特殊講義 2004.前期 Hiromichi IMAI

ところで、この「創造的精神」はパトスの限りなき深みから生じるものと見る限り、非合理主義との差は間一髪しかない。そのことを自覚した上で、三木は、その間一髪の距離を維持し論理化しようとした。この間の事情を、三木は、別の論文で一歩立ち入ってこう説明している。「身体的なもの、パトス的なものとしての伝統は新しい文化によつて否定されて更に新しい伝統が作られる」。新しい文化が生まれるのは、「パトスが自己を否定し、ロゴスにおいて…自己を肯定する時」である(三木L343-345頁)。例えば国民的な文化としてあらわれる「身体的なもの、パトス的なものとしての伝統」は、より一層深められたパトスによって自己否定されうるが、それが混乱ではなく革新を意味するためには、そのパトスの自己否定がロゴスを受肉し、それによって肯定されるのでなければならない。パトスはロゴス化されて、旧来の国民的文化に代わる新しい文化の「形」として提示されるのでなければならない、というのである。
 従って、三木は、単純な国家否定論を主張しているのではない。問題は、不断に国家と国家的なるものを生み出している文化のあり方をその根源において否定することにあり、他面でそれを超え出る新たな文化の「形」を構想していくことにある。三木は、そのことを可能にするパトスは、潜在的には既に準備されつつある、と考えている。
 そのパトスのロゴス化問題は、個体的な人格問題と無関係ではない。そのことを、三木はこう表現している。「我々が真のモナス、個体的統一として、ゲーテの謂う「地の子等の最高の幸福」即ち人格として生れるためには、自己肯定的なパトスは自己を否定してロゴス的にならねばならぬ。ロゴス的になることによって個体は自己のうちに一般性を含み、かくして真の人格となるのである。ロゴス的になることは自覚的になることであり、ロゴスなしには人間の自己性は成立することができぬ」(三木Q157頁)。要するに、自己と「血や地」との関係を超えている中心−−そこからその関係を反省し批判しうるような中心−−をもちえたとき、人間は自己性をもった人格となりロゴスをもつというのである。こう考えることによって、三木は、国民的パトスが自己否定されロゴス化されて国民的文化に代わる新しい文化の「形」として提示される過程と、個人の中のパトスがロゴス化されて新たな自己性をもった個人的人格が成立する過程とを、統合的に見ようとしている。ここに三木の「構想力の論理」の基本的なモティーフが現れてきているということができよう。

 1. 田辺と三木とは、ともにハイデッガーの「ドイツの大学の自己主張」についての論評を行っている。そこには、二人の上で示した姿勢が明確に浮き彫りにされている。以下、簡単にこのことを確認しておくことにしたい。
 まず、ハイデッガーの「ドイツの大学の自己主張」についての感想を−−新聞の抜粋のみを手がかりとして−−述べた田辺の未発表の論文「危機の哲学か哲学の危機か」(1933(昭和8)年脱稿)の要点を見ておこう。
 田辺の見るところ、ハイデッガーの主張の基調は、「理観(テオリア)」としての「知識」を「無力」と見た上で、「学問」を「民族」の「運命」との関わりにおいて意味をもつものと捉え、ドイツの大学の使命をその「学問」に媒介されつつ「独逸国民の運命を指導し擁護する者を養成する高等教育機関」として意味づけたところにあった(田辺G3頁)。
 田辺は、他方で「理観(テオリア)」としての「知識」の「無力」という主張は、アリストテレスには妥当するとしても、「政治的危機に際して人間の理性に依る国家の改造、立法と教育による国民の秩序更改」を企図したプラトン哲学には妥当しない(田辺G6頁)と反論した上で、自らの立場の基礎たるへーゲル哲学を念頭においてこう述べた。

 「ハイデッガーが独逸の學問の國民的意義を高唱…しながら、独逸哲學の希臘哲學に対する独自性を重要視しない…のは不思議である。哲學は氏の考ふる如く単に運命の諦観を以て國家に奉仕することは出來ぬ。却て現實の政治的進行の底に潜む永遠の理を捉へて之を實践的に現實形成の力に転換し、飽くまで自主性を維持しながら國家との具体的同一性を自覚し、以て國家の内面的精神たるべきである。斯かる内からの合一のみ眞に奉仕を能くせしめるものではないか」(田辺G8頁)。

 ここでの田辺は、哲学の国家への実践的コミットメントという点では基本的にハイデッガーに共感している。その上で、ハイデッガー的な「国民主義」の立場に自らの「国民主義の哲学」の立場を対立させている。対立のポイントは、「現実の政治的進行の底に潜む永遠の理」を「實践的に現實形成の力に転換」する媒介としての哲学的理性を擁護するへーゲル主義の観点の存否にある−−ハイデッガーにはこのへーゲル的観点がない−−。この田辺の「理」とその実現をめざす「実践」に支えられた「国民主義」は、「合理的な国民主義」といっておくことができよう。この合理性のゆえに、田辺哲学は、日本の非合理主義的な国粋主義に対しても、鋭く批判的でありえているのである。
 ここで簡単に、田辺哲学が、非合理主義的な国粋主義に対して批判的でありえている所以について一言しておこう。満州事変(1931(昭和6)年9月)以降の日本の時代状況の中で国粋主義の風潮が急激に強まっていったが、田辺はそのような風潮が時代を非合理的な方向に牽引していくことを憂慮していた。そしてそれに対抗するために、国家の本来的なあり方の根柢に個人の主体性があることを明らかにしようとし、「種の論理」と呼ばれる哲学体系を展開し始めた。この観点は田辺のハイデッガー批判の背景をなしてもいる。本稿ではこの田辺の「種の論理」に立ち入るゆとりはないが、さしあたりその主張を、種と個と国家の絶対媒介関係を個人の主体性を軸として見る次の文章に代表させておこう。

 「国家は一方に於て民族の種的基体を契機とし、共同社会的直接統一を予想すると同時に、他方に於てそれと否定的に対立する個人の自由なる発意とそれに基づく自律の要求とを認め、その民族的統一を個人の衆議公論と媒介する否定即肯定の統一である。それは一方に民族の種的基体を其歴史的伝統に於て維持しながら、他方に於て現在の個人をして各々其志を遂げしむる基体即主体の統一でなければならぬ」(田辺E231頁)。

 ここで田辺は、国家存在を構成する個人の主体性を浮き彫りにし、その自発的な行為が「現実の政治的進行の底に潜む永遠の理」を「現實形成の力に転換」させ、もって「国家更新」を担うのだと主張している。ここに田辺の「国家倫理」の基本軸がある。この田辺の主張は、国家の基礎が神話的イデオロギーによりは個々の国民の主体性にあるとし、健全で合理的な国民主義を顕揚し、非合理的な国粋主義とそれを構成原理とする国家−−戦後の丸山はそれを「超国家主義」と呼んだ−−とを批判する意味をもつものであった。
 この田辺の立場には、単純な個人主義を超えたモティーフも存在する。近代的個人は、社会契約論がいうような無媒介的な存在ではなく、民族や国家との媒介関係においてはじめて成立するものである点への自覚をあらためて喚起し、孤立的排他的な近代的個人主義を超えさせようとするモティーフである。田辺にとって、個人的自由が種と国家を媒介するとは、種と国家とが個人的自由を可能にするということでもあった。その意味では、田辺哲学に従う限り、国家が何らかの仕方で類的要素を体現することはありうるとしても、個人が国家の枠組を超え出ることはありえないことであった。
 三木も、ハイデッガーの「ドイツの大学の自己主張」を非合理主義的なものと見る限りは、田辺と一致した感想を述べている。だが、三木にとってより重要であったのは、ハイデッガーがロゴスを没却して「血と地と運命」という単に「パトス的なもの」にのみ国民的原理の基礎を求めて「ニイチェのうちに没し」てしまったことであった。
 先ほど、われわれは、「身体的なもの、パトス的なものとしての伝統」は、より一層の深められたパトスによって自己否定されうるが、それが混乱ではなく革新を意味するためには、その自己否定はロゴスを受肉し、それによって新たな秩序を形づくっていくのでなければならないという三木の議論を見た。このロゴスの次元がハイデッガーには欠けていたというわけである。かくして三木は「個別化の原理」と「ロゴスの回復」を要求する。

 「ニイチェは現代の不安の思想に深い影響を及ぼした。…ハイデッガーの哲学にも…そのやうな方面のあることは疑はれない。然るにニイチェは、かくの如きいはばドストイェフスキー乃至キェルケゴール的一面を有すると共に、他面において超人の傳道者であり、貴族主義者、英雄主義者であり、戦争の或る讃美者であり、熱烈な愛國主義者ですらあつた。…今やナチスの教授ハイデッガーにおいてニイチェのこの後の一面が強調されて現はれて來た」「ハイデッガーはドイツの国民主義的統一の原理を、血と地と運命とに、凡てパトス的なものに求める…。客観的原理は何も示されてゐない。ニイチェによれば、デイオニソス的なものは「個別化の原理」を否定し、根源的一者の統一である。…民族と云へば、普通にその基礎として血とか地とかいふものが考へられてゐるが、その場合血や地は単に客観的自然的なものとしてでなく、却て意識的乃至無意識的に何等か主体的・自然的なものとして、從つてパトス的なものとして理解されてゐるのがつねである。民族は運命共同体として規定され得るであらう。然るに運命とはかの無であり、無の意識にほかならない。ナチスのディオニソス的舞踏は何処に向つて進まうとするのであるか。ロゴスの力を、理性の権利を回復せよ」(三木I319-320頁)。

 「ロゴスの力を、理性の権利を回復せよ」という三木の叫びは、民族の運命に随順しようとするハイデッガーに抗して「世界主義の哲学」を求めている。この三木の叫びは、国家を前にしてそれを理性的現実と見ようとする田辺の国民主義に対しても批判的な含意をもっている。
 しかし、この三木の議論においては、「個別化の原理」を否定するデイオニソス的なもの(=パトス的原理)と復権されるべきロゴスとがどういう関係に立っているのかは、必ずしも明確ではない。
われわれは、このこととの関係において、本稿冒頭の三木の「構想力の論理 序」からの引用文−−「『歴史哲学』の発表以来、「歴史的なものにおいてロゴス的要素とパトス的要素とを分析し、その弁証法的統一を論ずることが私の中心的課題になった」という言葉で始まっていた引用文−−を想起しなければならない。ここで説かれている「ロゴス的要素とパトス的要素」との「弁証法的統一」というモティーフは、「個別化の原理」を否定し「ロゴス的要素」を没却して、国民のうちにパトス的な「根源的一者の統一」のみを見ようとしたハイデッガーの批判を貫いている基本的モティーフを自らの課題として表現したものなのである。

 2. 本稿は、議論の出発点を1939(昭和14)年1月の三木の「支那事変(=日中戦争)」に言及したエッセイにおいた。ハイデッガーへのこの論評はその五年前の1933(昭和8)年ものなのだが、三木は、その1933(昭和8)年の12月の28日から30日まで、読売新聞にその一年の「思想界の回顧と展望」を執筆した。その中で、三木は、その年に展開された西田の行為論に注目すべきことを強調して、このようにいった。

 「實存の哲学以來若い世代の意識に不安とか懐疑とかいふものがかなり深く刻まれてゐる…。…かくして…そのやうな不安や懐疑を超克すべき新しい形而上学に対する要求も切實に感ぜられて來つつある…。…このやうなとき、西田哲学が最近新たに影響し始め…それが若い世代に新しい仕方で影響しつつある…。從來西田哲学の影響といへば、禅などと結び付けられて一般には或る深い心境に対する憧れであつた…。…ところが最近西田哲学はそのやうな心境的なものを寧ろ排しようとする若い人の一部に一の積極的な哲学として關心され始めた。西田博士のいはゆる「行爲の世界」を…若い世代はそれ自身の世代の問題を通じて具体的に展開しなければならないであらう」(三木R628-629頁)。

 三木のこの西田哲学評価は、岩波全書の一冊として西田の『哲学の根本問題(行為の世界)』(1933(昭和8)年12月)が発表された直後のものである。ここに既に、西田哲学が自らの問題にとってもつレレヴァンス如何という発想が色濃く滲み出ている。西田の行爲論を「若い世代はそれ自身の世代の問題を通じて具体的に展開」すべきだという言葉からは、西田哲学を「不安や懐疑を超克すべき」時代の思想として捉え返そうとする三木自身の決意を読み取ることができるのである。以後、三木のこの線に沿った西田哲学への積極的な関心が持続し、それが「構想力の論理」へとつながっていった。
 そのような西田哲学への関心は、それを積極的に「世界主義の哲学」と理解する観点と重なった。こうして、三木は、「西田哲学は世界哲学と特徴付けることができる」のであって、「「無の論理」は実は世界の論理にほかならぬ」(I419頁)、という。ここに学生時代以来の三木の西田哲学への著しい再接近が窺いとれる。
 このような西田哲学の関心の中で、おそらくは三木の発意・企画によるものであろう西田・三木の対談−−「日本文化の特質」(1935(昭和11)年10月)や「ヒューマニズムの現代的意義」(1936(昭和11)年9月)*−−が行われ、また西田哲学をテーマにした座談会なども行われて、新聞や雑誌の紙面を飾った。
 このような角度からする三木の再接近以後、西田と三木の間では「世界主義の哲学」の観点とそこからする田辺哲学批判が共有されていることが陰に陽に示唆されるが、その哲学的根柢にあったのが、行為を「制作(ポイエシス)」モデルで理解するという西田哲学のモティーフであった。「行為的直観」もそれとの関係で成立した観念であった。
 この西田の「行為的直観」の観念のうちにマルクスの「労働」概念の影響を認めることもできる−−既に紹介した梯明秀の言葉からも察知しうる−−。その場合、日本におけるマルクスの哲学的理解を先導したのが、「唯物論」の「物」をハイデッガーを通して「交渉的存在」と捉え返し、そこに身体の契機を組み入れて「プラグマ即ち対象的に捉えられたのでなくて身体的に捉えられたもの」(三木Q150頁)とした三木であったことが想起されねばならない。西田哲学の「行為の世界」は田辺哲学への反発を一契機とするものであったが、それは三木において準備されていたともいえる。かくして、西田哲学への三木の再接近は、西田の三木への接近でもあった。
 ところで、ギリシャ哲学の伝統を踏まえていえば、プラクシス(実践)とポイエシス(制作)とは明確に区別されるべき概念であった。例えばハンナ・アーレントの『人間の条件』は、その伝統を踏襲して、ポイエシスを職人的な仕事(work)の領域に割り振り、それをポリスの政治的領域の維持・管理に関わる本来のプラクシス(action)の領域から明確に区別している。この伝統的区別を田辺は正確に踏襲している。
 こうして、制作と峻別される田辺の実践は、カントの普遍的道徳法則を国家に置き換え、それと自己との同一化を自覚的に志向する個人の「國家更新の政治的實践」として展開されることになる。しかし、だからといってそこに単純な国家倫理を見ることは誤りであろう。ここで既に見た田辺のハイデッガー論において「哲学」は「飽くまで自主性を維持しながら國家との具体的同一性を自覚し、以て國家の内面的精神たるべきである」とされていたことが想起されてしかるべきだからだ。そこにおける「哲学」の語は、〈真なる自覚に達した個人〉という語に置き換えられてよい。田辺の絶対媒介の論理は、つまるところこの同一性についての自覚の論理だったのである。そして、田辺は、それが可能となるのは国家という場においてだと考えたわけである。その場合、行為の主体の内で働くものは同一化を志向する「意志」であって、創造的な「構想力」ではない。
 「制作」とは、本来は芸術的・技術的な生産に関わる営為のことであった。それゆえに田辺はこの概念を国家的実践に参与するプラクシスと比べて貶めた。これに反して西田と三木は、「制作」にこそ本来の意味での行為があると考え、行為を「制作」モデルに従って理解しプラクシスとポイエシスとの境界を消去した。その場合のポイントは、「イデア」の観念を「形相学」的パラダイムから歴史時間的な契機を容れる「形態学」的パラダイムに転換させるとともに、その「イデア」を「行爲」の立場から身体的に見られる−−行為的に直観される−−ものへと転釈して歴史的な実践的行為の契機たらしめるという点にあった(三木I446-447頁)。イデアを行為的に直観する/身体的に見るとは、自己とその身体が世界の中で創造性をもつものとして形成されてあることを、創造的な行為を行う中で自覚し、創造的世界の創造的エレメントとして自己を確証するということなのである。そして、この世界創造性と個人の創造的行為を媒介し、その一体性を実現するものが「イデア」なのである。この「イデア」において、われわれは、世界の創造的行為と一体化し、自らの行為を通して、従ってまた自らの構想力の発動を通して、自らの能力を超えた創造をなしうるわけである。
ここに存在する問題の核心を、三木はこう論じている。アリストテレスによれば、「寝台や上衣」といった「作られたもの」は自己の内に「運動の原因」をもたない。「人間の行爲」の「原因」も人間のうちにないといいうる面があり、その限りで人間は「作られたもの」といえる。とはいえ、「人間」が作られたものであるということは、「寝台や上衣」などの「生成の原理」はその「外部」−−即ち「工作する人間」−−にあるということとは事態を異にしている。その差異への着目に、西田や三木の行為論のポイントがある。三木の言うことにもう少し耳を傾けよう。
 「私の行爲」は、一面ではどこまでも「私の爲すもの」であり、「その原理は自己自身のうちにある」。しかし、その原理は「自己自身のうちにない」ともいえる。つまり、「行爲は私の爲すものであると共に私にとって成るもの」だという事情がある。私の行為の経過や結果は、〈私の意図〉と〈私を超えたもの〉とによってもたらされる。この意味で、それは「自由」であると共に「運命」であり、「行爲」は同時に「出来事」でもあるというのである。「行為」が「歴史的である」ということもそこに起因する(三木Q162-163頁)。
 ここでの行為は、「寝台や上衣」を作るというような「形相学」的パラダイムに属するイデアに導かれた芸術的・技術的な生産の営為ではない。「寝台や上衣」の場合には、質料は外的な形相を受容する受動的なものでしかない。だが、三木によれば、人間に固有の実践的行為に対して立ち現れてくる質料とは、無限に生成・発展しながら、形相的な調和とでもいうべきもの−−歴史時間的な契機を容れる「形態学」的パラダイムにおけるイデア−−をそのダイナミズムの中に秘めている動的な原理なのである。つまり、この「形態学」的パラダイムにおけるイデアは、行為に先行し時間を超越したものとして静的に自存しているのではなく、具体的な歴史的空間の中での複数の可能性を孕むものとして行為者に現れてくるものなのである。そして、複数の可能性を孕むがゆえに、行為者は決断を通してその可能性のひとつを選び取って、それを現実に作らねばならないものなのである。
 かくして行為それ自体も、この歴史的空間のダイナミズムの中にあって、この意味でのイデア−−三木に固有の言葉でいえば「歴史的な形」(三木G7頁)−−と呼応しあいながら発動され作用するものと解されている。無論その形は、同時に古い形の否定を意味している。例えば三木の個々の国家を超えた「「東洋」の形成」という言葉に含意されている「形」が、従来の「国家」という「形」を否定するものであるように…。パトスの自己否定は、この旧来の「形」を否定する単なるパトスであることから脱却し、新たな「形」を提示するロゴス的契機を具えなければならない。行為者は、このようにして無限に発展していく事態の中にあって、それに呼応しながら、未来社会を「歴史的な形」として構想し、行為を通してその「形」を現実の中に作り出そうとする。このような行為こそが、行為的直観にいう行為である。そのような行為を、三木は、自己を国家と同一化する田辺的な行為以上に実践的に有意味な行為だ、というのである。
 三木が「構想力の論理 序」で次のように言っていることは、この点に関わっている。

 「構想力の論理によって私が考えようとするのは行為の哲学である。構想力といえば、従来殆どつねにただ芸術的活動のことのみが考えられた。また形といっても、従来殆ど全く観想の立場において考えられた。今私はその制限から解放して、構想力を行為一般に関係附ける。その場合大切なことは、行為を従来の主観主義的観念論における如く抽象的に意志のこととしてでなく、ものを作ることとして理解するということである。すべての行為は広い意味においてものを作るという、即ち制作の意味を有している。構想力の論理はそのような制作の論理である。一切の作られたものは形を具えている。行為するとはものに働き掛けてものの形を変じ(transform)て新しい形を作ることである。形は作られたものとして歴史的なものであり、歴史的に変じてゆくものである。かような形は単に客観的なものでなく、客観的なものと主観的なものとの統一であり、イデーと実在との、存在と生成との、時間と空間との統一である。構想力の論理は歴史的な形の論理である。尤も行為はものを作ることであるといっても、作ること(poiesis)が同時に成ること(genesis)の意味を有するのでなければ歴史は考えられない。制作(ポイエシス)が同時に生成(ゲネシス)の意味を有するところに歴史は考えられるのである」(三木G6-7頁)。

 西田と三木の間で行われた対談「ヒューマニズムの現代的意義」において、三木は聞き役に徹しているが、そこでの西田の発言は、この時期の西田哲学の基本的なモティーフである「制作」観念とその観念を通しての「行為」の理解がどのような意味でヒューマニズムに、そして「世界主義の哲学」につながっていくのかを、具体的に示唆している。

 「これまでのヒューマニズムは個人の自由を中心に考えている。それはつまり個人主義なんだ。ところが本当の人間はそんなものでなく…歴史の創造的エレメントであって…歴史的世界のモメントとして働くものである。…本当の人間はアトムのようなものでなく、歴史的世界から生れるものである。我々はこの世界から生まれ、働き、死んでゆく。今までの哲学はこの「生まれる」といふことを考へていない。我々は自由に働く。その自由の働きは孤立した人間の意識から出てくるのでなく、歴史的世界から生れてくる。自由に働く人間そのものがそこから生れてくるところが歴史的世界なんだ。新しいヒューマニズムはこのような人間を考えてゆかねばならぬ」(三木P494頁。またL199頁参照)。
 「創造性が人間の本質になってゆくだろう…。それは個人が世界の中心になるという個人中心の見方でなく…全体自身が創造的なもので、人間はその中のエレメントとしてクリエートしてゆく。そこが全体主義、人間否定的な全体主義と違う。世界は弁証法的な形成的な、表現的な世界として創造的であって、人間はその創造的なエレメントである」(三木P496頁)。

 ここでは、人間は、創造的世界に於いてあり、その「創造的世界」世界の「創造的エレメント」として−−しかもここでは言及されていないが、すべての人がそれぞれのパースペクティヴからその創造性に関わるという意味において個性的であるところの「創造的エレメント」として−−その「世界」の「創造性」と呼応しながら創造的に生きているものと考えられている。「行為」はこの「世界」の「創造性」と呼応関係にあるものとして捉えられているのである。この意味で、「創造の哲学」は「歴史的行為の哲学」である。そして、かかる創造的な行為に関わることを通して、行為者自身が新たに作られ、再生を遂げていく(三木L201頁)。「作られるもの」が作り、またその「作る」ことにおいて「作られる」−−上の西田の発言に即していえば「生まれる」−−というわけである。
 「人間は行為に於て絶えず作られる…。このやうに見てゆくことが文化を生産する立場から考察する時の根本的な考へ方であって、それが殊に現代のやうな時代に於ては必要である」(三木L220頁)と三木がいうのも、このような事情からである。表現を替えて、こういってもよい。社会は、社会から独立なもの、世界に対して開かれたものとしての個人を作る。「全体は…部分に先行する」と表現されるような全体と部分のあり方を否定し、それを超え出ていくような個人を、生み出す。環境によって作られ直接的な環境を超越して世界に対しての開かれをもつものとして「生まれ」再生した人間は、「世界」を超えることはないが、「民族を飛び越える」ことならできる(三木L212頁)、というわけである。
 三木にとっては、「ヒューマニズムの根本問題」とは「現代といふ特定の歴史的時期に相応する人間再生の問題」(「人間再生と文化の課題」、三木L194-195頁)であった。かくして、「今日の文化の課題」は「近代的人間に対して更に新しい人間のタイプを創造する」ことである(三木、L195頁)。しかしその「人間再生」は、三木にとっては、人間が開かれた創造的世界においてあり、その「創造的世界」世界の「創造的エレメント」として行為し制作することによって不断に達成されていくことであった。

 まとめに代えて

 論文「西田哲学の性格について」において、三木は、従来西田哲学は「禅などと結び付けられて一般には或る深い心境に対する憧れ」の眼差しで見られてきた。だが、西田哲学には、むしろ「そのやうな心境的なもの」を排し、「行為」に関わる「積極的な哲学」として「関心」を向けるべきだ、と言っていた。だが、三木は、他面では西田哲学に「心境」主義的な側面が色濃く残っていることを承知していた。この点が西田の仏教的汎神論の要素の残存に関わるものであることはいうまでもない。
 三木は、この「西田哲学の性格について」を書いた八ヶ月後の
1936(昭和11)年9月「東洋的人間の批判」を、更にその七ヶ月後の1937(昭和12)年4月には「日本的知性について」を書いている。例えば後者には、以下のような文章がある。

 「技術における主観と客観との媒介的統一」は、「客観の側」つまり「物」において實現されるのが普通である。しかし、それが「主観即ち人間の側において實現される」ことがある。「心境とはこのやうに主観と客観との技術的な、媒介的な統一が人間の側において實現される」ものである。「西洋的知性が客観的であるに反して、日本的知性が主観的である」などといわれる根拠がそこにある。だが、その「媒介的な統一」が「主観の側」に「實現される」としても、「東洋的自然主義」とでもいうべき「東洋的な「自然」の形而上學」の観点から見ると、それは「客観性」をもつといえなくもない(「日本的知性について」、三木L352-353頁)。

 三木は、このような「東洋的な「自然」の形而上學」を拒否しようとする。その三木にいわせれば、日本には従来「純粋な客観主義」はなく、そこに「主観主義」は−−人間の主体性の意識は−−「生れやうもない」。このように言う三木は明確に近代を肯定している。三木の近代批判はその上でのことである。この地点から三木は、西田哲学に向かって言う。

 「日本的思想の特性は寧ろ主観的即客観的、動即静といふが如き「即」といふ字をもつて現はされる」点に現れる。そこに「東洋的自然主義」が顔を覗かせてもいる。「「即」といふ以上、過程的でなく、その意味に於て時間的でなく、從つてまた…歴史的でない。東洋的思想のうちにヒューマニズムの思想を敲き込んだ最初の哲学と云つてもよい西田哲学に於てすら、なほ欠乏してゐる…のはかくの如き過程的・時間的・歴史的見方である」(「東洋的人間の批判」、三木L273-274頁)。

 三木にとって、西田哲学に「過程的・時間的・歴史的見方」が欠けているということは、決定的な問題であった−−この点については、本誌前号の今井弘道論文186-187頁参照−−。しかも、三木にとって、このような問題性は、そして「東洋的自然主義」は、「行為的直観」の観念にもしみこんでいる、といわねばならなかった。
 この点にこそ、三木が田辺哲学と西田哲学とをともに超え出るだけでなく、昭和10年代の思想史的展開が「一つの形に集中される最も生命的な跳躍の一点」があったとすらいいうるのではないであろうか。だが、この一点を跳躍し、新たな地平に躍入するための時間は、三木には与えられなかった。三木は、豊玉刑務所にとらわれたまま、「八.一五」から40日も経過した獄中で、病死した−−というよりは病死させられた−−からである。そのことによって、もう一つの戦後思想の誕生の可能性が同時に扼殺されてしまった。




 民主主義思想は、人間は、政治体の中で、あるいは国家の中でのみ、十全たる人間になることができると考える。それに積極的に参加することのうちに、人間の本質的価値を見出そうとする。かくして、国民国家を前提とすれば、民主主義思想は、個人は、国民国家に帰属し、それへ積極的に参加することによってはじめて自らのアイデンティティを獲得し、十全たる個人となりうる、という人間観をもっているということができる。こうして民主主義思想は個人を政治体に組み入れ統合していこうとする衝動を内在させている、ということができるわけである。しかもこのような発想それ自体のうちには、個人と政治体の対立緊張関係という論点を取り込む余地をもっていない。
 これに対して自由主義の国家哲学思想は、ラートブルフによれば、「個人の人権、基本権、自由権、すなわち自然的で前国家的な自由の諸部分」こそが−−つまり政治体から離れた個人のあり方こそが−−、最優先されるべき価値であり、それらの価値と比べるなら、国家は二次的な手段的存在にすぎないと見る。国家は手段的価値をもつにすぎない、自体的な価値をもってはいない、というわけである。この観点からは、国家が共同体であることは否定され、単なる技術的な機構にすぎないものと見られることになる。



 ここで重要なことは、この自由主義にとって、個人とは、政治的領域に吸収され尽さない something を、しかも個人自身にとって決定的に重要な something をもつものだということである。この発想が、個人と政治体との緊張関係という問題を原理的な次元に押し上げる。私は、例えば先に挙げた「新しい社会運動」は、このような国家−−あるいは社会−−に吸収され尽さない something を防衛するための、あるいは既に国家や社会に吸収されてしまったそれを奪還するための、ネットワークとして成立し展開されているものと評することができるだろう、と考えている。自由主義は、一旦復権された上で、直ちに現代的なレレヴァンスをもつ形に再構成されねばならない、私は先にこのような意味のことを述べたが、それはこのような文脈においてである。
 無論、自由主義や民主主義を論じるすべての論者がこのように自由主義と民主主義の概念を截然と区別して用いているわけではない。しかし、われわれの当面している問題をシャープに理解するためには、ぜひともこのような区別が必要になる。そして、本稿での議論が一定程度成功していれば、この区別は有効であったことになる。


 戦後において丸山は、このような道徳理解の内容の転換を余儀なくされた、つまり「一君万民主義」をテコにした「天皇制とデモクラシー」との宥和という枠組に沿って道徳を考えることを否定しなければならなくなった、という点である。
 「超国家主義」論文は、いうまでもなくこの転換を遂行するという課題を背負って執筆されたものであった。