特殊講義 2004.前期 Hiromichi IMAI
第九回講義 6月16日
intermezzo  市民的不服従について−−イェリネック・テーゼとの関係で−−

 本講義の冒頭で、シュミットの説明(text, p.1)を紹介し、そこにはイェリネックの「少数者権利論」・「人権宣言論」の精神が説明されているとして、それを本講義においては、イェリネック・テーゼと呼ぶことにした−−念のために言えば、シュミットはこの精神の立場に立っていたわけではなかった。ただ、「超国家主義」論文の丸山がシュミットの「中性国家」という観念を利用しながらこのことを説明していたので、シュミットを持ち出したまでのことである−−。
  また、このイェリネック・テーゼの精神は、「支配の社会学」におけるマックス・ヴェーバーの文章によく現れているとした(text, p.2)。
 ヴェーバーはまた、この精神を、ルター主義的な保守的精神に対する批判の意味を含めて、次のように言っている。

 「ピューリタニズムの歴史をもつ諸国民はカエサル主義に対して比較的大きな抵抗力をもっている…。だからこそイギリス人は、一般に内面的自由を保っていて、一方では大人物の『価値を承認』しながらも、他方では大政治家に対してさえ批判的であり、彼等へのヒステリックな偏愛だとか、政治上のことがらについて誰かに『感謝』をもって服従すべきだとかいうようなナイーヴな思想を拒否しえたのだった−−これは、我々が1878年以降のドイツで、積極的にであれ、消極的にであれ、体験した多くの出来事とはまさに正反対である」(GRSI.102.Anm., 『プロ倫』123頁)。

 このヴェーバーの言葉の背後には被造物神化の拒否の思想がある。神以外の拝礼拒否の思想である。この思想は、原理的に「忠誠」観念の否定の思想を含んでいる。

 ここでは、このような精神の発展形態として、「市民的不服従」というものを理解することにある。既に紹介したことがあるが、私はこの点をめぐる議論を、「価値相対主義の問題性と市民的不服従」(今井弘道編『法思想史的地平』(昭和堂 1990)所収)において論じたことがある。従って、詳細はそれを参考にしうることを考慮して、ここでは要点だけ示し、口頭で詳細に説明する。

ラートブルフの転向とハートの批判…ラートブルフは、ナチス支配下での苦い経験を経た後、相対主義・反自然法論の立場を捨て、自然法の立場に立った。ハートの表現を借りれば、ラートブルフのこの自然法の立場は「ユリシーズやダンテと同様に地獄」を−−だが「人間によって作られた他の人間にとっての地上の地獄」を−−体験し苦悶した者が人類にもたらした「メッセージ」であった。
 このラートブルフの〈転向〉のポイントは、相対主義的・実証主義的な〈法と道徳の分離〉の主張の〈撤回〉にある。
 法実証主義は〈法〉を概念的に〈道徳〉から区分されるもの、この意味で一定の自律性を有するものと見る。この立場においては、道徳的契機を備えない法も法たりうるものとされる−−悪法も法なり−−。

 かかる相対主義的・法実証主義的な法概念の捉え方が非人道的で不道徳な法をも法として通用させ、それへの没批判的な遵法を当然視させる帰結をもたらしたのではないか−−このような法実証主義にまつわる問題性をここでは便宜上〈法実証主義問題〉と呼んでおこう−−。ナチスは、この実証主義的な精神を体現する〈命令は命令だ〉〈法律は法律だ〉という二つの原則を用いて、「一方では軍人、他方では法曹を従者として手もとにつなぎとめえた」。〈法律は法律だ〉という原則一「何十年もの間ドイツの法律家たちを支配した法実証主義の思想の表現」には、「何らの制限もなかった」、このように反省されたわけである。
 こうしてラートブルフは〈法実証主義問題〉のゆえにかつての自らの価値相対主義的法実証主義の立場を否定し、ハートの要約を借りれば、「ヒューマニズム道徳の基礎的な原理はまさに法あるいは合法性の概念の一部分をなす」と見、悪法は法ではない、と考えるに至った。
 そのことによってナチス的圧政に対する抵抗の思想的拠点を法哲学的に保証し、〈法実証主義問題〉を自然法思想によって克服しようとした。
 このような主張は、第二次大戦後ドイツにおけるいわゆる「自然法論のルネッサンス」の契機となり、様々な法哲学的論議を呼び、また実務上の影響をも与えた。

 ハートのラートブルブ批判・〈主権的個人間題〉…ハートは、このラートブルフの議論を「同情の念」をもって見る。だが他方で、「道徳性の要求に対する無感覚」と「国家権力に対する屈従」とを法実証主義的法観念に淵源すると見、〈法実証主義〉に問題の核心を求めようとする見解は、あまりにも「ナイーヴ」だともいう。
 例えばイギリスでは、法実証主義は「もっとも啓蒙されたリベラルな態度と一致し」、自由主義に対して開かれていた。ここでは〈法実証主義問題〉は生じなかった。とすれば、問題は法実証主義それ自体にはないことになる。
 ハートの考えるところ、問題は、法・権力に即座に屈従せず、自己とそれとの間に緊張関係を維持しうる自律的個人の存否である。
ハートによれば、個人の遵法行動を最終的に理由づけるものは法ではない。個人の行動を義務づけるものは法ではなく、自律的・主権的な個人の道徳的判断でなければならない。法であっても、道徳に反すると自分が判断する場合にはそれに従わないという自律的・主権的な個人の道徳的判断の存否が問題だ。
法というものは、個人の行為を律する道徳とは独立に作用する。したがってそこにリアルな権力作用が働く。このことを覚悟しつつ、それを遵守する行為が「行動についての最終的テストとしての道徳性」にてらして許容しえない「帰結」をもたらさないかどうかを吟味し、場合によっては遵法を拒否し、抵抗し、改革への要求を掲げ、その要求を実効的に展開しうるのでなければならない。

 この観点から見たとき、ラートブルフの議論には、ルール権威主義−−法の物神化−−がまつわりついている。次の三段論法を考えてみよ。
(1) 法には従うべし (2) 法には従うべし
   これは法である     これは法ではない
   ∴この法に従うべし    ∴この法には従うべからず
ラートブルフの自然法は、この小前提を客観的に確定しうる規準として、「自然法」が必要だという議論だ。
(1)’ 法には従うべし        (2)’ 法には従うべし
    これは法である これは法ではない
∵それは自然法に合致している ∵自然法に合致していない
   ∴この法に従うべし          ∴この法には従うべからず

ハートの議論
 (1)これは法だ (2)これは法だ
   それは私の道徳と一致する。 それは私の道徳と一致しない。
∴この法に従うべし ∴この法には従うべからず

 ロールズの市民的不服従論
「市民的不服従」とは、ロールズによれば、市民がある「法や政府の政策」が「自由で平等な人々の間の社会的協働の原理」つまり社会的統合を可能にする正義価値を毀損すると確信した場合に、それの変更を求めて行なわれる行為−−それも「コミュニティのマジョリティの正義感覚」に向けた、「法に反する、公共的、非暴力的、良心的、かつ政治的な行為」−−を通じて自分の確信を宣言する行為である。
 マジョリティに対して、正義感覚の覚醒を促す−−但し、客観的な正しさは、前提とされていない−−。たとえば女性解放運動(口述)。

 ロールズは、かかる市民的不服従を民主制を否定・解体するものとは見ず、むしろ民主的体制の安定化要因たりうる、そればかりか市民的不服従は多数決ルールの限界を補完する機能をもつものとして、正義にかなう民主的な社会体制の不可欠な構成的契機であるとすらいう。

 ロールズは、多数決を不完全な手続的正義と考える。多数決ルールは構造的少数者への抑圧を導く可能性や、個人の人権を侵害する立法の可能性を内包している→多数決ルールだけでは、民主主義的手続として不完全。
 多数決ルールだけでは民主主義的手続として不完全だということは、法は「さしあたっての遵法義務」を人々に課すだけだという遵法義務論とつながる。
    これは法だ
    さしあたりはこの法に従うべし
    よく考えてみるとそれは私の正否感覚と一致しない。
    多数者の正義感覚を疑い、市民的不服従に訴えよ。

 不完全な手続的正義としての多数決ルールを補完するものが市民的不服従の運動と考えられている。

 ロールズは、いかなる市民的不服従をも正当とするわけではない。正当な市民的不服従であるためには、
 @その不正義が平等な市民の諸自由の明白な侵害であることの他に、次の条件が必要と考えられている。
 A「通常の政治的異議申し立て」が相当期問にわたり無視されていること、
 B「同様の場合に同様に異議を申し立てることが一般的に行なわれたとしても」「基本法の効力を根底からゆさぶる」ことがないこと、
 Cその他戦術上の適切な配慮がなされること。

 Aに関しては「合法的な抗議や示威運動」による試みを無限に続ける必要はない。マジョリティが抗議に冷淡であることが判明すれば、充分である。
 Bは、市民的不服従は正義の理念に合致する基本法を前提とした上で個々の公的判断の正当性を問題にするものであるから、当然に必要な配慮と考えられる。
 Cをも含めて、要するに「法律や基本法に対する敬意を損なうことなしに、そしてそれによってすべての人に不幸な結果を招来することなしに、市民的不服従への参加がなされる」ことが必要だというわけである。

 ここで〈アナーキー〉への恐怖が示されていると解されるならば、それは正当ではない。問題の核心はむしろ、効果的な結果を求め、少なくとも予期せぬ望まれざる結果を避け、良き憲法体制を維持しながら、それの欠陥を不断に補正していくための不可欠の条件として市民的不服従を展開していこうとするいわば〈責任倫理〉にある。ここでロールズは、帰結主義的考量とでも呼ぶべきものに関わっているのである。彼は市民的不服従を、また総じて正義論を、快の総量の増大のためには個々人の権利の侵害も正当化するという構えをもつ功利主義への批判的観点から構成している。しかし、市民的不服従の正当化の問題は頑なな権利の自己主張の次元にのみ求められているのではない。
 彼が求めているのは、行為が市民的秩序に与える結果に対する責任という観点から判断することである。ロールズによれば、市民の正義の考え方に「部分的に重畳する同意」が存在し、かつ行為者が@からCまでの条件を尊重する限り、無政府状態の危険はない。むろん、分裂的闘争に帰結する危険を完全に回避しうるわけではない。しかし正当に行なわれる市民的不服従がアナーキー状態に帰結する場合には、責任は不服従行動をする側にはなく、むしろ権威や権力を濫用することによって不服従の行為に正当性を与えている側にある、と彼はいう。
 例えば、君が代斉唱とそのための起立を強要し、それに抵抗する人がいて儀式が混乱するなら、良心の自由に反して斉唱と起立を強要した主催者と主催者を支える法に責任がある、というわけである。

 このような市民的不服従に対してマジョリティが誠実に対応せず、抑圧状態やアナーキー状態が惹起されたならば、問題は市民的不服従の問題であることをやめる。マジョリティはそのことによって圧政と屈服、侮蔑と屈辱を社会の原理として選択し、「近似値的に正義にかなう社会」を公然と否定したからである−−私は、日の丸・君が代の強要は圧政と屈服、侮蔑と屈辱を社会の原理として選択し他ということを意味していると考える−−。

 ロールズは市民的不服従の問題を「正義にもとる腐敗したシステムを改造あるいは打倒しようとする戦術」と明確に区別している。彼にとって後者の行動の正当化に困難はない。「もしこの目的の達成のために何らかの手段が正当である限り、必ず非暴力的反抗は正当化される」。また「ある環境の下では戦闘的行為やその他の種類の抵抗も正当化されうる」。マジョリティが圧政と屈服、侮蔑と屈辱を社会の原理として選択した場合には、問題はこの次元に移る。

 〈良心の自由〉に基づく反権威主義的エートスが一般的なものとして成立している場合には、少数意見の正義にもとる抑圧は秩序よりも混乱を惹起するであろう。このことが経験則として成立するほどになっており、責任倫理の帰結主義的観点が没却されない限り、多数者はより慎重に寛容に行動するであろう。また上記の条件が満たされた市民的不服従が市民の慣行となるなら、より民主主義的な秩序が成立するだろう。