特殊講義 2004.前期 Hiromichi IMAI
 第十二回講義 7月7日

 三木清の「世界主義の哲学」の思想史的意義−−講義のまとめに代えて−−

 第十回講義の最後に、(a)〈自由主義的国家・個人理解〉と(b)〈民主主義的国家・個人理解〉という類型的な思考様式を踏まえた議論をした。イェリネック・テーゼに表現された思考様式と丸山的な思考様式との差異の根拠についての私なりの理解を示すためであった。それを示すことによって、この講義の議論は、一応はまとまったものになったかと思う。
 ここでは、そのようなこれまでの議論はのまとめに代えて、満州事変以後の国家をめぐる思想状況の一端を、三木清を軸にして垣間見ることを通して、あらためて戦前の丸山の思想が有する意味について眺望してみたい、と思う。以下の議論の全体は、直接には丸山に関わっていない(36頁で多少の言及はしている。それを見れば、議論の流れが捉えやすくなるかも知れない)が、緩やかな形で、(a)〈自由主義的国家・個人理解〉と(b)〈民主主義的国家・個人理解〉という類型的な思考様式によって表現される問題に関わっている(以下のテキストは、近く発表(『講座 生命 第7巻』(河合文化教育研究所 2004(予定))する私の論文をそのまま示したものである)。

三木清の「世界主義の哲学」の思想史的意義
 1.. 三木清は、1939(昭和14)年1月に発表したエッセイで、「支那事変(=日中戦争)」に言及し、その帝国主義性を批判し、それに意味変化をもたらそうと企図してこう書いた。その議論は、まさしく三木自身の哲学的営為と本質的な形で関わっている。

 最近のわが国で行われている「支那事変の世界史的意義」について多くの議論は、「根柢に世界史の哲学」も「歴史哲学」ももたず、「間に合はせ」の議論の域を出ていない。「支那事変の世界史的意義」を「闡明」するなら、「世界史の全体の過程についての歴史哲学的構想」が不可欠だ。「それは哲学者の構想力の問題である。時代にたいする情熱の中から生れる構想力、時代に対する認識と結び附いた構想力、すべての予言者のうちに生きている構想力、そのやうな構想力が今日の哲学者に必要である」(「哲学ノート」、三木I440頁、但し強調は今井、以下特に断らない限り、引用文中の強調はすべて今井による)。

 この文章の公表から半年余を遡る1938(昭和13)年6月の論文「現代日本における世界史の意義」−−以下、「世界史の意義」論文と呼ぶ−−には次のような文章がある。そこには、尖鋭な「時務」的次元での批判的意識に支えられた歴史意識とそれに結びついた構想力によって構築された三木の必死の世界史的展望が鮮やかに示されている。数年後の三木の獄死は、この世界史的展望に殉じたものとすらいえる。

 「現在日本が大陸において行ひつつある行動がどのやうな事情から生じたかについては種々の批判があり得るであらう」。しかし、「時間は不可逆的」であり、「出來事が…あらゆる傍観者を否応なしに…引摺つてゆくやうな重大な帰結を有す」る場合、「過去の批判にのみ過すことは…許されない。…現に起つてゐる出來事のうちに…「歴史の理性」を探ることに努めなければならぬ。歴史の理性は当事者の…主観的意圖から独立に自己を實現する」(「現代日本における世界史の意義」、三木M143-144頁)。

 ここで「歴史の理性」とされているものが前の引用文中の「歴史哲学的構想(力)」と対応しあうものであることは勿論である。この時点での三木は、ある意味で既に「戦後」を−−ドイツの第一次大「戦後」を−−知っていた。例えば三木がしばしば言及しているマックス・シェーラーは、留学中の三木自身が直接に体験した「戦後」のドイツの荒廃の中で、ヨーロッパ文化の復興を展望してこう述べていた。三木の「歴史哲学的構想(力)」と内的に関連し呼応しあっているその展望は、ヨーロッパ中心主義の反省とヨーロッパのアジアとの文化接触を通しての旧来の文化の形態的変化とそれによる真の「世界史」の実現の予感の中で提示されている。

 「ヨーロッパの文化建設という共通の課題」は「アジア的精神の深遠・永遠感・静寂・品位」との融合を求めている。いまや、ヨーロッパは「数世紀の眠りから目覚め」アジアと向き合う。「この戦争」は「特にヨーロッパ的なものとアジア的なものとのある種の調停」を帰結した。だからこそ青少年に「古典古代」の「アジア的源泉」を示すことをためらってはならない。いずれにせよ、「われわれの中心的な陶冶の関心を東方に移すことは…望ましい」ことであり、「西方に対する排他的な関心を持ち続ける場合よりもはるかに実り多いことであろう」(シェーラー「ヨーロッパ再建の精神的形成力」、『シェーラー著作集6』(白水社 1978)、259-260頁)。

 三木の日中戦争観は、少なくとも事実上、このシェーラーに代表される議論への呼応と連帯の意味を有している。このことを踏まえて、三木の「世界史の意義」論文に戻ろう。そこで三木は、シェーラーの世界史的な文化接触についての雄大な回顧に共感し、世界の新しい秩序を構想するかのようにこう続けている。

「マケドニアの王アレクサンドロスの遠征は彼の功名心から出た」のだとしても、「ギリシア文化の世界化を結果し…ギリシア文化から世界文化への、或ひはギリシアの古典文化から現代文化への展開といふ世界史的意味を實現した…(坂口昂著『概観世界史潮』40頁以下を看よ)。現在起つてゐる出來事のうちに我々は歴史の理性を発見し…歴史の理性の立場から新たに意味を賦與する…必要がある。…歴史とは「無意味なものに意味を与へること」である」。新たな「意味賦与」によつて「不可逆的な時問も可逆的」となる。「支那事変に対して世界史的意味を賦与すること、それが流されつつある血に対する我々の義務であり、またそれが今日我々自身の生きてゆく道である」(三木M144頁)。

 要するに、日中戦争には、このようなギリシア文化の世界化を結果したアレクサンドロスの遠征に匹敵する世界史的意味を賦与してその性格を一転させる可能性がなくはない、その可能性を追求することはヨーロッパのシェーラーの示したような可能性にアジアから呼応し、帝国主義的秩序に代わる新たな世界秩序構想につながる東西の生産的な文化接触と文化の形態的変化を展望することを意味する、というわけである。
 1935(昭和10)年の三木は、現代を「転形期」−−つまり「過去の文化は既にその役割を終り…しかも尚ほ新しい文化が確定した形態において生産されてゐない…時代」−−と見て、このような「転形期」に「文化の問題」を論ずる「唯一可能なる立場」とは、「歴史的立場に立」ち、「行為の立場」から、「将来に向かつて展望的に考察する」ことだ、といっていた(三木L204頁)。そして廬溝橋事件から全面的な日中戦争の展開の中で、帝国主義と国家主権の理念を否定する「東西文化の融合もしくは統一の理念」(三木L339頁)が、その三木の批判と展望にとっての中核の位置を占めていくこととなった。
 三木の歴史的構想力は、こうして「時務」との密接な関わりの中でめざましい働きを示すこととなった−−無論、時務であることが要求する現実への戦略的配慮は哲学的構想の透明感を損ねる結果を伴わざるをえないが、世間知らずの心情倫理からそこに思想的歪みを見るよりは、三木の戦略的思考を看取するべきであろう−−。三木の活動は、この理念を基礎とする、日中戦争への意味賦与を通しての意味転換の試みに集中されていった。こうして三木は、「支那事変の含む世界史的意味」は「「東洋」の形成」にあると主張した。「日支提携といひ日支親善といふのは、これまで世界史的な意味においては實現されてゐなかつた東洋の統一がこの事変を契機として實現されてゆくといふ意味でなければならぬ」(三木M146頁)、というわけである。
 ランケ的な意味での「世界主義」は、実際には「ヨーロッパ主義」にすぎず、しかも主権的国民国家を絶対的な前提としていた。それはまた、田辺哲学の前提でもあった。田辺哲学は、日本という主権的国民国家を、このランケ的な世界の中に通用するものとして構築していこうとする哲学的試みであったということもできる。このことを踏まえていえば、三木のいう意味での「「東洋」の形成」は、帝国主義と結びついたそのようなランケ的な「ヨーロッパ(中心)主義」の地平の限界を超えて真の意味での「世界」を形成する巨大な一歩として評価することができる。その可能性を孕んだ「「東洋」の形成」の展望は、無論、深い次元からの日本帝国主義への批判を含意している。それゆえに、三木はこう続ける。

 「世界の新しい秩序の構想なくしては東洋の新しい秩序の構想も不可能である」。従来の「ヨーロッパ的思惟」による「世界史の統一」論は「帝國主義と結び附いてゐた」が、今日では「かやうな思惟によつては世界の統一も東洋の統一も考へられない」。かくして、「日本の世界的使命」が「東洋の統一の實現」にあるとしても、それが「日本的思惟」の支配を意味するのであってはならず、むしろ「資本主義の問題の解決」を含んでいなければならない。「資本主義の諸矛盾を如何にして克服するか」は、「今日の段階における世界史の最大の課題」である。この課題の解決なき「東洋の統一」は、「眞に世界史的な意味を實現する」ものではありえない(三木M148-149頁)。

 このような三木の立場は、やがて昭和研究会の名で発表された「新日本の思想原理」・「新日本の思想原理 続編−−協同主義の哲学的基礎−−」(三木P所収)において展開される。それを読解する際にこのような三木の展望の基本線を見失うなら、それはおおきな誤解に通じるほかないであろう。
 三木のこのような方向を目指す歴史的構想力を、ここで仮に〈世界哲学的な歴史的構想力〉と呼んでおこう。この歴史的構想力は、無論、帝国主義国家日本を主体としたヨーロッパ中心主義の克服を〈近代の超克〉と見なした論者たちとは異質な世界史を展望するものであった。三木のこの〈世界哲学的な歴史的構想力〉は、原理的には、既に三木の学生時代に萌したものであった。このこととの関連では、三木が、ある意味では西田幾多郎の弟子である以上に波多野精一の弟子であったことが、想起されてしかるべきであろう(谷川徹三「哲学者としての三木清」、『回想の三木清』(三一書房 1948)、36頁参照)−−。
 このような事情を示す格好の資料に、三木が大学院生時代の1920(大正9)年10月に発表した「書評 坂口昂著『概観世界史潮』」がある−−この坂口の著書は、先の引用では、三木とシェーラーとを媒介する役割を果たしていた−−。波多野にギリシャ哲学や古代ユダヤ宗教思想などを学ぶ一方で歴史哲学に没頭していた大学院生の三木は、新カント主義の用語を用いながら、「人類の理念に関係せしめて歴史的宇宙の個性的発展を理解せんとするものこそ世界史」だとした上で、こう続けている。

 「私達の国では歴史は永い間不当な取扱を受け」、人々に「歴史」への「興味」を抱かせなかった。このことの一因に「仏教によつて養はれた汎神論的思想の影響」があった。だが、「一層甚しく歴史を害した」のは、「頑迷なる道学者と偏狭なる愛国者との誤れる歴史の尊重」である。「歴史」は、このような「誤れる…尊重」から解放されて、「自由なる学的観照の下に持来さなければならない」。「歴史は一定の道徳説、国家観若くは国体論の Scholastik の具として考へらるべきではない。人が歴史によつて何等かの確信を得べきであるとすれば、それは Idee der Menschheitに対する信仰でなければならぬ。…世界史は特にそのことを教へる…」(三木P348-350頁)−−因みに、三木はこの議論を、ドイツ留学中に独文で繰り返している(三木A466-472頁、独文は42-49頁)。このモティーフの三木にとっての重要性が察知される−−。

 この明快平易な文章にコメントは不要であろう。ここではただ、私があえて三木が波多野の弟子でもあったことに触れたのは、@「仏教的汎神論」を含めた汎神論批判は、波多野自身の宗教哲学にとっての重要テーマでもあったこと、Aそのモティーフは、波多野に洗礼を授けた富士見町教会の牧師・植村正久が、教育勅語への不敬の廉で批判の嵐にさらされていた内村鑑三を側面から支援しながら、国体論にコミットする仏教陣営に宗教的・思想的な批判を続けていたという歴史につながっていること、Bその思想的系譜がこの三木の文章に流れていること、に注意を促すためであったことを付言するにとどめておく。
 その後マルクス主義をくぐり抜けた三木は、一貫して「国体論」に否定的な構えを維持し続けた。そして、国粋主義の跳梁に反発するだけでなく、田辺元の「種の論理」という形態を取った「国民主義の哲学」にも懐疑的な姿勢を取った。ナショナルなものそれ自体に対しても、根柢的な懐疑を持ち続けた。その態度が、西田の「世界主義の哲学」を継承し彫琢しようとする意図となって現れる。と同時に、「人類の理念」に立脚しての日中戦争の意味変化の試みに生命を賭けてもいったのであった。

 本稿脱稿後に、米谷匡史「三木清の「世界史の哲学」」(『批評空間 1998 U-19』所収)の存在に、本誌編集部の指摘によって気づいた。本項で私が一筆書きにした「時務」的次元での三木の発想を、詳細な分析を基礎に位置づけようとする力作であり、本稿がテーマとしたものの歴史的背景を知る上で絶好の論文となっている。

 2. 三木清の「構想力の論理 序」は、1939(昭和14)年7月の日付をもっている。その中で、三木は次のようなことを言っている。パラフレーズしながら見ておこう。

1932(昭和7)年の『歴史哲学』の発表以来、「歴史的なものにおいてロゴス的要素とパトス的要素とを分析し、その弁証法的統一*を論ずる」ことが私の中心的課題になった(三木G6頁)。「合理的なもの、ロゴス的なもの」に心を寄せながら、「主観性、内面性、パトス的なもの」を「つねに避け難い」ものと感じてもきたからである−−「パスカルが私を捉え」「ハイデッゲルが私に影響した」のもそれゆえである−−。この「弁証法的統一」問題を、私はカントに依拠して「構想力の論理」として理解したが、それだけでは「主観主義に転落する不安」を払拭できなかった。その不安が払拭されたのは、「構想力の論理という…主観的な表現」に対応する「形の論理という…客観的な表現」を見出したときであった。こうして「私は私自身のいわば人間的な問題から出発しながら…西田哲学へ…接近してきた…。…西田哲学が絶えず無意識的に或は意識的に私を導いてきたのである。尤も、私のいう構想力の論理と西田哲学の論理との関係については、別に考えらるべき問題がある…」(三木G6頁)。
*その「弁証法的統一」は、三木の問題意識においては、ジンメル的意味での「文化の概念に本質的な矛盾」の現れとしての〈近代的な生の分裂と対立〉に起因する社会の危機、思想の危機に対処し克服するものと意味づけられていた。この点については、「危機における理論的意識」(三木A所収)、「危機意識の哲学的解明」(三木D所収)を参照。また本誌前号の拙論参照。

 この引用文に示されているように、「構想力の論理」は「西田哲学」に導かれつつ構想されたものであったが、三木のその西田哲学への接近はアンビヴァレントなものであった。つまり、三木の西田哲学への接近はいわば方法的な接近であって、全面的な支持によるものではなかった。この両価的な態度の一つの根拠に西田哲学の禅的汎神論的な側面があるが、問題はそれがどういう哲学的問題として現れてきたかにある。このことに留意した上で、三木が西田哲学に再接近した所以に注意を向けていこう。
 三木が西田哲学に接近した時期は、田辺が「種の論理」を精力的に展開し西田哲学批判を強めていった時期、従って西田と田辺の思想的確執が深化していった時期であった。例えば田辺は、この時期の西田哲学の核心的位置にあった「行為的直観」の観念を全く非実践的な「文化」主義的なものと見て、手厳しく裁断している。

 それは、「単に芸術的直接的なる文化創造を意味するに止まり、その基底たる國家更新の政治的實践に触れるものでない。それは畢竟非實践的なる現状諦念以外の何ものでもない」。ここには「観想それ自身が實践なるかの如くに謬想することに由り、直観と解釈とを實践の代理たらしめる」態度がある(「種の論理の意味を明らかにす」、田辺E472頁)。

 田辺は、倫理は、歴史の中での国家更新・国家建設との関係においてのみ可能となる、と考えている。田辺がハイデッガーやヤスパースの実存哲学を否定するのも、その「実存」が個人の内的行為に関わるのみで、国家更新・国家建設に関わるという意味を十分にもつものではなかったからである。このような国家更新・国家建設を志向する倫理的観点から、田辺は西田の「行為的直観」批判へと向かっている。このことを念頭におく限り、西田哲学の側に立つことを宣言した三木は、必然的に田辺哲学と鋭い緊張関係に立つことになる。事実、三木は、上の引用文の少し後で、あたかも西田を代理して田辺に反批判するかのように、「構想力の論理」の観点から西田哲学の「行為的直観」の概念を援護している。

 「構想力の論理は行為的直観の立場に立ち…直観に根源的な意味を認める…。けれどもそれは単なる直観主義…ではない。真の直観とは反省によって幾重にも媒介されたものである。それは無限の過去を掻き集めて未来へ躍入する現在の一点である。しかし…構想力の論理は単にいわゆる媒介の論理であるのではない。」(三木G8-9頁)。

 三木は、「行為的直観の立場」に立つ自らの「構想力の論理」が「媒介の論理」(=「絶対媒介の論理」たることを標榜していた田辺哲学)を拒否するものであることを明示している。西田哲学に接近することは田辺哲学との対立関係に入ることである。三木はこのことを明確に意識し、その対立関係に介入しようとさえする。かくして三木は続ける。

「媒介の論理は結局反省の論理に止まって、端的に行為の論理であることができぬ。…そこではあらゆる媒介が結局抽象的なものとされ、そしてあらゆる媒介が一つの形に集中される最も生命的な跳躍の一点を逸してしまう」(三木G9頁)。

 問題が「行為」の理解をめぐっていることは明らかである。田辺は「倫理的行為」の局面へと焦点を引き絞り、それを〈実践的な国家建設/国家更新〉に関わるものと捉えた−−実際には、田辺の〈実践的な国家建設/国家更新〉としての行為は、新たな政治体形成の構想を内包した行為ではなく、現存する国家への忠誠を通してのそれの継続的建設/更新以上のものではなかったが−−。その観点からは、西田哲学の行為的直観の観念は、せいぜいのところ「単に芸術的直接的なる文化創造」の行為にすぎないものと見えた。だが、三木は、一見「文化創造」にとどまる西田哲学的意味での行為の内にこそ「無限の過去を掻き集めて未来へ躍入」しようとする歴史的に最も重要な行為が潜められている、と見ていた。かくして三木は、「反省によって幾重にも媒介」されている「直観」の構造−−西田哲学が十分に示してはいない構造−−についての挙証責任を背負うことになった。
 行為理解をめぐるこの対立は、時局の展開を前にして国民主義=国家主義の立場に立つのか/それとも第一次大戦以降の世界史が逢着した隘路こそナショナルなものがもたらした帰結だと見てそれを突き破る立場に立つのかの決断と関わっていた。要するに、「国民主義の哲学」の立場に立つのか/「世界主義の哲学」の立場に立つのかの択一である。
 三木に即していえば、単に「文化創造」の行為にすぎないと見える西田哲学の行為を世界史的な意味をもつ行為へと発展させていくことは、哲学的には「構想力の論理」に繋がり、実践的には「ヨーロッパ中心主義」批判の動向と「「東洋」の形成」の展望とを連動させ、それを日中戦争と対決していく観点たらしめようとする営為に関わるものであった。
 ともあれ、田辺はナショナルな立場に立って、西田哲学の行為的直観は、プラトンやへーゲルが〈実践的な国家建設/国家更新〉に焦点を合わせて理解してきた「行為」の哲学的理解を現代にレレヴァントな形で捉えることに失敗している、と考えている。これに対して三木は、西田哲学の「行為的直観」の内には「無限の過去を掻き集めて」ナショナルなものの限界を超え出た「未来」へ躍入することを可能にする行為理解が潜められており、ここから振り返ってみれば、現代的なレレヴァンスをもつ「行為」理解に失敗しているのは実は田辺の方なのだ、と考えているのである。
 私は、少なくとも満州事変以降の日本思想史の展開の最大の焦点はここにあったと見てよい、と考えている。戦後民主主義の思想的旗手の役割を果たした丸山真男の思想的出発点も、基本的にこの対抗関係を軸とする思想史的展開の渦中にあった。いや、若き丸山は、その渦中に積極的に身を置き入れていた。即ち、自らが後に「大日本帝国リベラル」と呼ぶ思想的な立場に立ちながら(『丸山真男座談E』161頁)、田辺のへーゲル理解に近い地点に立って、「一君万民主義」思想に立脚した強力な国民国家形成を政治学的に展望するという構想に関わっていた*。このことまで勘案するなら、ここには戦前から戦後へと展開していく思想史の基軸があったといっても過言ではない。

 *この点については、今井弘道『丸山真男研究序説−−「弁証法的な全体主義」から「八.一五革命説」へ−−』(風行社 2004)の、とりわけ第六章を参照。

 といって、さまざまな立場ははなはだ錯綜しており、その渦中にあった諸思想を単純なスペクトラムへと析出させることは不可能である。例えば、田辺はマルクスに大きな関心を示し、時によっては共感と賞賛を憚らなかった。田辺は、たしかに最終的には、マルクスの思想には倫理性を容れる余地はないと判断した。そして、へーゲルの内にマルクスの没倫理性を超え出て、しかもカント倫理を具体的人倫の中で再理解する可能性を見た。このような田辺の発想には、マルクスの信奉者の中からも共感をよせる余地があったし、戦後の梅本克己のようなマルクス主義思想家をいわば内から生み出す余地をもってもいた。
 梯明秀は、1937(昭和12)年5月に発表した論文「西田哲学を讃える」で、西田哲学のうちに「マルクス主義への飛躍の契機」があると見ていた。そして「技術の概念の具体的な把握によって、社会が何であるかを問い直した…「論理と生命」から、「歴史的世界における認識の立場」…へ」の西田の「論理的な歩みをつぶさに辿」って、その「飛躍力の逞しさ」に感嘆し、「対象的な制約」の「分析」しかできない唯物論者に「西田哲学の行為的直観の立場に学ぶ」必要のあることを説いていた(梯明秀『戦後精神の探求−−告白の書』(勁草書房 1975)所収、300-301頁)。ここでの「技術」の言葉は技術的=文化形成的行為と理解可能なものであり、そこに〈「文化創造」行為の歴史的行為としての読み替え〉といった西田・三木につながるモティーフを認めることもできる。しかも、梯はそこに田辺哲学的モティーフを取り込みそれを階級的主体性論へ作り直そうとさえしている。

 「類、種、個の相互的絶対媒介の関係を、動的に、すなわち、弁証法を弁証法的に把握するところに、歴史の現段階的主体が確立される」。しかし、「この歴史的課題を担っているはずの日本の唯物論哲学者の多くは、なさけないことに、この主体の概念的把握ということに、はなはだしく無関心なのである。機械論、公式論の根が絶えないゆえんである」(梯、同、288頁)。

 ここで梯は、国民主義的な田辺の「種の論理」に一ひねりを与えれば、マルクス親和的な議論にもなりうるし、場合によっては国際主義・世界主義の議論にもなりうることを示唆している。西田哲学と田辺哲学を接合することも不可能ではないというわけである。
 このような事情の背後に、西田哲学の枠組の中に田辺哲学的な「種」の観念を取り込もうとした務台理作の『社会存在論』の試みなどを読み込んでおくことも不可能ではない。だが他面で、このようなマルクス主義の折衷的動向に対する戸坂潤の「唯物論」的観点からの批判的な眼差しがあったことも忘れてはならないところであろう。
 要するに、窮迫した日本の時代状況は、その窮迫に対応しようとするさまざまな思想的・哲学的動向を生み出した。しかし、それにもかかわらず、この時代の思想史的展開を見つめる場合、やはり、ナショナルな立場に立つのか/それを突き破ろうとする立場に立つのかの決断を前にして哲学的に異なった方向に行為理解を展開していた西田・三木と田辺の対立のうちに時代思潮の基軸を見るのが適切だというべきであろう。
 但し、事態をこのような尖鋭な対立と決断へと理念型化して理解する限り、やはり次の留保が必要であろう。即ち、西田自身は、三木において一義的な明確さを獲得した立場に十分には達しえていなかったという留保である。まさしくここに三木の西田に対するアンビヴァレンスの意味がある。これはいずれ独立に解明することを要する問題であるが、ここでは問題の所在の確認にとどめておかざるを得ない。

 3. ここでやや唐突であるが、『文明論の概略』における福沢諭吉の議論を一瞥しておこう。以上のような議論枠組がもつ意味を、距離を取って眺めておくためである。
 福沢は、幕末維新期における国家的危機状態を最も明確に洞察し、その中で、国民を主体とする「緊急権国家体制」構築へ向けての現実的な処方箋を書き続けた人物であった。福沢は、「国家的独立」の危機に際会して、利用可能な一切を独立の確保という目的の遂行に振り向け、すべての日本人をこの目的のために総動員し、場合によっては国民的な防衛戦争を可能にする体制を構築するべきことを繰り返し説いた。ヨーロッパの近代文明を高く評価したのも、さしあたりはこのような体制の構築のために不可欠なものだったからであった。
 とはいえ、福沢は文明をもっぱら日本の対外的な国家的独立の確保という当面の必要性から評価していたわけではなかった。福沢にとって、ヨーロッパ文明の有用性のさしあたっての評価基準となった「国家的独立」の確保という課題は、どこまでも歴史的問題状況によって規定せられた当面の目標にすぎず、相対的な意味をもつものにすぎなかった。逆に文明は、国家の手段として動員されうるものであるだけでなく、本質的に国家を超出する性格を持つもの、と考えていた。
 このように、福沢は、当面する国家的危機状態をめぐるプラグマティックな判断の地平を超える視野をもっていた。だからこそ、「人類の約束は唯自国の独立のみを以て目的と爲す可」きものではない、「尚別に永遠高尚の極に眼を着す可」きだ、とも言うのである。この「人類」的視野から見る限り、「一国独立等」のことなど「鎖事」にすぎない。だが、他日この「永遠高尚の極」に立つためにも、今は当面する緊急事態に一切の関心を振り向けなければならない。このように考えて、福沢は、この『文明論の概略』の議論を、「今の世界の有様に於て、国と国との交際には未だ此高遠の事を談ず可らず、若し之を談ずる者あれば之を迂闊空遠と云はざるを得ず。殊に目下日本の景況を察すれば、益々事の急なるを覚へ又他を顧るに遑あらず。先づ日本の国と日本の人民とを存してこそ、然る後に爰に文明の事をも語る可けれ」、と続けたのである(福沢C207-208頁)。
 この福沢を捉えた問題を、〈国家と国家超越的な文明とのディレンマ問題〉と呼ぶことができよう。この〈ディレンマ問題〉にあくまでも誠実に対応しようとするなら、「文明」を国家の手段として動員しなければならない場合でも、「文明」の不断の自己超出的発展の中で「文明」がナショナルなものを超出する世界性を現実のものとする可能性に、常に心を開いておかねばならない。だが、福沢は、結果的には国家理性を相対化することを怠り、この問題に誠実であり続けることを放棄してしまった。こうして福沢は、結局は、国家主義の立場に立つことになった。
 だが、福沢がこの問題を忘れたからといって、この問題が国家につきまとうことをやめるわけではない。三木の哲学的意識に現れ、その〈世界哲学的な歴史的構想力〉として働きだしたのは、まさしくこのディレンマであった。三木は、例えばシェーラーとともに、いわば「人類の約束」は国家という限界の内部でのみ果たされるべきものではない。国家を超えた「高尚の極に眼を着す可」きであり、いまやその時期が到来した。国家という限界の内部に踏みとどまることはもはや混乱をもたらすことでしかない、と考えたわけである。そしてその観点から、国家主義の立場に立とうとした田辺と対立し、西田哲学の可能性を汲み尽くそうとしたわけである。
 因みに、誰よりも高く福沢を評価した丸山真男は、三木とは逆に、田辺に近いナショナリズムの立場からこの福沢に自己を同一化して、「福沢諭吉という一個の人間が日本思想史に出現したことの意味」は「個人主義者たることに於てまさに国家主義者」でありうるようなナショナリズムの地平を開いたことにあるとした(丸山A219-220頁)。このようにいう時、丸山の視界から「国家超越的な文明」の可能性への視圏は見失われていた。この意味では、三木と田辺の対立は、三木と丸山−−戦前の丸山−−の対立でもあった。
 この〈国家と国家超越的な文明とのディレンマ問題〉は、マルクス主義に即していえば、プロレタリアート独裁−−それはある意味で極限化された緊急権国家体制である−−から国家の死滅への移行の現実的可能性の問題であったといいうる。梅本克己は、この問題に直面する中で、丸山のスターリニズム批判に大きな共感を感じながら、その福沢論−−但し、戦後の丸山によってデモクラティックなナショナリストに解釈替えされた福沢論−−には、反発を感じた。この反発を契機とした梅本の丸山論をきっかけに、丸山と梅本の出会いと思想的緊張関係−−それは戦後思想史にとってきわめて重要な意味をもつ−−が成立した。だが、この問題は、原理的には、田辺と三木との対立関係の中に既にハッキリと現れていた問題であった。しかし、議論は多少走りすぎた。軌道を元に戻そう。

 4. 西田哲学と田辺哲学との対立は、「世界主義の哲学」と「国民主義の哲学」の対立と見なすことができる。この対立を、田辺は、没国家的な文化哲学と国家倫理の哲学との対立に帰着させうると見ていた。だが三木は、その枠組を一歩深めたところで問題を考えようとしていた。
 三木は、「創造的精神」を単に文化的な「生産的精神」と区別し、一般に「文化」として観念される狭い領域を超えたその「根源」にあるものと理解していた。「創造的精神」は、文化的な「生産的精神」を生み出したり、それを否定して新たな文化的な「生産的精神」を生み出したりする、いわば「能産的自然」なのである。三木は、この「能産的自然」としての「創造的精神」を現実化させる実践的行為を「制作」と理解した。「創造的精神」は「文化を否定する」とともに「文化の創造の根源」となるものであり、「今日それによって古き文化は否定され、新しき文化への道が準備されねばならぬ」(「文化の根源と宗教」、三木L30頁)、三木がこのようにいうのはこの意味においてである。
 三木は、現代を「不安」と「虚無」の時代であるとともに「転形期」でもある、と理解していた。また、その「転形期」に不可避な混沌こそが「不安」と「虚無」の根拠となると考えて、この「転形期」に「文化」を論ずる「唯一可能なる立場」は、不安を超克しうる「将来」を「展望」する「歴史的立場」・「行為の立場」でなければならないと考えていた(三木L204頁)。この発想を、三木は、近代国家の枠組みの中で発達してきた国民文化は限界に逢着したと見て、国境を越えた「東西文化の融合もしくは統一の理念」(三木L339頁)が指し示す未来への展望に接合させようとしていたのである。
 この「創造的精神」は、パトスの限りなき深みに発するものと理解された。そのパトスの担い手は、現時点では「国民的」な「文化の生産者」である。だが、それはいつまでもそれにとどまるものなのではない。それは、やがて「国民的」文化を過去のものとして否定し、新たに「人類創造の根源」として現れる筈のものである(三木L30-31頁)。このように考えるという意味で、三木の視点は、いわば「世界主義的な文化形成」に向けられていた。「へーゲルが云つた如く人間は彼の民族を飛び越えることができないといふのは真でないにしても、彼の民族を飛び越えた人間もなほ世界の外に出ることはできぬ」(三木D184頁)。三木の「世界主義」を表現するこの言葉も、この「世界主義的な文化形成」の展望と内的に関わっている。
 「世界主義の哲学」が「国民主義の哲学」を超え出るものであるためには、この「世界主義的な文化形成」の意味での文化哲学は、国家哲学と同一地平で対立するものであることはできない。それは、文化的な「生産的精神」それ自体を生み出したり、それを否定して新たな文化的な「生産的精神」を生み出したりしうる「能産的自然」に関わる哲学でなければならない。国民国家は、「世界主義の哲学」の観点にとっては、超えられるべき文化がもたらした一様相として相対化されていなければならないのである。