三木清の危機意識と自然的制度観の克服
 −−西田哲学と丸山政治学の批判的考察のための一試論−−
今井弘道

 1. 三木清の哲学的思索は一貫して〈行為的現実〉をめぐっていた。対象的「認識」の地平を越え出て〈行為的現実〉に関わろうとしていた。三木にこのような思索を促したのは、三木が同時代に対して抱いていた尖鋭な「危機」の意識であった。第一次大戦後の留学以来、三木は、敗戦直後のドイツを支配していた危機意識を「近代」総体に関わるものと見、同時代の日本もそれを共有すべき段階に達している、と考えていた。その危機意識がその後の三木の哲学の全体を領導したのである。
 危機意識と行為論とのこのような交錯は、本稿のテーマである三木の「制度」思考にとっても決定的な意味をもっていた。三木のこの「制度」思考は、丸山真男の用語を使えば、「制度」をめぐる「自然」と「作為」の問題と深く関わっていた。
 しかも、丸山以前に展開されたこの三木の「制度」思考は、「近代」の総体と関わる「危機論」との内在的な関連に立って展開されていた。この点で、三木の立場は、「近代」の立場に立とうとした丸山とは明確に区別される。念のためにいえば、だからといって、三木がいわゆる「京都学派」の哲学者達と同様に「「超克」のみが問題であるかの様な言辞」(丸山「近代的思惟」、B**頁)を「近代」に向けて投げつけたと即断されてはならない。

 2. 昭和十年代に展開された三木の「危機」論は時論的性格をもっていた。だが、単にそれで自己完結していたわけではない。それは、「不安」の概念を媒介として三木の哲学の根幹に関わっていた。「不安の哲学」と「危機の哲学」は、三木においては一連のものだったのである。
 時局に対する三木のまなざしは、こうして現代の危機意識を見据えることを通して「近代」総体に関わっていた。哲学的次元は、逆に常に時局へのまなざしによって点検され続けた。三木が西田哲学の「行為的直観」概念を批判的に継承して「行為的現実」に更に深く関わる時も、その事情は揺るがなかった。三木による西田哲学の批判と継承も、あくまで現実の危機との関連においてなされたのである。  三木は、「危機の把握」と題された時事論文で、「危機」はつねに「瞬間」的なものだといっている。この「危機の瞬間性」は行為者に時宜を逸することなき「決断」を要求する。「危機の意識」は「瞬間」から「瞬間」への過程性の中で成立し、人々を「決断」と「行為」に「駆り立て」るのである(三木清全集14巻、561頁。以下、三木の引用はすべて全集版に依拠し、引用文の直後に、三木M561頁というように表記する)。
 この「決断」と「行為」を通して「危機」に対処する時、人は、それまで自明視していた環境や世の中への一体化的埋没から抜け出す。だが、人が環境への埋没から抜け出す時には、「制度」もまた、行為者に対して疎遠で敵対的な対象となる。その時、制度は自明性を喪失する。
 こうして危機は制度を問題化する。制度は、未来を志向して現在を突き抜けようとする行為者に抗し、現在を過去に繋ぎ止める力として現れてくる。従って、行為者が行為者であり続けようとする限り、それは行為者にとって変革すべき対象となる。かくして行為者は個性的な「決断」と「行為」の担い手となるべく促される。
 こうして、人を「決断」と「行為」へ促す「危機の意識」は、制度とは所詮過去の「人間の作ったもの」であって、今われわれによって「作りかえられるべきもの」だとの了解をもたらす−−それを、「歴史意識」を目覚めさせる、と表現してもいいだろう−−。「瞬間から瞬間へ動いてゆく」過程的な「行為的現実」は、「主体的」に「把握」されることによって、きわめてダイナミックなものとなるわけである。
 「危機」を、三木は、「哲学的に「瞬間」として規定される」といっている(同、三木M563頁、「哲学的人間学」、三木Q244頁)。哲学的に「瞬間」と規定される「危機」的現在とは、そのうちに「未来」が食い入っているという意味で「特殊な未来性」でもある(「危機意識の哲学的解明」、三木D25-26頁)。「過去の方向から流れて来る時間」と「未来の方向から押し寄せて来る時間」とが相接触して形成される〈時の渦流〉の中心、といってもいいだろう(「哲学的人間学」、三木Q244頁)。  このような「現在性」=「特殊な未来性」である「危機」の「瞬間」は、行為者に〈いかなる未来にコミットするのか〉の選択肢を突きつけ、Entweder-oderの「決断」を迫る。行為者がマリオネットでない限り、その選択の背後には「構想力」が密かに働いている−−その限りで、その決断は、「無」からの空疎な決断ではありえない−−。その選択の如何によって全く異なった次の「瞬間」が生まれる。次の「瞬間」は、それはそれで更に新たな「決断」を行為者に要求する。ここに、「瞬間」から「瞬間」への過程性が鮮やかに成立するわけである。

 3. 「人間」は常に「環境」のうちにあり、「環境」を離れて「現実的な人間」は考えられない(「哲学的人間学」、247頁)。このような人間と環境との関係の理解もまた、三木の哲学を貫徹している原理のひとつであった。しかし、〈危機の中での行為と決断の主体としての人間〉という理解は、環境の内にある人間という理解を一歩も二歩も突き抜けていく。
 「人間の現実性」には「環境のうちにある」ということが属している、このことは否定するべくもないしする必要もない。だが、人間と環境の関係を人間と自然環境との関係と理解するにとどまるなら、人間の存在は動物のそれから区別されない。それゆえ、三木は、人間の環境は「自然的環境」に限られず、更に「文化的環境や社会的環境」がある(「哲学的人間学」、三木Q248頁)ということを、繰り返し強調した。
 しかし、「文化的環境や社会的環境」という場合でさえ、「環境」という言葉自体には静態的な語感が染みついている。人間に固有の行為のあり方が顕在化するのは、単に空間的で静態的な環境においてではない。「文化的環境や社会的環境」が例外的状況に陥り、旧来の制度が敵対的な存在として意識される危機の時である。「危機」状態こそが人間に固有の行為環境だということに着目するからこそ、三木は、一面で「環境」を離れて「現実的な人間」は考えられないとしながら、他面では静態的な「環境」を一歩越えて、危機意識と行為論との交錯点に視点を集中させたのであった。  「環境」概念は「空間性」の強調に傾き、「文化的環境」や「社会的環境」も所詮は静態性を脱しえない。そこでは、「時間性」・「過程性」の契機は適切に表現されえないからだ。だから、「自然的存在としての人間」の理解のためにならともかく、「歴史的存在としての人間」の行為を理解するためには、それだけでは足りない。
 そこで、三木は、「情勢」という概念を構成する。「情勢」とは、いわば歴史的な存在としての人間の行為環境であり、「時間」的・「過程」的・「歴史」的契機−−「自然的存在としての人間」に定位した時には背後に隠れてしまう契機−−の強調によって成立する概念であり、主体性を内包した概念である。「人間存在」の「特殊性」は、それが「環境に於いてある生命あるもの」にとどまらず「歴史的なもの」でもある点にあるが、この「特殊性」が「情勢」を通して視野に入ってくる。「人間存在」は「情勢」という更に限定された「環境に於てある」というわけだ(「哲学的人間学」、257-258頁)。
 この議論がおかれている「哲学的人間学」の文脈を注意深く読めば、ここで三木が西田の「場所」の概念を静態性を脱していないと見た上で、それに過程性・時間性を与えて歴史的なものへと尖鋭化させていこうとしていることがわかる。この努力の中で「危機」の概念が考えられていたのである。
 宇宙を流れる無限の時間と生物個体の生命に流れる無限小の時間との間に、その何れにも吸収され尽くすことのない歴史的時間が流れている。人間がその時間に触れうるのは、危機の中での実践的行為を通してだ、というのである。その中で、人間は自分の存在意義を確認する。三木はこのことを浮き彫りにしようと考えているのである。
 三木によれば、「人間存在の状況性」は、「環境、情勢、危機」という「三つの概念」を契機としている(「哲学的人間学」、三木Q265頁)。「環境」に時間性・過程性の契機を持ち込んでそれを「情勢」にまで具体化しなければ、行為的人間にとっての「状況」にならない。この行為的人間に固有の「状況」が「情勢」なのだが、種々の「情勢」は時間性・過程性の契機の濃淡をもっている。
 「危機」はその契機が「極限」に達したときの「行為状況」である。「情勢」の中でその「危機的時期」の対極にあるのは、時間性・過程性の契機が背景に沈み込んで伝統が静かに支配する「有機的時機」である。
 こうして、三木は、「情勢」概念を「有機的時期」と「危機的時期」とに下位区分する。「危機的時期」においては、「時間性」・「過程性」の契機は極度に尖鋭化し、「危機」的でない「情勢」は、「時間性」・「過程性」の契機を鈍磨させ、空間的な「環境」へと回帰していく。制度もその時には自然の中に抱かれて眠る。いかなる人間の行為状況も、この「有機的時期」と「危機的時期」の両極によって形成されるスペクトラムの中に位置づけることができる。
 こうして、「環境→情勢→危機」という方向は、時間的契機の尖鋭化の方向である。この契機の尖鋭化の中で「危機の意識」が理解される。そしてそれとの関係において、歴史と制度が「人間の作るもの」であることが理解されるわけである。
 因みにいえば、このような三木の議論には、カール・シュミットに連なる問題関心が看取できる。そのことは、決断主義と「作為」主義との結合を端的に示すホッブスの標語−−「真理ガデハナク、権威ガ(権威ノ決断ガ−今井)法ヲツクル」−−を自らの法哲学の原理としたシュミットを知る人には容易に了解されよう。
 ただ、シュミットの国家学的はシャープだが、三木がもつ哲学的広がりは欠けている。端的に言えば、シュミットの決断主義は、政治的指導者の権威的決断に固定されていて、それが行為論や人格論への視野の広がりを閉ざしている。逆に、三木の議論は、シュミットの議論の意味を、単なる〈危機の国家学〉の次元を越えた法哲学と哲学との交錯する広い視野へと持ち出しうる可能性をわれわれに示唆している。
 そこに危機の理解の深みにおける差異、三木の優位がある。少なくともこの点に関する限り、三木は未だ知られざる思想家にとどまっている。

 4. 「危機的時期」の対極に位置する「有機的時期」は、「時間性」・「過程性」の契機の希薄な時期であった。「主体と客体との内在的関係」が支配的な時期、主体と客体との関係が融和的一体状態において維持される安定期、自然的・文化的・社会的環境と人間とが調和した、従って伝統が支配的な時期であった。この時期には、劇的な出来事が起こらず、「日々是好日」の「日常性」が淡々と過ぎ去る。
 この「有機的な時期」にも、その底に何らかの「決断」と「行為」があることは否めない。だが、それはそのものとしては意識されない。過程性、時間性は深く背景に沈みこみ、人間の作為の所産たる習慣や制度も自然と融合している。〈第二の自然〉は〈第一の自然〉に溶け込んでいる。
 この時、制度は「制度」として意識されず、いわば「自然」現象の一部として意識される。そこに変化が生じようと、それは、主体と客体との安定的な融和的状態を維持したままに全体が漸次的に推移していく「有機的な変化」にすぎない(「哲学的人間学」、三木Q261頁)。
 「危機的時期」には、しかしこの主体と客体との「内在的」・「有機的」関係が揺るがされ、解体される。この関係の解体状態を自覚した時、人は、いわば融和的一体状態から見捨てられていることに気づく。制度は主体に対して敵対的な相貌を示し、主体は自らの帰属する位置をそこに見出せなくなる。つまり、〈虚無〉の上に立たねばならなくなるのである。「危機的時期」とは、こうして「内在的関係」が解体瓦解し、「超越的関係が顕はになる」時期なのである。
 この時、自然の中に溶け込んでいた社会的諸関係や諸制度は自然から剥離し、自明性を喪失する。そして、不安定で可変的・相対的な相貌を示すに至る。人間は、そのような状況に立ち尽くす時、自らを根拠をもたない「不安」な存在だと意識する。
 だが、自然から剥離して対象として立ち現れてきた社会的諸関係や諸制度を新たに作りかえる能力が自己内にあることが自覚されるや、その「不安」は克服可能なものとなる。この時、人は自らが制度の制作者・創造者でありうることを意識し、いわば「制度的自己」(後述するようにこれは梯明秀の用語である)として振る舞い始める。
 こうして「危機」の中で単に「不安」を感じるだけでなく「制度的自己」としての自己了解をもち始めた「人間」は、客体と化した「世界」を「超越」し、その「世界」から自覚的に「距離」を保つ。世界からの「距離」は、「世界」に対して「態度を取る」とか「関係する」という「人間存在の一般的な存在の仕方」を可能にする。「人間と世界との交渉」は「その直接性」・「直接性への束縛」からの「距離」を前提とするからである(「哲学的人間学」、三木Q267-268頁)。
 このことは、ニーチェの「距離のパトス」という言葉で表現可能だが、そこにこそ「人間の主体性の根源的な意識」がある(「哲学的人間学」、三木Q269頁)。その「距離」が、主体を歴史的に創造的な「制度的自己」たらしめるわけである。
 ひたすら既成的なものになってしまった制度や、よそよそしさだけが顕わになってきた「世間」、抑圧性を露呈してきた「世の中」の仕組みがそれとして見えてくるのは、このように「主体と客体との内在的関係」が揺るがせられるに至る状況、「危機」的状況においてである。この時期には、主体による選択的決断が「世界形成」の決定的な契機となる。三木の「危機」論と行為論は、こうして「制度的自己」としての「自覚」へと収斂していくのである。
 しかも、「主体と客体との内在的関係」が解体している限り、新たにどのような制作・創造が可能か、またなされるべきかについては、さまざまな意見が対立するのが普通である。こうして個人は複数の可能性の中で、Entweder-oderの「決断」の前に立つ。私は、先に私は、〈いかなる未来にコミットするのか〉の「決断」を迫られた行為者は選択の背後で「構想力」を密かに働かせている、といった。だとすれば、この行為局面においては、さまざまな方向性を志向するもろもろの構想力間の調整の次元が必要となる筈である。この問題を、三木はレトリックとして考えている。その点は後に言及することになるであろう。

 5. 私は今、「制度的自己」という言葉を使った。この言葉は、同じ西田門下で三木と親しい関係にあった梯明秀が、1936(昭和11)年に、西田哲学批判の文脈で用いた言葉である。それは丁度、三木が『哲学的人間学』の執筆にいそしみ、西田と三木との間に「行為的直観」という西田哲学の概念を通して、師弟の交流関係があらためて濃密化してくる時期であった。しかも、その交流の中で、三木が西田哲学の内在的な批判的克服を試みようとしていた時期であった。
 梯の議論は、西田哲学に内在しつつも、その〈「国家」的「制度」の「自然的」理解〉を批判の対象としていると見ることができる。結論からいえば、私は、この梯の議論はまさしく西田哲学の核心を突くものだ。だが、突き方は不十分だ。その不十分性を克服するものとして、上の三木の議論が決定的な意味をもつ、と考えている。
 しかも、この論点にまつわる西田−三木関係のうちに、西田哲学の批判的継承と発展とに関わる最も重要な局面があった、それは日本近代思想史の最重要な局面のひとつに数えられるべきものだ、私はこう考えている。その局面には、更に丸山真男の存在を絡めて考える余地もある。
 しかし、それらの点に触れる前に、梯が批判の対象にした、〈西田哲学における「国家」的「制度」の「自然的」理解〉の意味についての確認をしておかねばならない。
 中村雄二郎によれば、日本の「国体論的思考」は、「伝統につながる自然的なものに価値を認める」という意味で「自然」的な性格を濃厚にもつものであった。「制度」というものは、伝統的で「自然的」に成立したようにみえようと、必ず「制度に固有のリアルな機能」を持っている−−つまり、強制や抑圧を通して現存秩序を維持しようとする道具的機能性をもっている−−。だが、「国体論的思考」はその点を看過した。そのことを象徴的に示しているのが、「我日本の国体は歴史的に自然に出来た」ものであって「他の多くの欧米の国々、殊に共和国体などのやうに人為的に出来たのではない」という井上哲次郎の言葉である。このような「国体論的思考」は、「国体」が「作為」的で「道具」的なものであることを看過し、それを自然的なものとして神聖視した(中村雄二郎『近代日本における制度と思想』(未来社 1967)、21頁)。
 中村は、別稿で、このような事情の背後にある事情として、「とくにわが国の精神風土においては、制度、慣習、言語など」が「「約束事」であることの意識が薄く、自然的、自明的なものとして受け取られる傾向が強い」(中村雄二郎『制度と情念と』(中央公論社 1972)、33頁)ということを指摘している。先に、われわれは、「有機的時期」は主体と客体との融和的一体状態が支配的な時期であり、この時期には「日々是好日」の「日常性」が淡々と過ぎ去ると述べたが、中村はこのことをいっているのである。このような自然的制度観が完全に衰微したわけでは決してない。
 自然的制度観の支配するところでは、法律や制度が個人の内面に踏み込むということは起こりえない。そこでは、法律や制度と緊張関係をもちうるような「個人の内面」が未だ十分な形では成立していない。人は、自然に服するようにそれに従うのである。
 このような事情をも踏まえた上で、上の中村の指摘を私は基本的に支持する。しかも重要なことは、このような「国体論的思考」は、井上哲次郎個人のものであったというより、いわば日本的メンタリティの基礎にあるものであった。ここには、ある意味で日本近代思想史における最大級の問題が潜んでいる「有機的時期」の対極に位置する三木の「危機的時期」論は、このような日本的メンタリティとそれに立脚する自然的制度観へのイデオロギー批判としての意味を内包していたのである。
 この中村の指摘を基本的に受け容れた上で一歩踏み込んでいえば、このような「国体論的思考」に浸っている限り、民族それ自体が「作為」の結果として−−歴史的な経験の積み重ねの中でさまざまな同化と異化を繰り返しながら−−成立したことも、国家それ自体が「道具」的なものであることも、自覚されることはない。その点の無自覚は、国家の本質、起源、正当性根拠、またその変容と終焉についての法哲学的問の閑却につながる。
 いささかの短兵急を承知でいえば、西田哲学がそのような「国体論的」な自然的制度思考を共有しており、その点が、戦時中に「近代の超克」論や「世界史的立場」論を主導したいわゆる「京都学派」の哲学の問題性とつながり、その背景をなしていたのではないか、と私は考えている。日本の国家をも天皇制をも相対化しえなかったという問題性である。そのような「制度」論的思考の次元での甘さが、「近代」の「超克」への志向を問題的なものにしたこともいうまでもない。
 伝統的で「自然的」に成立したようにみえるいかなる「制度」も、慣習法がそうであるように、強制力その他の「制度に固有のリアルな機能」を持っている。その「制度」も、また「制度」の具体的な定在としての「民族」や「国家」も、歴史の一時期に成立した、相対的で経過的な存在にすぎない。いまや常識となっているこのことを、戦時中のいわゆる「京都学派」の哲学が、明確に視野においていたとはいいがたい。「国体論」の枠組が自覚的に踏み越えられてはいなかったからである。
 どの程度まで深く具体的に意識されていたかは別として、このような問題性の根拠を、西田哲学の内部から問題にしたのが梯であった。「制度的自己」という言葉は、梯がその問題提起の核心部分で用いたものだった。その議論のポイントは次の点にあった。
 梯が批判を行った時期の西田は「行為的直観」の概念を中心に思索を展開していた。梯によれば、その段階の西田は、歴史的・社会的な問題次元を、つまるところベルグソンの『創造的進化』の生命論の延長上に設定しており、制度的世界の問題も基本的にその枠組の中に取り込んでいた。梯の西田哲学批判はそこを焦点に定めて行われている。つまりこうである。
 「歴史的生命の自己形成的な発展」についての西田の思想は、ベルグソンの創造的進化を基礎とし、その延長線上で、「身体」を「自己自身を超え自己自身を形成する歴史的世界の創造的要素」と把握することによって可能となったものであった。そこには、「西田の『論理と生命』以来の創意」があった。
 このことを確認する一方で、梯は、例えば『経済学批判』の「生産と消費との同一性」は明らかに制度に固有のリアルな機能を持って人々を搾取・抑圧する「制度」であり、その意味で「自然的なもの」に解消しえないものと見た。にもかかわらず、西田はそれをこの「生物的生命の弁証法」の枠組で把えた。
 そのことによって「制度」に固有のあり方が看過された。「制度的事実」が「ベルグソンの創造的進化」の発展上に位置する「歴史的生命の自己形成的な発展」の枠組の中で捉えられて「身体的事実の次元に解消」され、「社会的事実」が「制度的事実」であることが直視されなかった、というのである(梯明秀「西田哲学を讃える」、『戦後精神の探求』(勁草書房 1975)所収、303-304頁)。
 西田にとって「歴史的身体」は「行為」を担うものだが、その「行為」は「技術」的性格をもつ「制作」行為であった。だが梯によれば、「制作」行為を担う「歴史的身体」は、真に歴史創造的に働くためには、「制度に自己否定的に即」していなければならない。つまり、制度に埋没しておらず、それと「距離」を取り批判的な関係に立っている時にこそ、「歴史的身体」は、既成の制度を否定して新たな制度を作るものとして、創造的に働く。これに反して、「歴史的身体」が「自己肯定的に制度の上で安住する」なら、それの「行為的表現」は「歴史的に働くものにはなりえない」。かくして、行為的表現を「歴史的に働くもの」とし「歴史的世界の創造的要素」たらしめるためには、「身体的要素」は「制度的自己」にまで「止揚」され「高め」られねばならない(梯、同、304頁)。その時はじめて、「表現の世界」は「制度が制度を否定してゆく社会史」という形で成立する。この点に想到されていない限りで、西田哲学には決定的な限界がある(梯、同、306頁)。
 この梯の批判は正当であろう。しかし、梯は、そもそも人間が「制度に自己否定的に即」するということがいかにして可能となるのかを、必ずしも明確にしていない。その限りで、梯の西田哲学批判は抽象的なものにとどまった。
 この梯の西田哲学批判を踏まえていえば、私が紹介してきた三木の議論は、この梯の西田哲学批判の限界を突き抜ける意味をもっている。「危機的時期」と「有機的時期」の対比は、ここでその積極的意味をあらわしてくる。私が先に、三木の「危機」論と行為論が、「制度的自己」としての「自覚」へと収斂する意味をもっていると述べた所以である。もしこのようにいえるなら、梯の西田哲学批判を、この時期の三木は、西田哲学を継承しつつ越えていたことになる。

 6. ここでついでながら、鈴木享が、梯の「生命」論に定位した西田哲学批判を一歩進めたところで、「表現的形成」論批判を展開していることを垣間見ておこう。
 鈴木によれば、「西田哲学の表現的形成の哲学は特に芸術の問題にうまく適用される構造をもっている」。西田は、この「表現的形成」の立場から、それを「歴史的形成作用、制作、言語、実践、労働などに具体化してゆこうと試みた」。だが、西田にあっては、「この表現的形成と右の諸概念との間の正確な概念規定と論理的な区別と統一との諸関連が必ずしも明確にされ」ることはなかった。しかも、西田の「表現的形成の論理」には「疎外の自覚とその克服の論理」がない(鈴木、同、76頁)。その結果、西田の哲学は「何を対象に論じても表現的形成の単なる直接的延長という感じ」を与えることとなった(鈴木、同、74頁)。
 西田の「表現的形成の論理」には「疎外の自覚とその克服の論理」がないという鈴木の批判は、その「論理」が制度の生成改廃を通して展開される歴史形成の論理になっていない、と読むことができる。その意味では、鈴木の議論は、事実上、西田哲学における〈「国家」的「制度」の自然的理解〉を問題にしている。そのことを踏まえれば、西田の自然的制度論をめぐる問題の焦点は、鈴木にとっては、「表現的形成の立場」を「歴史的形成作用、制作、言語、実践、労働などに具体化して」、芸術論的限界を克服する可能性の問題にあるといいうることになる。
 ここに、「構想力の論理」において三木が次のようにいう所以がある。「構想力が特別に芸術家の能力と見られるのは、芸術的活動が特別に創作と見られる」からである。この先入観から離れて、「構想力の論理を美の領域への拘束から解放して広く行為の世界へ導き入れると共に、それを歴史的創造の論理として明かにすること」に努めなければならない。そこに「我々の仕事」がある(「構想力の論理」、三木G18頁)。
 この文章から、構想力の本来的な場は「行為の世界」にあるのに、しばしばそれが「美の領域」に閉じこめられるが、現在の哲学的問題のひとつがそこにある、三木がこう考えていることが察知される。  ところで、三木が構想力の論理を「美の領域」から解放して「歴史的創造の論理」へと具体化させる作業のポイントとなったのは、「形」の概念であった。かくして三木はいう。「構想力の論理は単なるイメージュの論理でなく、むしろフォームの論理でなければならぬ。かくの如き客観的歴史的なフォームとして先ず考えられるのは制度である」(「構想力の論理」、三木G98頁)。
 この指摘は構想力の核心に関わる意味をもっている。「形(フォーム)」とは、この引用文から明らかなように、三木にとっては、「芸術」にではなく、むしろ「制度」に関わるものであった。つまり、構想力の論理の「美の領域」から「歴史的創造の論理」への具体的深化を考えるとは、「芸術」よりも「制度形成」の活動をこそ本来的な意味での「創作」と見、構想力を第一義的には制度という「形」の創造に関わるものと考えることであった。三木は、この「形」が、「構想力」の本来的場面としての「制度」形成の中心にその位置を占めている、と見たのである。
 ところで、この「美の領域」から「歴史的創造の論理」への転換にとっては、「時間」の問題が決定的な意味をもっている。このことは、「美の領域」が無時間的なものであることに注意すれば、容易に了解される。「制度」を「客観的歴史的なフォーム」と見て、構想力の論理を歴史的創造の論理として具体化させようとすれば、「美の領域」の論理をその前段に位置するものと見た上で、そこに時間的契機を導入することが決定的なポイントとなる、というわけである。
 三木は、西田哲学に対して最も深く共感を寄せていた時期に、敢えて西田哲学に対する下で引用するような批判的な発言をしたことがある。その発言は、「構想力の論理を美の領域への拘束から解放して…行為の世界へ導き入れる」作業が、時間論−−「現在」を、うちに「未来」が食い入っている「特殊な未来性」と理解しようとする、危機論と内的に関わる時間論−−に支えられていることを、明示している。

 「西田哲学はいはば円の如きものであって、この円を一定の角度において分析することが必要ではないかと思ふ。その角度を与へるものは永遠の意味における現在ではなく、時間的な現在、従つてまた未来の見地である。西田哲学は現在が現在を限定する永遠の今の自己限定の立場から考えられており、そのために実践的な時間性の立場、従って過程的弁証法の意味が弱められていはしないか。行為の立場に立つ西田哲学がなお観想的であると批評されるのもそれに基づくのではなからうか」。そこでは「真の矛盾」と「過程的弁証法」は考えられない。かくして、「それは畢竟「和解の論理」となり、そこではEntweder-oderといふ実践の契機が失はれ」る。「述語主義の論理」は「過程的弁証法」を「自己の契機とすることができる」のでなければならない。「これらの疑問は西田哲学における「永遠の今」の思想に集中するのである」(I433-434頁)。

 この三木の西田哲学批判が、「有機的時期」と「危機的時期」と呼応しあう関係に立っていることは明らかであろう。三木は、その観点から、一面では西田哲学の「行為的直観」の立場からする「行為」論への志向性を高く評価しながらも、その反面で「有機的時期」の静態性へと一面的に傾く傾向が十分には克服されておらず、「なお観想的であると批評され」てやむをえない、と考えているのである。

 7. 三木は、ある議論の中で、「世間的」と「世界的」とを区別している。この区別は、「日常性」と「世界歴史性」との「範疇的区別」に、また「閉じた社会」と「開いた社会」の区別に相応し、これまでの議論に即していえば、「有機的時期」と「危機的時期」の区別に対応してもいる。
 しかし、ここで重要なことは、「世間的」と「世界的」とは、個々の人間の存在のあり方として、実際には融合されている場合が少なくないにせよ、本来的には区別されるべきもの、と考えられていることである(「哲学的人間学」、三木Q376-377頁)。
 ここで三木のこの議論を持ち出すのは、これまでの議論の限界−−人が「制度的自己」になるのは「危機」の時だけなのかといった問が発せられたときに露呈する限界−−を一歩踏み越える論点がここに提示されているように思われるからである。
 「世間的」と「世界的」とが区別されたり融合されたりしながら存在しているとはどういうことか。人間は、一面では例えば、@「妻に対する夫、友人に対する友人」といった「日常的な役」を有している。だが、他面ではA「芸術家として、政治家として、哲学者として等、世界史的な役割を有」してもいる。ひとは、このAの「世界史的な役割」を遂行するためには、@の「日常的な間柄」を否定しうるのでなければならない。無論、その逆もいえる。
 かくしてこの「日常的な間柄」と「世界史的な役割」の区別と統合が必要となる。その区別と統合とを統制するのが、三木によれば、「人格」としての人のあり方である。「真の人格は…日常的な役に於ける人間及び世界史的な役割に於ける人間を越えて内的なものである」。この「内的な人格」が「人間」の「根柢」にあって、「日常的な役に於ける人間」と「世界史的な役割に於ける人間」との関係をコントロールしているというわけである(「哲学的人間学」、三木Q376-378頁)。
 三木は「日常性」を「閉じた世界」と見ている。それをここでの三木は「日常的な間柄」と表現しているわけだが、このことのうちには、日本的「日常性」の弁護論として働く和辻哲郎の「間柄」概念に対する三木の批判的意識がこめられている、と理解して大過ないであろう。ともあれ、この「閉じた世界」からの超越が可能となるのは、この意味での「人格」が「日常的な間柄」を否定する時である。  ところで、「日常性」=「閉じた世界」からの超越とは、既成的な制度からの超越でもある。そう考えていいなら、ここで三木は、「制度的主体」の問題を、「日常的な間柄」と「世界史的な役割」の区別と統合とを統制する「人格」という角度から考えているといえる。「制度的主体」とは、「主体と客体との内在的関係」が解体した状況の中で、行為者として「主体と客体の関係」の再編に関わり、新たな制度を構想する主体のことである。
 この「制度的主体」は危機の中から自動的に立ち現れてくるわけではない。むしろ、「主体と客体の関係」の解体と再編の論理を構築するために、「危機」論と「人格」論が接合されることが必要だ。そのことがこの「人格」論において示唆されている。
 三木は、「我と汝」という範疇こそが「人格」概念を基礎づけると考えていた(「哲学的人間学」、三木Q378頁)。それを踏まえれば、「不安」から脱して「制度的自己」として生きることが出来るのは、「世界超越の可能性」が「我と汝」という範疇に支えられることによってだ、その支えが得られない時、人は孤独な自我として〈虚無〉と〈生の無意味さ〉に鷲づかみにされて「不安」にさいなまされる。三木は恐らくはこう考えていた。そのことは、三木のやや未整理な次の言葉をあわせ読むことによって明らかとなる。
 「もしも我々がつねに世界と融合的に一体感に於て生きることができるならば…不安はないであろう。併し人間存在には根本的に世界超越の可能性が属する故に、世界のうちへ入って行った我々は、この世界のうちに生きる理由が、明瞭に把握されていない限り、更に再び不安に陥る危険は絶えず存在する。歴史の有機的時期に於ては個人は社会と融合的に生活し得るであろう。然るに危機的時期に於ては社会と個人との有機的関係が失はれ、個人は社会から游離して自我に閉じ籠ることを余儀なくされ、かくてその極限に於て無に面接して不安に捉えられる。否、有機的時期に於ても、人間はその存在の根本的規定によってしばしば世界の外に出て無の上に立たされる」(「哲学的人間学」、三木Q290頁)。
 「主体と客体との内在的関係」が揺るがされる時、人は「客体」に対して「超越的」な位置に、つまり〈虚無〉の上に立たされる。そこにおいて避けることのできない〈不安と孤独〉には、しかし、新たなる共生への憧憬――解体した「主体と客体との内在的関係」の中での〈古き共生〉に代位する〈新たなる共生〉への憧憬――が潜んでいる。かくして、〈不安と孤独〉の克服のためには、この憧憬を充たすべく社会的諸関係や諸制度を作りかえる「制度的自己」として振る舞うのでなけわばならない。しかし、「再び不安に陥る危険」を免れるためには、その「世界超越の可能性」を「我と汝」という範疇によって支えさせる必要がある。さもなくば「不安」がわれわれを去ることはない、というわけである。

 8. 「人格」の基礎は「私と汝」という範疇にある。三木がこういうのは、「人格」が他の「人格」との応答関係において成立するものと考えられているからである。人は「他の人格に対して初めて人格」であり、「他の人格に対する関係を含まない」ような「人格」はありえない。
 この「私と汝」の応答関係を、三木は、「非連続的」な関係と捉えている。これに対比される「連続的」な関係は、「世間の人もしくは間柄に於ける人」に見られる関係、閉じた社会を構成する関係である。地縁・血縁を基礎にする関係といってもよいだろう。
 三木のいう「私と汝」の関係は、こうして「開いた社会」の原型である。だからそこには「公共への憧憬」が潜んでいる。これに対して「世間の人もしくは間柄に於ける人」の「連続的」な関係は、「世間或は世の中」/「家族、国家など」に具現されるが、それは排他的な関係であって「公共への憧憬」をもっていない。この意味で、「閉じた社会」と「開いた社会即ち人類」との「差異」は、「有限と無限との間の、静止と運動との間の差異に等しい」(「哲学的人間学」、三木Q377-378頁)。
 「家族と国民的社会とはその起原に於て混淆しており、密接な連結に於て留まっている」。この「家族と国民的社会」の連結体と「人類」とは、「閉じたもの」と「開いたもの」として対立している。だから、この閉じた「家族や国民」から「段階的に人類に達すること」はできない。「飛躍が必要である」(「哲学的人間学」、三木Q379頁)。
 こう考えてみると、「制度的自己」の問題は、三木にとっては「開いた社会」の原型としての「我と汝」の関係を具体的な「開かれた社会」へと実現していくための、実践的行為を担い手の問題であったことがわかる。上の引用に示唆されているように、三木はこの主張をベルグソンを援用しながら展開している。しかし、三木は、すぐさま「ベルグソンは閉じた社会と開いた社会とを抽象的に対立させているに過ぎ」ない(「哲学的人間学」、三木Q380-381頁)としており、実際にはベルグソンに批判的である。そのことは、三木が「世間的」と「世界的」との対立を、「人格」の観念によって統制されるものと見ていたことと関連している。
 「連続的」な関係からなる「閉じた社会」は、慣習に立脚する単に実定的なもの、制度的なものに支配されている。しかもそれは、人々の日々の伝統的・慣習的な行為によって維持・強化されている。その「閉じた社会」の変革が可能なのは、一方でそこに内在しながら、他方では「私と汝」の範疇を基礎にそれを「超越」してもいる「人格」的応答関係の上に成立する行為によってだ。このような形で、「人格」の観念のうちにベルグソン的抽象性を越え出ようとする契機が潜められている。「危機」論と「人格」論とは接合されるべきものであり、その接合において「主体と客体との内在的関係」の解体と再編の論理が現実に作動する、こう考えられているのである。
 そのことを踏まえて、三木の議論に眼を向けよう。「社会的生活は団体の諸要求に応ずる多かれ少かれ強く根を張った諸習慣の体系」である。そして、「我々の自己」は、完全にではないが、「一表面の部分に於て社会化されている」。「間柄」という他者との有機的な「連続的関係」を通して、この「諸習慣の体系」に繋ぎとめられているのである。その限りで、「我々は開いた社会に達することができぬ」。
 だが「私と汝」の「非連続性」を根拠にすれば、人間は、「独立性」をもつことができ、「閉じた社会」にありながら、「日常的な世間的な間柄」を内部から食い破る「自由な主体」となりうる。だから「閉じた社会」と「開いた社会」とを「抽象的に対立させて」はならない。「世間的」と対立する「人類的」は「抽象」にすぎないのである−−ここで、「人類的」という言葉は「世界的」と互換的に使用されている。念のため−−。
 「人間存在の具体性」は「世間的」と「人類的」の対立の「弁証法的統一」にある。人間は、この意味において「連続的であると共に非連続的」である(「哲学的人間学」、三木Q379-381頁)。こうして、三木は、「人間存在の具体性」を、「世間的」と「人類的」(=「世界的」)との対立の「弁証法的統一」と捉える。この「弁証法的統一」は、その中で「制度的自己」が働きだすことによって動態化しはじめる。しかし、この「制度的自己」の働きは、逆に、この動態化の中での「危機」と動態化を母胎として現実化しうる。「制度的自己」は、単にその自律的意志によって駆動されうるわけではないのである。
 「閉じた社会」と「開いた社会」とのこのような抽象的対立の否定は、「有機的時期」と「危機的時期」との抽象的対立の批判をも含意している。三木の「ミュトス」への着眼が、おそらくは更にそのことと関連している。先に私は、「危機」論と「人格」論との接合においてこそ、「主体と客体との内在的関係」の解体と再編の論理が現実に作動するといった。その接合は、「ミュトス」論に即して考えられている、こういえるのではないかと思われるのである。
 但し、三木は、「ミュトス」という言葉で歴史的過去に存在した「神話」を考えているわけではない。その意味での「神話」とは、構想力の根源的形態ではあっても、歴史的に未成熟であり、技術的にも不十分である。このことは、しばしば看過されるが、それは重大な誤解につながりうる。この点は、三木の次の言葉から明らかである。
 「魔術」は、たしかに「形のないパトス」に「形」を与える「世界形成的」なものと見てよい。そして、世界は「構想力の論理」をもった技術によって「技術的に形成されてゆく」ものと考えうるから、「魔術」にも「構想力の論理」に通じるものがあるといえる。しかし、「魔術」は未成熟な段階にとどまる技術であって、本来の「技術」とは区別されねばならぬ。この点に、「世界の形成に関する神話的形像の限界」がある(「構想力の論理」」、三木G72-73頁)。制度の技術的形成の論理における未熟さが「魔術」と「神話」とにまつわりついている、というわけである。
 「神話」は「集合的表象」によって担われるものであった−−つまり、「閉じた社会」の成員によって排他的に共有される「社会的なパトス」を基盤とするものであった−−。「神話」はまた「表象的要素」をも内包している−−つまり、「感情」だけでなく「構想力」をも含む「芸術家の能力」に類比できる表現的性格をもっている−−。そのことに注目して三木はいう。
 「ミュトスは既にパトス的・ロゴス的なものとして表現的なものであり、いわば表現の根源形態である。パトスがミュトス的になるということは主体的なものの客体的なものへの堪え難き欲求を現わす。デーモンの協働なしには芸術作品はないと云われるが、表現活動に於けるデーモンとはかようにミュトス的になつたパトスのことであろう」(「哲学的人間学」、三木Q352-353頁)。
 つまり、「ミュトス」とは、「客体的なもの」へと自己を現実化しようとする「主体的なもの」の燃えるような欲求を抱えもった社会的パトスなのである。しかもそれは、既成性を否定し、その廃墟の上に自己表現として新たな制度を確立するという意味で、変革的な社会的パトスである。梯の表現を用いていえば、「制度に自己否定的に即する」ことによって真に歴史的に創造的に働こうとしつつあるところの、「歴史的身体」の奥に潜むパトスである。芸術的創作衝動とは、ここから飜って考えてみれば、むしろこの制度形成的衝動のミニチュアとみなされるべきものである。
 しかし、このような「ミュトス」がそのままの形で真に歴史的に創造的に働くとは、三木は考えていない。それが真に制度形成的衝動を担っているとは考えていない。

 9. 三木は、「ミュトス」は「表現的なもの」だといっている。しかも、その「表現的なもの」は、それが「ミュトス」にとどまる限り、「技術」的に未成熟なものにすぎない。三木は、その「ミュトス」を成熟させるためには、「我と汝」の範疇をそこに受胎させられねばならない、と考えていた。「閉じた社会」の成員によって排他的に共有される「社会的なパトス」を基盤とする「ミュトス」は、個々人の創造性を十分に汲みあげることができず、ましてや「開かれた社会」を志向することはないからである。
 三木は、「ミュトス」は「レトリック」にまで高められねばならないと考えているが、それはこの点に関わっている。「ミュトス」の形成に働いているいわば「集合的」な"loi de participation"は、「レトリック」として働く間主体的な"loi de participation"にまで洗練されねばならないといってもいい。そのためには、しかし、「歴史的な形の論理であり、且つこれを作る立場における論理」であるところの「構想力の論理」(「構想力の論理」、三木G19頁)の技術的な成熟がなければならない。
 ここに、「技術哲学」者としての三木とレトリックの哲学者としての三木の二つの能力が統合されるべき場が開かれてくる。レトリックとは、ある意味では、現実と理念とを、各人のパトスを通して、また各人のパトスによって編み上げられている社会的なパトスを通して媒介していく機能だ、ということができる。そして、その中で共通の目的として確定されていくものを現実へと翻訳していく時に働くのが、技術である。
 このレトリックと技術との二つの能力を受胎することによって、「神話」は、そのうちに「未来」が食い入った「特殊な未来性」であるところの「危機」的現在における「世界形成的パトス」をになう構想力となりうる。こう考えられているというわけである。
 但し、三木は、このような構想力の構造を最終的な完成にもたし終えたわけではない。しかし、三木の下に示すようなアリストテレス解釈のうちに、おおよその構造は示唆されていると見ることができるであろう。

「技術には自然の技術があるばかりでなく、社会に対する技術がある。社会の組織を作ることや国家の制度を作ることは技術に属し、政治の如きもすぐれた意味における技術である。人間のあらゆる行為が技術的である」(F23頁)。「かやうにして種々の技術があるとすれば、アリストテレスが考えた如く、それらの技術のアルヒテクトニックを、その目的・手段の関係における階層構造を考へねばならぬであろう。そこには総企画的なものがなければならず、これは全体の形を作るものとして知性の最高の技術に属してゐる」(F23頁)。
 このすべての技術の、目的と手段の関係が織りなす階層構造において、過去・現在・未来の時間は、調整されていなければならない。このような階層構造にある技術は、畢竟するところ、「全体の形を作るものとして知性の最高の技術に属」すべき「総企画的なもの」としての技術なのだが、それこそは「政治」に他ならない。このようなものとしての「政治」こそが、政治的共同体をあらゆる意味における環境−−政治的諸制度それ自体をも含めた環境−−に作業的・行為的に適応し、かつ環境を維持しあるいは革新していくべきものと考えられているのである。このような「政治」を担いうるためには、人間は、「技術の中に入りながら技術を超えてゐる」のでなければならない。それは、「単なる超越」としての「自律」ではない。「内在的超越」としての「自律」である(F24頁)。

 注意を要するのは、この論述が技術に照準を合わせた議論になっている点である。しかし、その技術とその技術によって実現されるべき目的−−それは理念と無関係ではありえない−−の関係を調整し、またすべての技術の、目的・手段の関係に即した階層構造において、過去・現在・未来の時間を調整するものこそレトリックの機能だ、ということができるであろう。
 既に見てきたように、三木はしばしばソレルの「神話」に言及している。そこには、このような展望と重なる発想が未整理なまま潜められている。だから、それを批判的に検討することが、「レトリック」を通しての制度の「技術」的形成−−つまり、総企画的な技術としての政治性の発動−−という構想を具体化する通路となりうる、こう考えられたからであろう。
 かくして、「神話」とはレトリックへと読み替えられるべきものと考えられていたのだが、それにもかかわらず、三木は「ミュトス」に拘泥する。そこに、社会的パトスのダイナミズムを論じる場合の、恰好の手がかりがあると考えられたからである。ここではその点を念頭に置いた上で、以上の議論をもう少し具体的なものにしておきたい。
 既成性を超えようとする衝動は、具体的な歴史的状況の中では、「ドクサ」と「ミュトス」の対抗関係において表現される。「ドクサ」が「社会の均衡の状態」にある「有機的時期」の「意識形態」であるのに反して、「ミュトス」は「その矛盾または対立の関係」にある「危機的時期」の「意識形態」である。
 かかるものとしての「ミュトス」は、「つねに生成及び変化の観念と結び附」き、しかも「このやうな変化が全体に関わる意味を有し、従って連続的でなく、非連続的飛躍的意味を有する」。かくして三木は、「ミュトス」にとって「時間の観念」が「構成的」な意味をもつことを、あらためて確認する(「哲学的人間学」、三木Q353-354頁)。
 ここには、三木における「ミュトス」と「レトリック」の関係、さらにはそれらと「構想力の論理」との関係にまつわる問題が浮かび出ている――因みにいえば、三木は、ソレルのいう「ミュトス」/「神話」も「構想力」の産物に他ならないと見ている(「構想力の論理」、三木G54頁)――。それだけでない。それらの関係にまつわる問題が更に西田哲学の「行為的直観」と深い関連をもつらしいことが示唆されてもいる。しかし、本稿では、それらが別稿に期すべき課題として残されることの確認以上にこの議論を進めることは、もはや不可能である。

 10. 戦後直後の座談会「新学問論」で、丸山真男は、「制度」と「自然」の関係を「封建社会」と「近代社会」として対比する発言をしている。その発言は、これまでの三木の議論と通じる面をもっている。
 但し、三木が「有機的時期」と「危機的時期」との対比として論じた問題を、丸山は、「封建社会」と「近代社会」の対比として論じている。その分だけ議論は「近代」に肯定的な近代主義的色彩を帯びてくる。さしあたりはその点に注意しながら、その丸山の言葉を−−便宜上、私の要約を通して−−見ておくこととしよう。
 封建社会の「色々な学問」や「イデオロギー」がもつ「共通した特長」の一つに「人間の自己意識」の「欠如」がある。その「欠如」は、自己が「自然環境」に埋没してそれと連続的/同一的なものと了解され、「環境」が「客体」と理解されていないことに現れる。その場合、「社会的な環境」は「自然環境」に吸収・一体化されて、「運命的な」、つまり作為による変革の不可能な「自然秩序」と理解される。
 しかも、その社会的「秩序」を吸収した「自然秩序」は人間より高い価値をもつと見られ、その秩序に適応していくことに人間の義務がある、とされる。倫理[この場合の丸山の念頭にあるのは、無論儒教倫理である−今井]は、自己の外にある、自分より高いこの「自然」秩序にひたすら適応していくことを眼目として成立する。このような事情を権威化して説くことが、その社会における学問の中心的な仕事となる(28-29頁?)。
 三木の議論になぞらるなら、丸山の議論は「有機的時期」の説明をしている。三木によれば、この時期は、危機的状態によって否定されるべきものであった。そのことは、近代がもたらした「不安」の克服という意味をももちえた。しかし、「有機的時期」を「封建社会」と捉えた丸山は、主観−客観の二元論によってそれが克服されていく、という図式を提示する。更に社会契約論が科学的主客二元論のアナロジーで理解され、それが「有機的時期」としての「封建社会」の克服を説明するものとなる。丸山はこういっているのである。
 自己が「自然環境」に埋没してそれと連続的/同一的なものと了解される段階を越えて「主体意識」が成熟してくるのは、人間が「環境との間に乖離を感」じ、「主体と客体と…の分裂」が生れることによってである。その時、「自然」は「身体とひとつづき」であることをやめて「客体」化され、「客観的科学」の対象となる。「純粋の客観的自然メカニズム」として把握されるわけである。その時、「自然」を「人間に従属」させて「利用」していくという人間と自然との関係のあり方が同時に成立する。ここに価値関係のコペルニクス的ともいうべき逆転が生ずる。この人間と自然との関係についての考え方が社会にも適用され、社会も「人間の主体的意思」に担われ、「人間の便宜、人間の目的のために改変され得るもの」と理解される−−そのことを理論的に表現したところに「社会契約説」の意味があった−−。人間は、まず「自然に対して」、次に「政治社会」に対して、「自分の主体性」を「確立」するわけである(28-29頁)。
三木と丸山のいずれの説明も、「生命の弁証法」と「歴史的行為の弁証法」の対立を軸とした梯の大味な議論よりも遙かに洗練された形で行われている。三木の議論に注目していえば、それは、西田が「生命の弁証法」の枠組の中で制度を説明し「制度」に固有のあり方を看過しているという事態を、歴史意識に内在的な問題として捉え返すことに成功していた。丸山の説明は西田に言及するところはないが、この点に限っていえば類似の意味をもつといってよいであろう。
 勿論、三木と丸山の説明は同一ではない。われわれは、本稿冒頭で、三木の哲学的思索はつねに対象的「認識」の地平を越え出て〈行為的現実〉に関わろうとしていた、と述べた。しかし、例えば上で一瞥した丸山は、「行為の世界」=「作為の世界」を主客の二元的対立を前提とする「認識の世界」と連続的なものとして理解している。
 このような丸山の議論の枠組の奥に目を凝らすと、戦前の丸山の『日本思想史研究』の議論展開が透けて見えてくる。そこでの丸山は、「有機的時期」から「危機的時期」への転回点たる元禄から享保の歴史的状況の中で、いわば決断主義的・「制度的自己」的思考様式を体現した思想家として荻生徂徠を取り上げ、日本における近代的制度思考の成立の端初をそこに見た。つまり、危機の政治家荻生徂徠を、丸山は、近代的思考の日本における先駆とみたのである。この点では、危機を「近代」の危機と見ることを議論の前提とした三木とは明確に異質の議論だ、ということができる。
 現代という観点からすれば、まさしく問題はここから始まるといわねばならないであろう。本稿では、しかし、この点にこれ以上立ち入る余裕はない。ただ、この丸山の問題設定と三木の発想との間にある大きな類似性とその上でのやはり大きなズレのうちには、日本近現代思想史の展開にとって決定的な意味をもつ問題が潜んでいる、ということはできよう。しかし、与えられた紙幅は使い果たしてしまった。この点については、問題の確認にとどめておかざるをえない。
 ただ、本稿の執筆の中で、私は、丸山政治学と三木哲学、ひいてはそれらと西田哲学との関係には、「制度」論を軸とした、日本近・現代思想史の根幹に関わる重要な関連が存在することを確認することができたとはいえるのではないか、と思っている。中村雄二郎の議論を現代の問題状況の中で私なりに設定し直して継承・発展させる作業への視点を定めえた、こういってもいかも知れない。