Beijing 2002.5.9.
 「法治」概念と〈市民的政治文化〉
−−「緊急権国家」・「官僚制国家」を超えて−−
  今井弘道(日本・北海道大学大学院法学研究科)

 1 「法治」の実現ということがここ数年の中国において重要な問題になっているが、ある意味でこの問題は、明治維新以来130年以上もの間の日本の近代化の一つのテーマでもあった。しかもそこには、韓国を含めた、日中韓を中心とする東アジアに共通の問題が存在する−−今日ここでの議論は、日本に限定することにせざるを得ないが…−−。  しかし、そのことを論じる際に生じかねない議論の混乱を防ぐためには、先ず第一に、「言葉」の問題に注意をしておく必要がある。「法治」という言葉はさまざまな意味をもっているからである。

 2 
@われわれ東アジアの伝統に即していえば、「法治」という語は、中国春秋時代の「法家」に始まる。そこでは、「法治」という言葉は、人民の反乱を防止し臣民を統治する手段・道具として法を動員するべきだ、それが「徳治」よりも効果的であるとの主張を意味した。
 Aドイツの「法治国家論」の伝統においては、法律を通して統治が行われるのが「法治国家」だという主張が一般的であった。つまり、ドイツ的「法治国家」思想は、「法律」を通して支配が行われるべきことに力点を置き、「いかなる法律を通してか」を十分に問うことはなかった。だから、法律を通して統治されさえすれば、どのような支配も「法治」とされ、ナチスの支配すら「法治」とされることがあった。恣意的な「人治」も「法治」という仮面をかぶりうる、というわけである。
 Bもうひとつ「法治」として理解されうるものに、英米法の伝統の中で確立された「法の支配Rule of Law」の観念がある。それは、簡単にいえば「権力を制約するところの、一切の権力から独立した法」の観念を前提にするものだが、これについてのそれ以上の性格については、後に触れることにしよう。

 3 以上を踏まえていえば、Aの「法治国家」の観念は、本来、官僚制国家のイデオロギーとして成立してきたものであったが、それが@やBの法の観念を前提とする「法治国家」理解を包摂することができる。そしてその場合には、それは、もっとも包括的な「法治国家」の捉え方ということになる。無論、同時にそれは、最も曖昧な捉え方でもあるといわねばならない。

 4 1868年以来の日本の近代化の中では、一般に「法治」という言葉は、この@東アジア的伝統とAドイツ的法治国家論という二つの伝統の中で理解された。そしてつまるところ、非民主的に成立した法律を通しての天皇制官僚の支配がこの「法治」の観念によって正当化された。こうして、日本の近代化は、この意味での「法治」の枠組みの中で、「天皇制官僚」のリーダーシップによって推進された、と見ることができるわけである。そして、その枠組みが今や批判的克服の対象となっている。
 このことに注意するなら、「法治」さえ実現されればそれでいいわけでないことがわかる。もちろん「法律」なき支配は「暴君」支配にほかならず、いかなる意味においても支持しうるものではない。しかし、問題の核心はどのような「法治」かという点にある。

 5 ここ十年ほどの日本においては、「官僚政治」を「市民政治」に転換しなければならないという議論が重要な意味をもってきた。しかもその「転換」は、依然として現代の課題であり続けている。  この議論は、「法治」という問題に即していえば、中国の「法家」思想とドイツの「法治国家論」の伝統の中で理解された「法治」的体制が、明治以降(1868年以降)の日本の「官僚政治」の法的基盤として働いたことを批判的に反省し、それを克服しようとする意味をもっている。その意味で、これまでの日本の「法治国家」体制は、法律を通しての官僚の支配の体制であり、「法治国家」のあり方として全く不十分なものだったということが、事実上、国民的次元で意識されてきたわけだ。
 ここには、私の言葉で言えば、〈官僚的政治文化〉から〈市民的政治文化〉への転換の問題がある。しかし、そもそもどうしてこのような問題が生じたのか。


 6 ここで次のことを考えておく必要がある。それは、
 @法を国家目標を実現するための道具と見るか、
 A人々の非支配的な相互関係を規律するルールと見るか、
 に従って、対立しあう「二つの法観」が成立する、ということである。以下、便宜上@を「支配のための道具的法観」、Aを「非支配的なルール的法観」と呼ぶことにしておこう。

 7 Aの「非支配的なルール的法観」を具体的に理解するために、例えば交通法規を考えてみよう。それは、人々にそのルールを守ることだけを要求する法である。それを守ることによってどのような目的を追求するのかは、個々人の内心の問題であって、法とは無関係である。だから、そこに支配原理は働かない。
 こうして、交通法規は、人々の交通のマナーを通して「交通の安全」という状態を確保し、人々の道路上での交錯を調整することによって、個人個人がどこへ行きたいのかの自発的な欲求を適切に実現することを可能にするものであって、人々を支配することを通して特別な国家的・行政的目標を実現するためのものではないことがわかる。それは、人々の非支配的な相互関係を規律するルールなのである。
 なるほど、そこに「ルールの支配状態の実現」という目的があるといえなくもない。だが、「ルール的法観」の意味の法は、「ルールの支配状態の実現」を通して、それを超えた他の具体的目的の実現を目指しているわけではない。この意味で、それは、法を統治者の支配の道具と見る「道具的法観」とは原理的に異なったものなのである。

 8 これに対して、@の「支配のための道具的法」は、政治的・行政的権力が何らかの実質的な目的を追求する時に、人々をその目的実現のために動員するために、道具的に用いられる法である。それは個々人の目的よりも法の目的の実現を優先させる。それゆえに、その法は、個々人に対する支配的機能を営む。

 9 例えば民法の諸規範は、本来はAの性格をもつ法である。権力目的がそれに意図的に寄生させられたりするのでない限り、そこに支配的な性格はない。それは個々人の自由を、他者の自由と両立させながら確保するためのルールである。そこで人々を支配しているものがあるとしても、それは「人」ではなく「ルール」だけである。ここに「法の支配Rule of Law」と呼ばれる事態が成立する。
 このような「法治」状態とは、ただ単に「人治」ではないというだけではなく、「法の支配」によって「道具的法」の支配をも制約し、人々の自発的で自由な行為を公正な形で保障しようとする秩序なのである。

 10 ここから飜って考えてみれば、明治以降の日本の「官僚政治」のもとでの法律は、「富国強兵」という国家目標を実現するための、官僚の国民に対する命令のシステムという道具的意味をもつものであったことがわかる。つまり、@の「支配のための道具的法」の体系だった。そして、その法体系は、「富国強兵」という「国家目標」を実現するための「手段」という意味をもっていたのである。  ここでは、すべてのものの価値は、この目的と手段のシステムと適合的かどうかで計られた。従って、人民の自由や権利は、国家目標と一致しない場合には、容赦なく否定された。「国家目標を実現するための法律」は、こうして「人権」に優先することになる。
 この点について、今一歩立ち入った議論をしておこう。

 11 日本の「明治国家」は、欧米との遭遇、圧倒的に優位な武力を背景とした開国の強要という国家と民族の存亡に関わる「危機状態」の中で、その危機の克服を第一義的使命として成立した。その意味で、「明治国家」は「緊急権国家」として成立したといえる。

 12 ところで、「緊急権国家」とはなにか。その意味を理解するためには、「国家緊急権」の理解が前提となる。
 「国家緊急権」とは、
 @「国家および基本法秩序(ひいては国民生活全体)の維持・存続を脅かす重大な非常事態に対処する」という《目的》のための《手段》として、
 A「一時的に平時法制を超えた権限」を
 B「政府(および/または軍事部)に委任し」、
 C「これに特別措置を可能ならしめる」ための「例外権力」[典型的には、「戒厳令」−今井]のことをいう(小林直樹『国家緊急権』(学陽書房 1979)、25頁)。
 そして、「緊急権国家」とは、
 @国家が対外的/対内的に持続的な危機状態にある時、
 Aそれに対処しその危機を克服するという〈目的〉のための〈手段〉として、
 Bこの「国家緊急権」の発動を常態化し、それを法体制に浸透・内在化させた国家のことをいう。

 13 「緊急権国家」の最大の存在理由は、こうして、持続的な非常事態に「合目的的」に対応することにある。かくして、「緊急権国家」の法秩序においては、常にこの〈目的〉が最大限に優先される。その結果、例えば「人権」は、その「合目的性」のために否定されるか、最小限に切り縮められる。「人権」は、この意味での「目的」に対しては、反機能的なものだからである。
 9-11以降のアメリカにおいて、このような「緊急権国家」化の傾向が、従って「人権」を制限しようとする傾向が見られたことは、世界中の前で明らかになったところである。その意味で、緊急事態における「国家緊急権」の発動と「緊急権国家」化の傾向は、国家主権一般に内在するものであって、「人権」の国アメリカにおいても、結局のところは「人権」を凌駕するものであることが明らかとなった。

 14 「緊急権国家」としての「明治国家」は、「危機状態の克服」、そのための「強兵の必要性」、更にその「強兵」を可能にする「富国の確立」といった手段連関、国家と民族の存立と維持という究極目的に収斂する手段連関を、「人権」を制限してでも貫徹させなければならなかった。
 しかもそのような事情は、単に明治国家に対してだけではなく、危機状態におかれた国家に一般的に妥当することである。現に多くの発展途上国は、経済建設の過程で、「緊急権国家」体制を構築し、また「人権」との原理的な緊張関係に立った。その意味で、「緊急権国家」は、そしてその根柢に存する国家の主権性は、先に述べた意味での「法の支配」とは−−従ってまた「人権」とは−−、原理的な緊張関係に立っている。

 15 東アジアにおける「人権」問題がしばしば問題にされるが、東アジアの文化は本来的に「人権」尊重の念に乏しいという議論は必ずしも説得的ではない。というのは、東アジアの中で時期的には最も早く西洋の憲法思想に触れた日本においても、このような「緊急権国家」としての性格を維持する必要があったことから、「人権」を尊重することができなかった、という事情があったからである。韓国においても中国においても、異なった歴史的背景の下においてであれ、同様の事情が存在したことはいうまでもない。
 「緊急権国家」体制の不可欠とする事情を突破することができてはじめて、固有の「人権」形成の条件が整えられることになる。そして、現在の東アジアは、そのような条件をいま徐々に確保しつつある。無論、そこでこれから発展して行くであろう人権の保障が西欧のそれの模倣となるのか、それとも固有の原理や人権を実現していくことになるのかは、一義的に決定することができないし、またする必要もない。このことを念頭においた上で、日本の問題に帰ろう。

 16 今や、日本の経済や文化の発展は、官僚の上からの命令によって確保することが不可能になった。人民の自発性・創意性にこそ、経済や文化の発展の原動力があることが意識されてきた。
 「追いつく」ことが国家目標である場合には、西欧の模倣が重要であった。そしてそのためには、@上からの「国家目標」の設定、A西欧の模倣の前提となる知識の輸入、Bそのための学問と大学、Cそして上からの行政的「統制」が不可欠である。
 しかし、今の日本では、上からの「国家目標」の設定も、模倣も、意味をもたなくなった。先進国の成功からも学ぶことも、その失敗から学ぶこともなくなってきた。人民の自発性・創意性なしには、経済や文化のこれ以上の発展がありえないことが明らかになったのである。その人民の自発性・創意性の中から、思いも掛けない斬新なアイデアが湧いてくる。そしてそれに対する人々の支持が社会の発展の原動力となる。それが新しい歴史の形成力となる。

 17 ところで、人民の自発性・創意性は、人民の自由で自発的な行動−−場合によっては新奇な行動−−なくしてはありえない。従って、人権・権利の保障なしにはありえない。そのことを可能にする法システムなしにはありえない。
 そのような要請は、当然のことながら、従来の上からの「国家目的」の設定とそのための手段としての法による上からの「支配」と対立することになる。また、それとの関係で温存されてきた古い慣習と対立することになる。ここ十数年の日本で痛感されてきたのはこのことであった。そして、その対抗関係の克服に、いまだ日本は成功していない。
 法思想的には、そのような問題との関連において、「官僚」支配とドイツ的法治国家の意味での「法治」の克服が、日本において必要となってきたのである。「官僚的政治文化」がその正当性の根拠を最終的に喪失したからである。

 18 しかし、経済や文化の発展の原動力が人民の自発性・創意性にあるから人権・権利が必要だという主張は、所詮は経済主義的・功利主義的な主張であって、本来の人権・権利の尊重の主張になっていない。個人としての人間は、それ自体が目的であり、そのような尊厳をもつものとして尊重されなければならない。このような思想が人権・権利の尊重の根柢にあることが忘れられてはならない、このようにいうべきであろう。
 しかし、少数者を尊重し、新奇な行動をとることを保障し、異質な者との共存を可能にする社会こそが、次々と旧弊をうち破り、社会を停滞から救い出し、新しい可能性を常に新たに芽生えさせる真にダイナミックな発展の可能性を秘めてもいることもまた、事実なのである。

 19 カール・マルクスは、〈ブルジョア社会の権利・人権〉は、市場経済的功利性に立っており、結局は人間の尊厳を否定するものであるという理由から、それを否定した。そして、市場経済と資本の運動論理に解消されてはならない人間の尊厳の実現の必要性を主張した。
 私は、この意味でのマルクスの主張には正しいものがあったし、その核心は亡びていない、と考えている。だからといって、国家中心主義的な、上からの統制によって追求される「社会主義」が正当化されていいわけではないこともいうまでもない。
 本来の人権・権利の尊重のためには、自由な社会が、従ってまた市場社会が実現されなければならない。しかし、市場社会が個人の尊厳を踏みにじる場合も少なくない。市場社会のすべてが正当化されるわけではない。このことは、市場が過度に評価され過大な期待が寄せられる時代には、特に強調しておかなければならない。この市場社会の二面性を的確に理解することに、現代の大きな法哲学的問題があるというべきだからである。

 20 ともあれ「官僚」の上からの指導による近代国家建設という段階が批判的に克服されなければならない。この問題は、現在の日本で緊急のものとなっているが、日本は、それをまだ完全に解決してはいない。
 ここに英米法の伝統の中で確立されてきた「法の支配Rule of Law」の観念が現代の日本に対してもつ意味がある。そこでこれについては、既にいくつかの論及をしたが、ここでそれをあらためて取り上げることにしよう。

 21 「法治」として理解されるべき最も重要な観念に、英米法の伝統の中で確立されてきた「法の支配Rule of Law」の観念がある。繰り返しを避けて簡潔に云えば、支配者/立法者の意志をも抑制するような「法」があり、それが社会を支配するべきだ、という思想である。
 この「法の支配」の観念は、ただ単に専制的な支配者の意志を制限するだけではない。民主的に成立した多数者の意志をも全能のものとは認めず、それも一定の基準に、つまりこの「法」に服さなければならない。それはこのような主張を含んでいる。
 この「法の支配」の意味での「法治」の観念は、中国の「法家」思想とドイツの「法治国家論」の伝統の中で理解された「法治国家」論の弱点を批判する上で重要な意味をもっている。

 22 ところで、「権力を制約するところの、一切の権力から独立した法」というこの観は、疑問の余地なきものとはいえない。そこにはある重大な問題がひそんでいる。
 現実的な一切の権力から独立した法があれこれの権力を実効的に制約するなどということは、実際にはありえない。事実、この「法の支配」の意味における「法」も、実際には、結局は法曹身分に法形成へのリーダーシップを与えるという問題点をもっている。
 「法の支配」は、伝統的には、裁判を通しての法発見の蓄積を通して確立されるもの、と考えられてきた。そして法曹権力が行政や立法の権力を制約しうる時、「法の支配」が語られてきたのである。とすれば、そこには、法曹階層を特権化しようとする傾向がひそんでいるといわなけれらばならない。

 23 ところで、ここにはもうひとつの問題が絡まっている。それは、この法曹支配としての「法の支配」は、伝統的には、主として市場秩序に即して発展してきたということと関連している。この点に少し触れておこう。
 「市場秩序」は、支配・干渉の排除を求める。その傾向は、問題が生じたとき、行政権力の介入によってではなく、裁判を通しての、問題の市場秩序内在的な解決を求めるという態度となって現れる。そこに「市場秩序」と「法の支配」の親縁性がある。
 しかし、現代の「市場秩序」は巨大な科学技術に支えられた産業社会秩序に立脚することによって可能になっている。だから、その「市場秩序」は、人間の健康や自然環境を破壊するという危険性を伴っている。また貧富の格差の増大を招く要因を抱えてもいる。むやみな市場原理の支配が、かえって健全な市場秩序を破壊し、独占企業の支配を招く恐れもある。人心を荒廃させたり、保存されるべき伝統的な文化を破壊したりする危険もある。
 その場合、市場、あるいはその背後にそびえる産業社会の問題は、単に市場内在的に解決することができなくなる。

 24 しかし、このようにして発生した問題に対して国家と官僚を通して上から対処するだけでは、問題は逆戻りしてしまう。再び国家主義が賛美されることになってしまう。だから、そのような危険に対しては、それに対して批判的に働く市民の健全な規範意識の交流を可能にし、それを働かせるような場が必要となる。そしてそれを裁判につながるようにすることが必要となる。そのような場と回路とを保障するなら、市民の規範意識は、必ず健全な発展を遂げる。そして、市場と産業社会の問題に対応しうるような規範意識を供給することができるようになる。そのことは、世界のさまざまなNGOやNPOをはじめとする市民運動の発展が証明してくれている。
 つまり、「法の支配」をただ単に市場原理の法秩序と見るのではなく、市場原理をも相対化しうる市民的な規範意識がその弊害に対処するものとしても働く可能性をそこに組み込まなければならない。こうして、「法の支配」とは、現代においては、「市民的規範意識」の不断の形成と発展の中で日々形成されていく法意識の支配という意味をもつべきだ、と考えられるべきであろう。

 25 ここで、日本の1960年代以降の経済成長の中で、当時「公害」と呼ばれていた環境破壊が深刻な問題となった時のことを振り返ってみよう。その当時、「公害」の被害者達が損害賠償を求めて多くの裁判を起こしたのだが、環境保護を求める多くの市民運動が直接・間接にその被告を支援する闘争を展開した。
 その裁判の中で、環境破壊を続ける産業やそれを黙認する政府の産業政策、産業中心の消極的な環境政策に対する批判が展開された。それに環境運動をしていた市民やそれに同調する市民の声がそれに唱和して、さまざまな言論活動が展開され、またそれに刺激を受けて、数多くの環境破壊の事例が掘り起こされ、訴訟に持ち込まれていった。
 その中で、近代的な科学技術文明に対する原理的な批判も行われていった。このような状況の中で、日本の世論が全体として環境問題に目を開いていった。そして新たな規範意識を形成していったのである。それは、未だに不十分なものではある。しかし、第一歩がそのような市民的規範意識の活性化の中から踏み出されたものであることは否定できない。

 26 この過程を分析すると、次のようなことがいえるだろう。この運動は、環境破壊の被害者が法的に救済を求める法廷闘争と、政府や産業界の従来の産業政策・環境政策を批判する市民運動が結合して成立したものだった。そして、このような例は、まだまだ増やすことができるであろう。
 法的局面に限っていえば、そこで重要な役割を果たしたのは、新しい権利−−「環境権」という言葉に集約されるような、これまでの人権論では認められていなかったような権利−−を構想し、それを通して裁判闘争にリーダーシップを発揮してきた弁護士や法理論家であり、またそれを承認して原告勝訴の判決を下した裁判官だった。このことはその通りである。
 しかし、その人達が大きな力を発揮し得たのは、結局は、環境問題に強い関心を示し、さまざまな運動を展開していった幅広い市民が成立し、成長しはじめていたからであった。そして、裁判闘争と市民運動との結合が、更に広範な市民層の環境問題に対する関心を押し広げていったからだ。それが更に市民の成長を促すという循環を形成していった。そのような事態の背景には、市民の自発性を基礎にした多元的な社会の、日本における一定の成熟があった。
 このような幅広い背景が存在したがゆえに、環境問題をめぐるさまざまな判決は、政府の環境政策の大幅な変更を迫る意味をもった。新しい人権観念を形成し定着させていく契機となった。そして、それがその後の日本の環境政策の分岐点としての意味をもつことになったともいえるのである。

 27 このような例は、ある意味で、日本において、「法の支配」の意味での「法治」が現実化しはじめた日付を刻印している、ということができる。訴訟を通して市民社会の中で成熟していった市民の規範意識が市民運動や法廷闘争を通して明確に定式化され、それが社会をも政治権力をも抑制しはじめたという意味における「法の支配」である。
 ここから考えてみると、「法の支配」を裁判官の活動に焦点をあてて考えることは一面的だということが了解されるであろう。裁判官の役割は、幅広い市民の働きに支えられて始めて可能となったものだというべきだからである。

 28 このような例から明らかなように、巨大な科学技術に支えられた産業社会秩序に支えられている「市場秩序」が人間の健康や自然環境を破壊するという危険性に対処するためには、市民運動が活発なものになることが、重要なカギとなっている。それだけが市民の健全な規範意識を養成し、行政への依存心を克服させるのである。そして、その市民の規範意識こそが、行政の実現するべき政策目標を指し示す。このことは、日本のここに三十年の経験の中で明確になったことでもあった。
 つまり、現代の「法の支配」は、ただ単に市場原理の法秩序と見てはならない。そこには〈市民的政治文化〉が組み込まれなければならない。そして、市場も最終的にはこの〈市民的政治文化〉の中に組み込まれなければならない。いま、このことが明確になってきているのである。

 29 今、日本では、司法改革と法曹教育の改革をめぐるが行われている。これについて立ち入った議論をすることはできないが、そこには、官僚主義的支配を骨格とする従来の「法治国家」体制を変革しようとする動きがある、と見ることができる。そして、それは、〈市民的政治文化〉が徐々に成熟する中で発想されてきたものだ、と見ることができる。このような傾向を、私は、更に明確に押し広げていく必要がある、と考えている。

 30 多数者の民主主義的意志は、政治的支配の唯一正統な担い手だが、それすら、政治的権力の担い手である限り、権力を乱用したり、暴走したりするする可能性をもっている。従って民主主義的多数意志さえも、場合によっては抑制されるべきだとする観念には、非常に重要な意味がある。しかし、その「抑制」が最終的に裁判官に委ねられるとする「司法国家」の主張にも、問題はあるだろう。私がここでこのように主張することの意味も、以上のような問題連関を念頭に入れることによって、了解されうるのではないだろうか。

 31 私は、〈市民的政治文化〉という言葉をしばしば用いている。市民の活動や規範意識を背景にし、政治は最終的にはそれによって統制されるべきだ、ということを意味する言葉として、である。この言葉に示されるような市民社会の成熟を、私は主として環境問題を例にとって話してきたが、ただ単にその問題に対して有効であるだけではない。社会福祉と弱者の救済のためにも有効な枠組みである。  今日本では、社会福祉を国家が担うべきものと考えることをやめ、市民的友愛の精神の発露としてのヴォランタリー運動と市場原理との競合の中で、あるいはその組み合わせの中で、それを担おうとする動向が発展し始めている。この可能性をどれだけ現実のものにするのかに、そしてその中で生じて来るであろう問題にどれだけ有効に対処しうるかに、これからの社会福祉の中心的課題があるということができよう。

 32 歴史に目標を設定して、それを党や政府の上からの指導によって実現していくという発想は、現在では政治的に疑問視されているだけではない。それは、哲学的には、より根本的に疑問視されている。法的にいえば、それは「道具的法」と離れることができない。
 それはともかくとして、当面するわれわれにとっては、現実の具体的状況の中に存在する問題を発見し、その問題を漸次解決していくこと、しかもその問題解決が、解決される問題よりも大きな問題を生み出さないようにしていくこと、このような発想が重要だというべきだろう。そして、現在では、国家的・官僚主義的な上からの問題解決は、解決されるべき問題よりも大きな問題を生み出している。  このような問題状況を一歩踏み越えるために必要となるのが、上で示したような意味における「法の支配」と〈市民的政治文化〉とであろう。

 33 私は先日上海の「社区」と呼ばれる組織を見た。そこには、上からの指導と下からの市民の自主性との二つの要素が絡まっているように思われた。それが、完全に市民の自主性と自発性によって運営されていくならば、そこにはきわめて大きな可能性がある、私にはこう思われた。そのためには、中国社会の全体における「官僚的政治文化」から「市民的政治文化」への転換が必要だろう。  この問題が現実の問題として提起されれば、そこには、中国型の新しい市民的文化の可能性が芽生えてくるということができるだろう。ただ、今はまだそれは、「官僚的政治文化」の庇護のもとにおかれているように思われた。その段階を越え出ることができるかどうか、そこに注目すべき大きな焦点があるというべきだろう。

 34 私がこのようなことをいうのは、中国に干渉したいからではない。繰り返すが、そこに、日本にも韓国にも共通する問題があるからである。その意味で、その成否は、日本にとっても韓国にとっても他人事ではないのである。
 この意味では、われわれはいま、歴史的にはじめて、同じ隊列の中で、同じ問題の解決に取り組もうとしている、といえるのかも知れない。

 35 私は、学生時代からマルクス主義者だった。労働者階級の階級闘争こそが、社会の矛盾を解決し、新しい社会を切り開く原動力だ、と考えていたわけである。そして、そこに明治時代以来の硬直した官僚的政治文化を打破する可能性を見ていた。しかし、徐々にマルクス主義の知的硬直性・政治的硬直性に飽き足りなくなっていた私は、上で述べてきたような市民的なエネルギーの発露に目を開かれる思いをした。いわばこうして、私はマルクス主義者から市民主義者となったのである。「社会主義者」から「市民社会主義者」となったわけである。このような経緯を辿ったかつてのマルクス主義者は、日本では決して少なくないことも、事実である。

 36 日本には、現在さまざまな難問が山積している。私は、カール・マルクスの思想に対しては依然として高い評価を与えており、尊敬の念を失っていないが、現在の問題をマルクス主義が解決しうるとは考えていない。だが、マルクス主義以外の思想的教義がそれを解決しうるとも考えていない。  それを解決しうるのは、市民の力であろう。市民のエネルギーを上からの統制から解き放つこと、市民の自主解決能力を養成していくこと、そしてその市民の自主解決能力を発揮しうるような法的枠組みを作っていくこと、そのことこそが、問題解決のための最適の方法であり、それ以外にはありえない、と考えている。

 37 近代日本は「欧米に追いつき追い越せ」ということを国家目標として、ここ130年を駆け抜けてきた。そこには、数々の蹉跌もあった。しかし、今やわれわれは「追いつき追い越す」べき目標を持っていない。  その中で重要なことは、市民の自主的問題解決能力である。その能力によって、一つ一つの当面する目標を解決していくことである。その問題解決能力が、歴史の一齣一齣を進めていく。もはや、かつてのマルクス主義が掲げたような大目標、人々を強要して一つの目的へと動員していくような大目標は、不要になっている。市民の自主的問題解決能力能力によって、一つ一つの当面する目標を解決していくこと、いまやそれが歴史の原動力となっている。私のいう〈市民的政治文化〉には、このような観念も含めて考えられている。そして、今や中国もこのような段階に入りつつあるのではないだろうか。  その時に必要なの「場」が、その市民の問題解決能力を適切に発揮させるような制度的枠組みである。そして、それとの関係においてこそ「法治」ということが考えられるべきなのではないか。「法治」というものは、このような〈市民的政治文化〉の法的側面として理解されるべきものなのではないだろうか。
 無論、この〈市民的政治文化〉の問題は、東アジアに固有の問題側面をもっている。いわば今やわれわれは、歴史上はじめて、ヨーロッパ中心主義でない市民文化をもとうとしているのである。私は、ここに、今後の東アジアの歴史的命運を決定する問題が存在している、と考えている。