特殊講義 2004.前期 Hiromichi IMAI
 第十回講義 6月23日
 〈自由主義的な国家・個人理解〉と〈民主主義的な国家・個人理解〉

 その前に、前回の講義への感想の感想+α
 @ハートへの共感が多かった。鶴見の不服従論とハートや市民的不服従論。
 A質問 学部3年 H
 「ラートブルフの転向に対するハートの批判」の点が良くわかりません。
ハートは「メタ法実証主義」のような立場から市民的不服従の可能性を説いたのですか。
それとも法実証主義の中であの議論が成り立つのですか。
私はてっきり「メタ」的な議論ならば、ハートはラートブルフとは違う土俵で
闘おうとしていて、ラートブルフの議論に対する答えになっていないのではないかと思いました。
 実証主義の法と道徳の区別の意味
 a)遵法義務が前提されるならば、道徳の固有性の否定、法と道徳の緊張関係を見ようとする視点はない。
 b)道徳の固有性を承認した上で、権力作用と法の関係の次元で道徳とは全く別の固有法則性をもつ法を理解する。それは同時に、法と道徳の緊張関係を理解を伴う。

先生は授業のなかで、ドイツ市民はナチスに対して遵法を拒否する判断力を持っていなかったとおっしゃっていました。もし道徳的判断で法に従わなかった場合、
ハートの立場ではナチス国家からの制裁からはどのような根拠で逃れられるのでしょうか。

 ナチス国家に正統性はない。なぜそういえるかはそれ自体法哲学的な問題。だが、そのことを前提にいえば、事実レヴェルでは、「不当な制裁」に屈するというだけの話。車内の喫煙を注意して殴られるというのと同じ次元。一切のリスクなしに不法に抵抗する手は、原理的にない。あるのは、リスクを負って不法に抵抗するか/黙視=黙認しかない。
 イェリネック・テーゼはそこでは抵抗するしかないという次元の主張を含んでいる。
 神(=良心)に従うか/カエサルにか。原理的にはこれ以外の選択肢はない。

「もし君たちがこれこれの立場をとるべく決心すれば、君たちはその特定の神にのみ仕え、他の神には侮辱を与えることになる。なぜなら、君たちが自己に忠実であるかぎり、君たちは意味上必然的にこれこれの究極の結果に到達するからである」(「職業としての学問」、文庫63頁)。
 第十二条【自由・権利の保持義務、濫用の禁止、利用の責任】 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 以上@Aとの関係で、6月19日(土)の朝日朝刊2面の記事について。

 さて、ここで本論に入る。
 近代国家の成立過程は、丸山にとっては、教会と諸身分を中心とする多元的カオスからなる中世的な「仲介的勢力」を克服し、それを「唯一最高の国家主権」と「自由平等な個人」という「両極」に解消する過程として理解された。そして、「近代政治思想の一貫した課題」を、丸山は、この「唯一最高の国家主権」と「自由平等な個人」という「両極」がいかに関係し合うべきかという点にあったと考えていたようである。戦後直後の丸山が執筆した書評「ラッセル「西洋哲学史」(近世)を読む」(1946.12)において、丸山自身は、文字通りそのように言っているというわけではないにしても、この「両極」の「関係」に即してみれば、近代政治思想は、二つの類型的な考え方に区分可能だと考えられていることが窺える。
 その二類型を、私は、便宜上、(a)〈自由主義的な国家・個人理解〉と(b)〈民主主義的な国家・個人理解〉*と呼ぶことにしたい。そして、それを以下に理念型的に再構成しておくことにしたい。その構成を前提としていえば、少なくとも戦前からこのラッセル書評執筆時期までの丸山は、かなりストレートな(b)〈民主主義的な国家・個人理解〉の立場に立って、(a)〈自由主義的な国家・個人理解〉の観点を拒絶していた、といいうるようである−−このことは、前項の議論を踏まえていえば、〈「閉ざされた統一体」の観点〉はルソー的民主主義思想に即して成立するべきだと考えていたことを示しているといいうるであろう−−。先ほど私は、丸山の国家形成論ををめぐる議論には、近代国家の成立をめぐる西欧政治思想史上の一般的な問題状況についての理解が常に投影されていたと言ったが、その理解については、このような対抗図式を手がかりに一瞥しておくのが、前項における議論との関連からいっても、最も事態に即したことのように思われるわけである。

 *これはG.ラートブルフの議論から着想した私の便宜的表現であるが、丸山の議論と齟齬することはない。この点、及びラートブルフについては、第一章でも論及している。
 しかし、その前に、一度、ことのついでにしたことがある(筈の)次のような話を思い出しておこう。それは、ラートブルフによれば、民主主義と自由主義の間には、質的差異がある−−それは彼にとっては、ルソーとロックの差異とパラレルなものでもある。換言すれば、彼の「民主主義」の概念は彼のルソー解釈に基づいて再構成されたものであり、「自由主義」概念はロック解釈に立脚して定式化されたものなのである−−、という話である。
 このラートブルフによれば、民主主義とは、つまるところ、多数者意志を政治的に第一義的な価値として尊重しようとする、いわば〈多数者意志第一主義〉の政治思想である。これに対して、自由主義は、少数者意志・個人意志の尊重を要求する政治思想である。
 この対比を、ラートブルフは、
 @「民主主義」は「多数者の制約されることのない支配」−つまり、自然法などの超越的な規範によって掣肘されることのない多数者の支配−−を欲する−−が、これに対して、
 A「自由主義は…多数の意志に抗しても自己を主張する可能性を個別意志に保障することを要求する」、と表現している。自由主義にとっては、多数者意志の支配としての民主主義は、少数者に対する多数者の専制となる危険性をもつものである。換言すれば、個人の自由は、多数者が支持する民主主義的な権力によっても抑圧される可能性があると見て、そのことをも警戒する思想、それが自由主義だといっている。
 この自由主義思想からすれば、たとえ人民を主権者とする民主主義的権力であっても、それが権力である限りは、警戒心を放棄してはならない。民主主義的権力からもまた、われわれは自らの自由や権利を侵害されるかも知れない。だから、それを不断に一定の限界内に封じ込めておくように注意を払う必要があるのである。この意味で、われわれの人権と自由を最終的に担保するものは、民主主義権力を含めた一切の権力に対する抵抗権の発動である、あるいは市民的不服従の行為である、このようにいわねばならない。
 こう考えれば、私がこれまでイェリネック・テーゼと呼んできた考え方とハートやロールズの考え方が、この「自由主義」の観点の上で連続的につながるものであることが察知されるであろう。
 このことをラートブルフの観点から見るとこういうことになる。戦前のラートブルフは、法実証主義者であったが、同時に民主主義者であった。民主主義的手続を通して成立した法は、すべて「遵法義務」−−ロールズの言う「一応の遵法義務」ではないことに注意−−を発生させる法だ、と考えていたわけである。このラートブルフの立場から見る限り、ハートの立場や市民的不服従は反民主主義的な自由主義思想に由来することになる。

 (a)〈自由主義的国家・個人理解〉…これを考えるときには、私がこれまでイェリネック・テーゼと呼んできた考え方を念頭においておけばよい。ともあれ、この〈自由主義的な国家・個人理解〉に従えば、国家主権と主体的個人の両極はつねに対立的緊張関係にある。そして、この立場では、本来的な人間のあり方は、国家以前的な領域−−自然状態−−に属するものと了解された。従って、この本来的な個人の観点からは、国家は、相対的で、便宜的存在に過ぎない−−「夜警国家」という言葉によってその相対性を端的に表現させることができる。因みに、この「夜警国家」という言葉はへーゲル主義者のフェルディナンド・ラッサールのものであるが、ラッサール自身、いわば〈民主主義的国家・個人理解〉を典型的に体現し、それを社会主義に接合させようとした人物であり、批判的観点から自由主義的国家観に対してこのような揶揄的な言葉を投げつけたのであった−−。
 かくして、この自由主義の立場に立つ個人主義は、この「国家以前」的個人に定位する。そこから、まず国家以前的なものとしての「自由権」の確立が要請され、その自由権の範囲に応じて「主権が制限される」べきものと考えられるわけである。この制限が確保され、国家が「自由権」の保護のための機能に徹するという便宜的存在にとどまる限りで、この立場は、政体問題には、相対的に無関心でいることができる−−無論、民主主義的体制に親近感を感じることは多いであろう。だが国家は「必要悪」という観点が常にあるので、民主主義体制に対しても警戒的である−−。思想史的にはこのような立場はジョン・ロックに体現されたが、近年では、ハイエクや、ロバート・ノーズィックに代表されるいわゆるリバタリアンたちが、この思想をかなり純粋な形で表現したことは周知の通りである。
 これに対して、
 (b)〈民主主義的国家・個人理解〉は、国家という政治的共同体の中で生きること−−ゾーン・ポリティコン(ポリス的人間)であること−−のうちにこそ人間の本来的あり方があると見て、この観点から人間を「国家以前」的存在と見る自由主義的人間理解を否定する。この立場の個人主義は、いわば「国家・内・存在としての個人」に、あるいは「国家的存在としての人間」に定位するわけである。同時に、その国家は、つまるところはナショナルなものに基礎を置くものと考えられる。
 従って、この立場においては、「個人が"公民"として主権に一体化し」、「個人的自由と主権の完全性とが全く一致」させられ、個人と国家とのこの同一性がナショナルなものの表現体となりきることが、個人・国家関係の理想的あり方だと考えられる−−個人と政治的共同体との同一性がナショナルなものの表現体となるべきだというこのような観点は、思想史的には、ルソーからヘルダーを介してヘーゲルへ至る展開の中で明確になってくる*−−。この個人と国家の同一性は、政体論的には、民主制において最も適切に実現されると考えられる。そして、ラッセル書評の丸山は、この立場にコミットしていることをこの上もなく鮮明にしている。