織の中では、職業における有能さの結果であり、現われなのであって、こうした有能さこそが…彼の道徳のまさしくアルファでありオメガとなっているのだ」(S.34ff.)。
 自己目的としての生産・資本増殖
 現代自由主義においては、このような意味変化/意味喪失が更に徹底的なものとなっている。

 但し、この問題が、ヴェーバーにおいては、更に官僚制の問題と結合させられた上で捉えられていた。ここでは、『プロ倫』に即してみておこう。

 「ピュウリタンは天職人たらんと欲した−−われわれは天職人たらざるをえない。というのは、禁欲は修道士の小部屋から(「天職」という観念に導かれて−今井)職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的経済秩序の、あの強力な秩序界を作り上げるのに力を貸すことになったからだ。そして、この秩序界は現在、圧倒的な力をもって、その機構の中に入りこんでくる一切の諸個人−−直接経済的営利にたずさわる人々だけではなく−−の生活のスタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで決定しつづけるだろう。バックスターの見解によると、外物についての配慮は、ただ「いつでも脱ぐことのできる薄い外衣」のように聖徒の肩にかけられていなければならなかった。それなのに、運命は不幸にもこの外衣を鋼鉄のように堅い檻としてしまった。禁欲が世俗を改造し、世俗の内部で成果をあげようと試みているうちに、世俗の外物はかつて歴史にその比を見ないほど強力になって、ついには逃れえない力を人間の上に振るうようになってしまったのだ。今日では、禁欲の精神は−−最終的にか否か、誰が知ろう−−この鉄の檻から抜け出してしまった」。

 『新秩序ドイツの議会と政府』。『社会主義論』。ハイデッガー。

 但し−−ここでは、さきの***のところに戻っている−−、西欧中心主義の観点に立つヴェーバーにとって、問題は、ギリシャ文明とイスラエルの予言者宗教の伝統の上に成立した普遍主義的意味をもつ文明が「アジア的停滞」に陥りかねないの「危機」として了解された。

 そして、その危機を克服しうる人間類型が求められた。マキャヴェリ的共和主義の精神と「資本主義の精神」に転落するスキをもたない「プロテスタンティズムの倫理」との統合。

 このヴェーバーの問題設定は、われわれの講義テーマに即していえば、《「近代西欧がもった可能性」の再発掘を通しての「近代の超克」》とでも呼んでいいような性格をもっている。

 私は、このヴェーバーの構想を最大限に評価していい、と考えている。その上で、大きくいって二つの問題がある、と私は考えている。
 (1)ヴェーバーは、この《「近代西欧がもった可能性」の再発掘を通しての「近代の超克」》戦略を、「強力な国民国家」を形成する課題の達成という文脈の中で考えている−−因みに、ヴェーバーにとって、またこの時代にとって、「国民国家(Volksstaat)」という観念は、「官憲国家(Obrigkeitsstaat)」と対立する観念である−−。
 (2)既に述べたように、この戦略の核心には「近代西欧がもった可能性」の再発掘というモティーフがある。このモティーフがヴェーバーの全著作を支えているとさえいって過言ではない。このことから明らかなように、ヴェーバーは、この戦略を西欧中心主義的な枠組の中にたった上で、西欧の「アジア的停滞」への転落の阻止のため、という形で考えている−−この点を端的に示すものとして、「儒教とピューリタニズム」(大塚久雄・生松敬三編訳『宗教社会学論選』(みすず書房)所収)、参照−−。

 このニーチェ−ヴェーバーの思想史的連関は、市民論につながっていたと見ることができる。つまり、ヴェーバーにとって、「気概」の問題は、政治的市民としてのBuerger−−経済的市民としてのbourgeoisではなく−−の問題として理解されていた。
 ウェーバーは、自ら、市民−−価値判断の主体たる市民−−でもあり、すぐれた意味での市民たろうとしていた。ウェーバーは、それと同時に、自国の政治的運命の決定に共同で参加する公民的主体でありうるような〈市民的人間類型〉こそがこれからのドイツにおいて支配的な人間類型となるべきだ、と考えていた。人間がこのような公共性を担いうる市民的主体であるという「価値」に、ヴェーバーはコミットしていたのである。その意味で、ヴェーバーは、「人格主義」的観点に立っているということもできる。そして、ニーチェ的要素は、このような形で継受されたわけである。因みに、ルネサンスの評価もこの点と無関係ではない。
 そして、次の文章から適確に察知しうるように、ヴェーバーのその価値観点は、ヴェーバーの社会学的方法と、間接的な仕方においてであれ、つながっていたのである。

 「いかなる種類のものであれ、社会関係なるものを評価しようとする場合には、例外なく、結局はそれが外的淘汰あるいは内的(動機の)淘汰の道を通じて、そこではどのような人間類型が支配的類型となる最適のチャンスを与えられるのかという観点から吟味されねばならない。でなければ経験的研究は万全なものとはならないし、また意識的に主観的な評価であれ客観的妥当を要求する評価であれ、ともかく何らかの評価に必要な事実的基盤というものも総じて存在しえないからだ」(GWL.479, 『価値自由』331頁)。

 社会政策は、「牧野に草をはむ蓄群の幸福」を目標とするもの−−パターナリズム。ビスマルク的社会政策−−であってはならない。「気概」を持つ人間が支配的な人間類型となるような社会構造を問題にするのでなければならない。
 そして現実のドイツ社会をそのような「気概」をもつ人間類型が支配的類型となる最適のチャンスをもつ社会に可能な限り近づけることが必要だ。そのために、彼は法律学を捨て、社会政策学を自らのフィールドとしたのであった。
 このような発想が彼の制度論の基礎にある。しかし彼はその設計されるべき制度の背後には、その制度を生きたものとするエートスが息づいていなければならない、と考えている。この議論は論理的には循環論法となる−−「気概」をもつ人間を育てるような制度を、誰が作るのか。制度をつくる人はどうして作られるのか。−−。しかし、現実には、この制度が人を作り、人が制度をつくるという循環を立ち上げることが問題なのだ*。

 *その循環を問題にする限り、「作為」の論理は限界に達してしまうのではないか、という問題がある−−「主体論」のワナ−−。私は、この観点から、丸山の「作為」の論理の問題を、西田哲学と三木清の関係に即して考えなければならないのではないか、と考えているところだ。『講座 生命(6)』所収今井論文参照。

 彼は一方では政治的市民の主体形成を可能にする制度を求めているのだが、他方でその制度は市民的主体としてのエートスに支えられねばならないと考えているからである。

 しかし、われわれは、このヴェーバーの二つの問題設定を批判的に見ていかなければならないだろう。(1)の問題は、現代的にいえば、直接に「歴史認識」の問題に通じる問題である。
 また、(2)に注目していえば、非西欧人としてのわれわれは、このヴェーバー的戦略をどのように捉え返し、問題を組み替えて、自分の問題とするのか−−しかも、アジア人としての自らを本質主義的に捉えるという陥穽に陥ることなく−−が問われている、といいうるのではないだろうか。
だから私は、克服されるべき「近代」の第二の要素として〈ウェストファリア体制〉に基礎をおく〈主権国家〉を、第三の要素として欧米中心主義=普遍主義をあげたわけである。

 ともあれ、このような観点から、ヴェーバー的戦略をどのように捉え返し、問題を組み替えて、自分の問題とするのかが、われわれ問われている。例えば、コジェーヴ=フクヤマが指摘している次のような状況は、現代日本の消費社会の問題でもある、と思われるからだ。

 「リベラルな民主主義は「胸郭のない人間」、すなわち、「欲望」と「理性」だけでつくられていて「気概」に欠けた人間、長期的な私利私欲の打算を通じてくだらない要求を次々に満たすことにかけては目端の利く人間を産み落としたのだ。
 この「最後の人間」は、他人より優れた存在として認められたいという欲望などひとかけらも持ち合わせていないが、そのような欲望がなくては人はいかなる優越性も業績も手にできない。自分の幸福に満足し、ちっぽけな欲望を乗り越えていけない自分になんら羞恥心を抱かない「最後の人間」は、要するに人間であることをやめてしまった存在なのである」(上、30-31頁)。

 しかも、われわれは、戦前的な、単に大日本帝国による「西欧帝国主義」の超克とそれとの部分的代位という内容をもつ〈近代の超克〉の地平と徹底的に対決しながら、この問題を考えなければならない。

 私としては、この問題を市民論として考えたい、と思っている。