「主権的国民国家」の超克と市民的政治文化
−−Jose Ortega y Gassetの『大衆の反乱』に即して−−
今井弘道

 1. 日本において経済が大きく発展したのは1960年代以降だが、その時それと関連する重要な思想的・理論的問題として「大衆社会」論が提起され、流行の論題となった。経済発展が農村部などの旧世界に潜んでいた人々を都市に連れ出し、都市化の進展と社会の大衆化を促進したからである。現在では、この「大衆社会」問題は〈市民的政治文化〉の可能性問題として理解され、「量としての大衆」の「質としての市民」への転換に関心が集まっている。ここには、日本・韓国はもとより、今や爆発的な大衆の登場が見られる中国にとっても焦眉の課題があると見てよいであろう。
 ところで、この「大衆社会」問題が1920年代のヨーロッパで提起されたときには、ファシズムの危険性との関連に主たる関心がおかれていた。この危険はいまだ完全に過去のものになったわけではない。ここには@「大衆社会」から「ファシズムへ」とA「大衆社会」から〈市民的政治文化〉へという二義的可能性が潜んでおり、この二義的可能性は依然として現代的な意味をもっているからである。
 それだけに、Aの可能性−−「大衆社会」にひそむ〈市民的政治文化〉への可能性−−を現実性に転換させていく課題は、@の可能性をふさぐという意味をももっており、その課題を担おうとする者に課せられた責任には大きなものがある。現に、9・11の同時多発テロ以降のアメリカでは急激なナショナリズムの高揚が見られ、異質者の排除を求める排外主義的な大衆意識の高揚というファシズムにつながりかねない独善が顔をのぞかせている。「国益」ゆえの「国家の論理」の優先から−−例えば自国内の少数派の弾圧のための有利な地歩が得られるとの判断から−−アメリカを支持した諸国においても、類似の傾向が見られる。二義的可能性は依然として現実的なものとして存在しているのである。
 私は、このような点にも注意を払いながら、Ortegaの名著『大衆の反逆』に注目し、それに批判的な吟味を加えてみようと思う。そこでは、「大衆社会」が孕むこのような二義的可能性の問題が、〈ヨーロッパの没落〉と〈主権的国民国家の終焉〉とに即して論じられている。その議論を、「大衆社会」から〈市民的政治文化〉への可能性の現実化という実践的課題に焦点をおいて読み解いてみようというわけである。そのことは現代東アジアの法哲学的課題の一端に鋭く触れることにもなる筈だからである。

 2. 20世紀の国家思想史は、〈主権的国民国家の終焉〉論の生成と展開という観点から総括可能な一面をもっている。例えば、20世紀前半を代表するCarl Schmittの国家学は、〈ヨーロッパ近代〉の隘路への逢着とその没落に、また反乱する大衆のファシズム化ということと直接に関わるものであった。例えば1929年の論文「国家倫理と多元的国家」を、Schmittは〈主権的国民国家の終焉〉論から論じはじめて、こういっている。
 1915年のErnest Barkerの論文"the discredit state(信頼喪失した国家)"の表題は、今日の欧米での支配的な「国家の評価」を象徴している。「外交的権威」や「内政的秩序」が危機的事態にあるわけではない英米などの強国ですら、伝統的な国家観念に厳しい批判が浴びせられているわけである。フランスでは、サンディカリストが既に1907年に「国家は死んだ」との命題を掲げた。ドイツでは、ビスマルク帝国の崩壊と国家・政府の観念の失墜以来、危機は公然化している。そして、〈主権的統一体〉という旧来の国家観念の破壊を試みる国家論・国際法の著作は枚挙しきれぬほど多数に上る。
こうして、国家学の領域において、今世紀初頭より主権的国民国家が衰退から終焉への局面に入ったとの主張が公然と現れ、第一次大戦以後は支配的なものにすらなった。国際関係を自己完結性と至高性をもった主権国家群の併存・拮抗からなるシステムとしての〈ウェストファリア体制〉に亀裂が生じ、グローバルな政治が胎動しつつあることが意識されはじめたのである。同時期、哲学では〈西欧の没落〉が語られていたが、以上の議論はそれの国家学ヴァージョンと見ることができよう。
 ところでSchmittのこの「国家倫理と多元的国家」の執筆意図は、「主権国家終焉」論の中でも最も重要な意味をもつ「多元的国家論」−−それはラスキに人格的に代表される−−を批判し、「主権国家の復権」を国家学的に強調するところにあった。その意図はやがてナチスと結びつくこととなった。Schmittは、「民主主義」と「大衆」の関係を〈ハイル・ヒットラーを叫ぶことにおいてルソー的な一般意志を表明する均質的で一体的な国民〉という観念によってナチス的に統合し、それを梃子に「主権国家の復権」を構想したのである。

 3. Ortega(Jose Ortega y Gasset)は、ヨーロッパの没落と主権的国民国家の終焉が同時的に語られるこのような状況の中で、ヨーロッパの復興のためにむしろ〈主権的国民国家の終焉〉論を積極的に承認した。Schmittとは反対に、ヨーロッパの主権的諸国家はもはや命運が尽きたと見て、それをいわば「ヨーロッパ合衆国」へと統合し、そのことを通してヨーロッパの復興をはかろうとする展望を提起したのである。
 「ヨーロッパは支配をやめた」。しかし「ヨーロッパ」に代替する能力が他にない限り、その支配の終焉は「歴史の世界」の「混沌状態」でしかない。この「悲観的な結論」を避けようとすれば、現在の危機をむしろ「ヨーロッパを文字通りヨーロッパたらしめる」ための、いい意味での危機と理解しなければならない。つまり、主権的諸国家の併存からなるヨーロッパは限界に達したが、それは〈統一的な政治的・経済的共同体としてのヨーロッパ〉の可能性へと踏み出すものと捉え返すべきだ、というわけである。
 この議論から明らかなように、Ortegaはヨーロッパ中心主義の立場に立ち、ヨーロッパ以外の文化に指導的な能力を認めない。しかし、この点を留保しヨーロッパ中心主義を越えた視点から見れば、〈主権的国民国家の終焉〉を承認した上で、そのことと〈ヨーロッパの没落〉とを統一的に理解することがいかなる未来を切り開くことになるのかを語ろうとするOrtegaの観点は、現代の東アジアの立場にとっても重要な意味をもっている。しかもOrtegaのこの展望は、「反乱する大衆」の批判を重要な構成要素としていた。そのことを勘案すると、その展望は、「反乱する大衆」を不断に新たな秩序形成をめざす「市民」と化することによって可能になるもの、と考えられていたことがわかる。
 このOrtegaの展望はEUという形で実現を見た。Ortegaの「大衆」批判はEUという形での「主権的国民国家」の克服・「ヨーロッパ合衆国」の実現という文脈の中で現代とつながっているのである。この議論は、またSchmittと対立する多元主義と親縁性をもち、その点からも現代市民論の核心的な論点に関わっている。
 現在の東アジアでは、「大衆の反乱」が、Ortegaの眼に映った1920年代のヨーロッパにおける「大衆の反乱」以上の規模と速度とで進行している。このような事態を見るとき、このOrtegaの展望には、現代の東アジアに対してはなはだ示唆的である。その意味でそれは古びることのない議論だといえるのではないであろうか。

 4. このようなわれわれの観点から、Ortegaの議論の骨格を再現しておこう。
 @第一次大戦以降のヨーロッパに、「みずからの生存」の管理能力をもたず「社会を支配する」能力をもたない「大衆」が氾濫し、あらゆる局面で「社会的勢力の中枢」に躍り出た。「専門職」知識人も、現代では狭い知的活動の中で凡庸化した「大衆」の一員にすぎない。
 A「大衆」の登場・氾濫・反乱は、人間の「生命力と可能性」の「増加」を意味している。「世界と生」がこうして大きな可能性に開かれたのに「凡庸な人間」たる大衆の「心は閉じ」られている。そして「慢心した坊ちゃん」のように「凡庸の権利」をあらゆる「公共的な生」に押しつけている。
 B「生の減少」という「絶対的な没落」があるわけではない。没落しているのは、実際にはヨーロッパの「国家」と「文化」という「歴史の二次的な要素」なのである。それらは新たな「生命力と可能性」の更なる発展を保障しうる容器ではなくなった。かくして「大衆の反逆は…人類の新しい、前例のない組織への移行でもありうるが…人類の運命の破局でもありうる」。その意味で、現代は「《危機の時代》」である。
 C現代の「最大の危険」は「国家」にある。その矮小さは「潜在力の規模」と均衡しておらず、「衰退、無力の感覚」の源泉となっている。「知的生活」の面でも、今日のすぐれた知識人は誰も自国内での「息苦しさ」を覚えており「自分の国籍を絶対的な限界」と感じている。ヨーロッパは「伝統的な国家観念」に固執したために死んだ「偉大な文明」の一例になろうとしている。
 D「国家」の危険は「国家によるすべての…自発性の吸収」としてあらわれている。しかも大衆は国家に依拠し一体化している。かくして「社会」は「奴隷化」し、「生」は「官僚化」される。「民族」は「国家」という「機械」を養う「肉」となる。この危機の時代に、「理由」に基づく「正当化」と「説得」の営みを拒否して「ひたすら自分の考えを押しつけるタイプの人間」=「大衆」を組織したのがサンディカリズムやファシズムである。
 Eあらゆる「共存形式」は、「会話から科学を経て議会にいたるまで」、「客観的な規範の尊重」を意味している。この「共存形式」に自由民主主義の核心があり、近代の文化と国家はこのような「共存形式」を通して克服されねばならない。そのために必要なのが〈知的指導層と大衆の有機的結合〉であり、それを通しての〈政治的共同性の脱国家化と「ヨーロッパ合衆国」への国家規模の拡大〉である。  F政治的共同体を「血縁関係」などの自然的同質性を基礎にした「共生関係」と見るのは誤りだ。「血や言語が国民国家をつくる」のではない。逆に国民国家が血や言語の差異をなくしてきたのである。かくして政治的共同体は「宿命的」で「改革不能」な「伝統的共同体」ではなく、「行動する未来の共同体」である。政治的共同体とは「自然社会を越えたもの」であり、「混血的」で「多言語的」である。自然的なもの・所与的なものを政治的共同体の基盤として強調することは、このような開かれた政治のあり方を拒否するという意味で反「政治的」である。
 Gそれは、同時に政治的共同体の多元性の強調につながる。「われわれの想像している超国家(=ヨーロッパ合衆国−今井)では、現在の複数性(=多元性)がなくなることはありえないし、なくなってはならない。…純粋に動的な国家観念は、今まで常に西欧の生命であったあの複数性が永久に活性を持ち続けることを要求するのである」(539頁)。

 5. 以上のようなOrtegaの議論を、私は、既に示唆したように〈市民論〉として読むことができると考えている。その時、決定的に重要なのが、「政治的共同体」形成に二つの原理があるとする理解である。つまり、(1)政治的共同体を「血縁関係」などの自然的同質性を基礎にして形成される「共生関係」と見るのか、(2)そのような〈自然性〉の克服をめざすところに成立する「共生」への合意と共同行動をその基礎と見るのか、この二つの原理を想定した上で、Ortegaは、「政治的共同体」の革新は常に第二の原理によって達成されてきたと考えている。例えば、地中海世界における都市国家の成立は、「地質的・植物的」な自然的「宇宙」のなかに「市民的空間」を形成し、「一緒に住もうとする合意」を確立することによって成立した。「自由民主主義」の起源には、「敵とともに生きる! 反対者とともに統治する!」という寛容への決意があった、というわけである。
 Ortegaは、「手続き、規範、礼節、非直接的方法、正義、理性」は「文明」のために「創造」されたといっているが、それら一連のものは「共生への意志」を基礎におくものと見てよい。そのような「共生への意志」をもち、それら一連のものを創造し、継承し、再創造しようとする人間こそが市民なのである。このことをOrtegaは、「文明civilization」は《civis》つまり「市民」という概念に起源をもっている。「都市、共同体、共同生活」が可能になるのはこの《civis》を基礎としてである、と表現している。これらの「手続き、規範、礼節、非直接的方法、正義、理性」には「隣人を考慮に入れ」、それを「極限まで押し進め」ようとする「決意」が示されている。それを集大成したのが「自由民主主義」である。
 だから、Ortegaにとって大切なことは、「凡庸な人間」たる大衆の「心」の「閉鎖」性を開き、大衆を自然的同質性を基礎にした「国民国家」から解き放ち、「ヨーロッパ合衆国」へと向かわせることであった。そのことによって、「大衆の反乱」は肯定的な方向を指し示し、「主権的国民国家」の危機は「主権的国民国家」の克服を通して克服され、ヨーロッパの没落はその復権へと向かわせられる、というわけである。
 ここでわれわれは、この「超国家」では、現在の複数性(=多元性)がなくなることはありえないし、なくなってはならない。「純粋に動的な国家観念は、今まで常に西欧の生命であったあの複数性が永久に活性を持ち続けることを要求する」というOrtegaの言葉を思い出そう。ここでは、Ortegaのこの展望は、Schmittが宿敵のように考えていたイギリスの多元論とつながるところがあることを示唆している。しかし、ここでこのような思想史的・原理論的次元の問題にこれ以上立ち入ることはできない。
 もし今Ortegaが現在のEUを見たら、彼はそこに自らの思想の完成形態を見て喜ぶであろうか。否、むしろ彼は、それを永続的な過程のほんの第一歩と見るのではないであろうか。

 6. ここ十数年来、日本においては、市民運動がきわめて重要な意味をもつに至った。私は、その重要な意味に着眼して、〈市民的政治文化〉という言葉を作った。西欧列強に開国を強要されて以来の日本は、国民的存亡の危機を、富国強兵のスローガンのもと、官僚の上からの急速な国民国家の形成によって切り抜けようとしてきた。そのことによって日本には典型的な〈官僚的政治文化〉が成立した。〈市民的政治文化〉という概念は、この〈官僚的政治文化〉に対抗し、それを克服するべき方向性を指し示すものとして提起したものだったのである。
 ところで、日本のこの〈官僚的政治文化〉は、天皇を頂点におく〈家族的国家観〉と親和的なものであった。この〈家族的国家観〉は現在の北朝鮮の金正日体制と大きく類似した一面をもつが、ともあれこのような天皇を頂点におく〈家族的国家観〉と〈官僚的政治文化〉との重畳関係は、儒教的イデオロギーの日本的現れとしての意味を色濃くもっており、その意味で東アジア的特質を示していた。
 このことを念頭に置いて考えれば、日本における「大衆」の登場は、一方では〈家族的国家観〉が成立するような血縁的・地縁的基礎をもつ政治的共同体を乗り越える可能性を示しながら、他方ではそれがファシズムという新たな国家主義に集約されかねないという危険性を示すものであった。そのような問題が漸次〈市民的政治文化〉の可能性の問題に移行してきたということは、日本社会の成熟を示すものと見てよいであろう。しかし、その二義的可能性が完全に消失したわけではない。中国においては、いっそうそのようなことがいえるのではないであろうか。それだけに、中国においては、〈市民的政治文化〉の可能性の問題はいっそうの緊急性をもっている、といえるのかもしれない。
 その意味において、われわれがOrtegaを読むということは、きわめて深い意味をもつものということができる。Ortegaは、(1)政治的共同体を「血縁関係」などの自然的同質性を基礎にして形成される「共生関係」と見るのか、(2)そのような〈自然性〉を克服したところに成立する「共生」への合意と共同行動をその基礎と見るのかという二つの原理を想定した上で、「政治的共同体」の革新は常に第二の原理によって達成されてきたと考えた。そして、国民国家を、つまるところこの第二の原理によって革新されるべきものと見ていた。この視点は、東アジアの伝統を背負っているわれわれには、二乗化された意味をもって迫ってくる。そして、それは、日本・中国・韓国の共通の問題であることはいうまでもない。