特殊講義 2004.前期 Hiromichi IMAI

 第八回講義 6月10日(講義は、実際には、22頁下の3. から)

 丸山のこのような福沢に対する態度は、次のような主体性論をともなっている。

「秩序を単に外的所与として受取る人間から、秩序に能動的に参与する人間への転換は個人の主体的自由を契機としてのみ成就される。「独立自尊」がなにより個人的自主性を意味するのは当然である。福沢が我が国の伝統的な国民意識に於てなにより欠けていると見たのは自主的人格の精神であった」(丸山A220-221頁)。

 先ほどの『自己内対話』からの引用文に即していえば、丸山のこの福沢論の一節は、日本という国民国家の「混沌」から「秩序」へ向けての創造的過程のなかにあってその過程に自覚的にコミットする主体としての覚醒を国民に促そうとした思想家として福沢を評価しようとしている、といえる。因みに、戦後のある対談において、丸山は、福沢を評してこう言っている。

 「福沢の場合はつねにものの完成された状態ではなくて、不断の働き、動いていく過程を見ていくわけです。だから、ある完成された状態というイメージが自分の中に描かれていて、それでもって現実に目の前にあるものを測るというのとは正反対になるわけですよ。不動の心境とか、悟りの境地とか、そういうものをむしろ不断にぶっこわしていくということでしか自分のリアリティというものを確認できない。そういう精神構造だと思います」(丸山座談B44頁)。

 4. 以上の議論を踏まえていえば、丸山の議論においては、個人の主体性を−−従って個人の行為を−−重視するという態度が、前面に押し出されている。この点に注目するなら、丸山の思想には、政治的実存主義、あるいは国家的実存主義とでも呼ぶことのできる側面が濃厚にある、そして、その点で、田辺と共通したものがある、ということができる。そして、丸山は、この政治的実存主義、あるいは国家的実存主義を福沢の中に投げ入れて、そしてそれを福沢から読み出している。いわばそういう解釈学的操作を−−自覚的にか無自覚的にか−−行っているのである。

ここで簡単に「実存」という言葉の意味を、この講義の文脈にとって必要な限度で示しておくことにする。自己をどのようなものとして考え、捉えるかというその思考が「自己の在りかた」を決断することを意味する、即ち自分がいかなる存在であるかを自覚するというその自覚によつて自己の在りかたが決定されるということを意味する、このように考えることができる。このような考え方を一度もしたことがないなどという人は稀であろう。「今ここでここから逃げたら、私は、一生だめな人間になってしまう」といった言葉は、そのことを示している。だから、私は「今ここでここから逃げ」ない、頑張って立ち向かうという決断が、本来的な私のあり方を決定することだ、本来的な自己を自覚することだ、ということになる。その場合の本来的なものとして自覚された自己が「実存」だ、ひとまずこういっていい。
 田辺元の説明によれば、「さういふ思考のしかたといふものは、宗教的な思考としては殊に東洋などで昔からある…。例へば佛教でいはゆる悟るといふのは、ただ観念的に人間の在りかたを考へるといふことではない。いかなるものとして自己を悟るかといふことがすなはち自己の在りかたを決断し決定するばあひに悟るといふのです。…自覚といふことのほんたうの深い意味は、自分がいかに在るかといふ存在性を決定する思考であるといふことでなければならぬ。この意味で自覚的思考といふものが實存哲學の思考なのです。だから實存哲學者にいはせると、實存的な思考といふものは行爲なのです。いはゆる内的行爲と呼ばれるものです。ただ観念的にものを考へるといふのではなくて、自分の在りかたを決定する、それに從つて現實を決断する、現實の自分を決断することによつて自己をあるひは変化し、変革し、あるひは新にし、更新して、自分をそこに新しいものとして出発せしめるといふ、それがすなはち実存であり、東洋でいふ悟りといふものである。悟りはまさに実存的思考である。さういふやうに自己が自己をどういふものとして決断するかに從ひ自己の存在を新にする思考ですから内的行爲とよばれるわけです。それが實存といふ概念の大切な意味であります」(田辺J146-147頁)。
 ここで使う実存という観念もこれと別のものではない。ただし、政治的実存主義とか国家的実存主義と言ったのは、こういう実存のとらえ方が、政治的局面。自己と国家との関わりの局面においてなされる場合を考えているからである。自己と神との関わりの局面で実存を考えることももちろん可能である−−宗教的実存主義−−。キェルケゴールの実存主義は、宗教的実存主義として成立した。

 しかし、そのような政治的・国家的実存主義は、「弁証法的な全体主義」の思想(本textの21頁を見よ)に必然的に伴うものであり、いわばその裏面であるとも言えよう。ここに潜んでいる問題を論じていくためには、その前に、戦前の丸山の福沢諭吉理解を一瞥しておくのが好都合である。というのは、「弁証法的な全体主義」と政治的・国家的実存主義的な個人理解とが表裏一体の関係になっているという事情は、戦前の丸山の福沢理解のうちに−−具体的には、「福沢における人間と秩序」と題されて、既に丸山が東大法学部の助教授になっていた1943(昭和18)年11月に、『三田新聞』の「学徒出陣記念号」に寄稿した一文のうちに−−、劇的な形で投影されていると見ることができるからである。
 その一文において、丸山は、福沢を、「国民一人々々」に対して、「国家をまさに己れのものとして身近に感触し、国家の動向をば自己自身の運命として意識」し行為せよ、さもなくばこの日本という「国家」は「苛烈なる国際場裡に確固たる独立性を保持しえ」なくなってしまう、そうならないようにするためにも、「独立自尊」の個として国家を「苛烈なる国際場裡」において独立したものとしてあらしめるべく行為しなければならない、と説く個人主義即国家主義の実践の主唱者として了解している(丸山A220頁参照)。「個人主義即国家主義の実践の主唱者」といったが、それは、丸山自身がこの一文において「彼は…個人主義者たることに於てまさに国家主義者だった」(丸山A219頁参照)と述べている言葉を私なりに要約した表現である。しかし、「個人主義者たることに於てまさに国家主義者」−−つまり「個人主義者即国家主義者」−−であるとは、具体的にはどういうことを言うのか。次の文章を見ておこう。

「国民一人々々が国家をまさに己れのものとして身近に感触し、国家の動向をば自己自身の運命として意識する如き国家に非ずんば、如何にして苛烈なる国際場裡に確固たる独立性を保持しえようか」(丸山A220頁)。

 この言葉は、直ちに23頁の最下段で引用した「@若し日本が近代国家として正常な発展をすべきならば」、という言葉につながっていくものである。
 それはともあれ、丸山の政治的・国家的実存主義は、ここでの「国家をまさに己れのものとして身近に感触し、国家の動向をば自己自身の運命として意識」するという言葉のうちに明瞭に示されている、といっていい。「国家」を「己れのもの」として「感触」し、「国家の動向」を「自己自身の運命」として「意識」する人にとっては、「国家の運命」は直ちに「自己自身の運命」として現れてくることになる。その「感触」と「意識」とによって、「国家の運命」と「自己自身の運命」との同一化が図られるわけです。この時には、いってみれば「今ここでここから逃げたら、私は、一生だめな人間になってしまう」といった議論が成立することになるわけである。丸山は、別のコンテクストにおいて福沢は「国家を個人の内面的自由に媒介せしめた」(丸山A219頁)と言っておりますが、そのことも、要するに「国家」と「個人」の同一化のことを言っているわけである。ここでは、国家の運命を直視しないものは、自己の本来的なあり方を放棄することになる。
 ところで、このように「国家の動向」を「自己自身の運命」として「意識」し、従って「国家」の運命と「自己自身の運命」との同一化を図り、「国家」と「自己」とを同一視する時、「国家」の運命が「個人」に対して−−従って動員される学徒兵に対して−−発する要求は、個人に対して「外的強制として現われ」るものではありない、その要求は、同時に自己の内面から発する要求でもある、ということになる。同一化のゆえに、いわば、国家が個人の中に住み着く。「自己」は「国家」の中の〈小国家〉になる。そのとき、個人の中に住み着いた「国家」の運命が「個人」に対して発する要求は、「自己の運命」が「自己」に対して発する要求にほかならない。従って、「国家」の運命が「個人」に対して発するその要求は、自らの「人格」の「内面的独立性」を媒介として「実現」されるべきものと言わねばならないことになる。かくして、その人は、「国家」の要求に対して、「外的な強制」としてやむをえずそれに服従するのではなく、ましてや不服従に訴えることなど自己矛盾でしかなく、「自発的な決断」を通してそれに従うべきことになり、「国家への道を歩」むべきことになるわけである。こうして、丸山助教授は、福沢の言葉を伝声管として、動員される学徒達に向かって次のように言う。

「「一身独立して一国独立す」で、個人的自主性なき国家的自立は彼(福沢−今井)には考えることすら出来なかった。国家が個人に対してもはや単なる外部的強制として現われないとすれば、それはあくまで、人格の内面的独立性を媒介としてのみ実現されねばならぬ。福沢は国民にどこまでも、個人個人の自発的な決断を通して国家への道を歩ませたのである。その意味で「独立自尊」は決してなまなかに安易なものではなく、却ってそこには容易ならぬ峻厳さが含まれている。安易といえば、全体的秩序への責任なき依存の方がはるかに安易なのである」(丸山A221頁)。

丸山のこのような発言のうちに、「弁証法的な全体主義」の思想に必然的に伴う政治的・国家的実存主義が鮮明に現れている。
 丸山が「弁証法的な全体主義」と定式化した思想においては−−従って田辺の思想においても−−、個人は、「国家を媒介としてのみ具体的定立をえ」ながら、「しかも絶えず国家に対して否定的独立を保持する」ということを特質とするものであった。個人が「国家を媒介としてのみ具体的定立をえ」るとは、国家があってはじめて具体的なものとして存在することができるということだが、しかしそれにもかかわらずその個人は、「国家に対して否定的独立を保持」している、つまりその国家からは独立し、自己の内面的な要求に発する内面的な決断を通して、行為することができる、と考えられているわけである。だが、個人は、「国家を媒介としてのみ具体的定立をえ」るが、国家もまた個人を媒介としてのみ具体的定立をえるものでもあるということになるわけである。
 このような事態の中では、自己犠牲が自己実現であるという同一性が実現されてしまう。そして、そのような自己犠牲の中で自己実現を図ることが、個々人の最高の実存的行為になってしまう。「弁証法的な全体主義」の思想地平においては、個人主義者と国家主義者とは同一的なものとして理解される、つまりは個人主義者即国家主義者だということは、こういうことだ、と私は考えている。

 ここでヴェーバーについて一言。23頁で示したヴェーバーの態度にも、実存主義的の要素はある。しかし、ヴェーバーには、「国家の動向」を「自己自身の運命」として「意識」し、従って「国家」の運命と「自己自身の運命」との同一化を図り、「国家」と「自己」とを同一視するという意味での国家的実存主義はない、と思う。ヴェーバーが政治的極面でナショナリストであったということは事実だ。しかし、それは、自己に固有の価値観が国家とは別のところで成立していて、その価値観の実現のために国家を道具視してそれを使いこなそうとするところから成立した立場であって、そこには自己犠牲=自己実現などと考える余地はなかった。
 なお、丸山の政治的・国家実存主義との関係において「忠誠と反逆」を精読してみることを勧めたい。

 ここに、私が政治的・国家的実存主義と呼ぼうとする立場があるのだが、その政治的・国家的実存主義が、丸山の戦前の福沢論には、まさしく典型的な仕方で現れているわけである。このことは、先ほども示唆したが、丸山が、「弁証法的な全体主義」の思想に必然的に伴う政治的・国家的実存主義を福沢の中に読み込み、そしてそこからそれを読み出したということを意味している。かくして丸山は、この福沢論において、この点に焦点を絞りこんだうえで、総括的な、しかも極めて高い次のような評価を福沢に与えることになる。

 「福沢は単に個人主義者でもなければ単に国家主義者でもなかった。また、一面個人主義であるが他面国家主義という如きものでもなかった。彼は…個人主義者たることに於てまさに国家主義者だったのである。国家を個人の内面的自由に媒介せしめたこと−−福沢諭吉という一個の人間が日本思想史に出現したことの意味はかかって此処にあるとすらいえる」(丸山A219-220頁)。

 私は、ここで丸山がこのように福沢を評価することによって、福沢を「弁証法的な全体主義者」として、いわば解釈学的に再発見したということができる、と考えている。そのとき丸山は、田辺を通して福沢を見ていた、ともいえるであろう。