本コメント執筆に当たっては、北大法学部の長谷川晃教授、中野勝郎教授、遠藤乾助教授の貴重なコメントを得ました。感謝申し上げます。

本原稿の著作権は尾崎一郎にあります。

 

1999年7月17日 基礎法学研究会

『法の臨界V』へのコメント

北海道大学法学部 尾崎一郎

 

私が担当する第3巻「法実践への提言」には全部で9本の論文が掲載されています。これらは、編者も指摘しているように「きれいな答え」を出すことより「問題の提示」に力点をおいたものです。かつそれら9本は、環境問題、市場における契約、家族、コミュニティ、言語政策、集合的責任、公共政策、紛争処理システム、法的イマジネーションという、分野も次元も異なる法実践の各領域について、やはりそれぞれに異なる枠組み、方向性、問題関心においてオリジナルに探究したものです。そのため、これらの論考を評者の何らかの問題関心(例えば個人の自由の貫徹と社会統合の相剋や一般化と個別化の相剋といった問題関心)に無理矢理押し込んで整理すると、各執筆者の一番いいたいこと、各論考のポイントを見落としてしまうことになりかねません。実際、この巻の「編者の概観」も、そうした欠陥から自由ではないようです。そこで、私は、いかにも法社会学的な泥臭い方法であることを承知の上で、1本1本の論考について、そのポイントと私が捉えたものをまず整理した上で、それに1,2のコメントを加えるという形で今回の報告を行いたいと思います。それはまた、非常にinstructiveでありchallengingでありprovocativeでさえある各論考のそれぞれの執筆者に等しくかつ真に敬意を払うやり方であると信じます。

 

まず、小林論文「未来は値するか」ですが、環境問題の深刻化による人類絶滅の危機を前にして、人類の計画的存続か無計画の滅亡かという既存の枠組みでは考慮されていなかった計画的滅亡という選択肢をも合理的なものとして考慮に入れるべきであるというこの論文の主張には、確かに環境問題について我々の蒙を啓いてくれる力があるように思われます。そして、人類が一見恐ろしいものに聞こえる計画的滅亡、「地球の使い捨て」という選択肢を選択することは、むしろ、今現にある個々の人間がよき生を追求する権利、すなわち「個人の自由と尊厳と調和し、人道的」(9頁)でさえある、この点「将来世代の権利」という考え方は有害無益である、という小林教授の指摘は、一定の説得力を持っていると私は感じました。ただし、論文全体を見ると、いくつかの疑問点も同時に抱かざるを得ませんでした。

 

すなわち、まず第1に、教授もいうように「特定個人に委ねることも集団的に行うことも適切ではない」(15頁)その「人類滅亡の選択」について、教授は、「人類の存亡の決定を各人が自由に選択し、その選択の集積によって存亡が決定されるようなシステム」というあくまで個人の自由な判断、行動を尊重する「構想」を示されており、そのこと自体は私も異論がないものの、その具体的な構想として提示されている、「子供を作るか否かを人類存続のメルクマールに用」い(8頁)、「子供を作ることすなわち人類の存続を選択」(17頁)したものは「人類存続のコスト」として特別に税を課されるという「ふるいわけのシステム」(20頁)は、先の目的を持つシステムとしてはいささか問題があるように思われます。問題は、繰り返し出てくる「子孫を残す者は人類の存続を選択し、自発的に負担を引き受けた者なのである」「人類の存続を選択する者、すなわち子どもを作る者」といった表現に象徴されるように、小林教授が、子供を持つこと→「人間の数を増やすということ」(16頁)→人類の存続を選択すること→人類存続のコストの負担、という、個人のミクロな行動・判断とそのマクロな帰結・評価とを往復的に架橋する想定をあっさりと導入しているところにあります。しかし、ここには短絡が潜んでいます。すなわち、小林教授が留保するように人類の<存続>を選択しそのコストも負担しつつ子供を<つくらない>ことが可能である(18頁)のと同じように、人類の<計画的滅亡>を選択してかつ子供を<つくる>ということも可能です。<子供を作るか否か>と<人類の存続を選択するか否か>は論理的には独立の事象であり、人類の消滅に至る自然減少を望ましいと考えることと自分<個人>が子供を作らないことは別の話です。ある個人が子供を持つことが仮に(自明ではない)人間の数を増やしているにしても、かつそのことを当人が意識しているにしても、そのことはその人が人類の存続を「選択」していることには直結しません(人口増加が人類の存続と結びつかないことは論文冒頭で教授自身が皮肉を込めて示唆していたことではなかったでしょうか)。この場合、子供を作った当人にその「子供が[環境に]与える負荷」(17頁)を負担させることは仮に正当化可能だとしても、それを「人類存続のコスト」(傍点報告者)と構成するには追加的根拠が必要になります。それなしに、そのように構成されるのなら、おそらく当の人間は負担を拒否するでしょう。なぜなら自分が選択してもいないことについて選択したことにされ追加的負担を求められることは、まさに小林教授も依拠している個人の自由の理念からしてもただちには容認しがたいからです。となれば、当然同じ子供をつくった人間の間に負担の不公平をめぐるコンフリクトが生じるでしょう。となると、個々人のミクロな決定の集積によりマクロなレベルでの人類存続の可否が合理的かつ倫理的に決せられるという当初の目的に即していえば、子どもを作った人間に一律に課税するという小林教授の提示するシステムが機能不全もしくは結果の歪みもしくは意図せざる結果をもたらすということは大いに考えられることです。「子孫を残すものは人類の存続を選択し、自発的に負担を引き受けた者なのである」という20頁の言い方が端的に示す論理には問題があるように思われるわけです。

 

この問題は、実は一般化が可能です。すなわち、たいていの個々人のミクロの行動は人類存続的とも人類滅亡的ともなりうるのであり、それを当の個々人がどう解しているかということと、人類の存続自体についてその個人がどう判断しているか、さらにそれをマクロなレベルでどう評価し効果を付与するかということは、それぞれ論理的には独立であるということにかかわる問題です。マクロな構想として人類の「計画的な滅亡」という選択肢が確かに考慮に値するものであるとしても、それをミクロな行為・判断の集積としてどう構成し実現(あるいは阻止)するのか、というのは、かなりの難問だということです。一定のミクロな行為(すなわちここでは子どもを持つこと)を、即「人類存続」の「選択」と同視し、かつそこに一定のサンクションを与える立場は、実はミクロとマクロの次元を混同し、かつそこにマクロな価値判断をいつのまにか入り込ませているということになるといえるかもしれません。この点「このシステムは選択に対して中立的である」(20頁)というのは、誤りであるように思われます。選択は形式的には自由にできても、そこには一定の誘導が働いているからです。これらの問題についての小林教授のさらに踏み込んだ論究が待たれます。

 

小林論文の第2の問題点は、いわゆる環境問題に関わるアクターに、今ここにある個々の人間と将来の世代の人間だけではなく今ここにある個々の他の種類の生物も含まれるということが、全く無視されているということです。個々の人間が人類の存続の可否についてどう判断しそれに従ってどのような生活を追求するにせよ、その影響、ことに負の影響を受けるのは、他の人間だけではありません。人類が合理的な選択として自分たちの滅亡を選択すること(あるいはしないこと)は、他の種類の生物の各個体にとっての当該選択の合理性を必ずしも意味しません。「…環境問題は、いかにうまく地球を使い捨てるかという問題になる」(9頁)といかにも人間中心主義的発想をすべりこませて、「豊かで快適な生活を送りつつも倫理的でいられる」(5頁)という言い方をしても、他の生物には説得力はないでしょう。確かに、小林理論では、環境問題における<人間同士の関係における倫理>の問題は大部分解決できる、あるいはできたような気持ちになれるのかも知れません。法の世界ではそれでよいのかもしれません。そもそも今述べたような考え方が本当に成り立ちうるかという問題もあるでしょう。しかし、小林教授が「伝道者」と揶揄する人々がナキウサギといった人間以外の動物を原告にする訴訟を少なくとも提起しているという事実があることも確かです。小林論文の議論だけで「環境問題が半ば解決してしまうのだ」(8頁)というのはやや無理があるように思われます。この点もお考えをうかがいたいところです。

 

次に山田論文「市場における自律性」ですが、自由に参入・退出できる参加者が単に利己的動機から「利潤・効用の追求」をするだけでなく異質な価値観を有する他者との合理的信頼を調達する場としても機能し得る「市場」における契約当事者の自律性を、単にその「意義や重要性を語る」「規範的基礎付け」を行うにとどまらず、「記述的要素の側面から」(45頁)、すなわち、それがどのような具体的な条件の下に充足されるのか、契約法はそれに対してどのように寄与し得るのか、「契約の交渉全般に亘る社会的な実態や、当事者の心理的メカニズムにまで及ぶ広範な形での検討を必要としている」(45頁)という論文の基本的な趣旨は賛同できます。この点山田教授は、一つには契約当事者が利用できる選択肢が十分に提供されるための環境整備への間接的な寄与という見地から、もう一つには「当事者の自意識に関して一種の教育的な効果をあげる」(44頁)ようなもの、つまり本来ひどくエゴイスティックなものも他者と協調しながら問題解決を図るようなものもありうるという意味で「複合的な構造を有している」「自意識を高める」(44頁)ものという見地から作られる、契約法理論の新しい構成の可能性を示唆しています。これもまた一定の説得力をもつ議論だと私には思われました。

 

そのうえで、あえて1つリクエストを出させていただくなら、契約法一般の再構成に当たって<契約当事者の自律性に関わる「記述的要素」>を考慮するのに、市場の契約当事者に限定する必要はないのではないかということです。本論文は、市場における契約当事者の自律ということに問題を限定しているのですが、市場原理とは異質な原理が相対的に強く支配しているかのようにみえる共同体や組織においても、契約は行われ、かつそのような場所でこそ当事者の自律性は大きな問題のはずです。山田教授は最終節の冒頭で「市場経済の世界でも、いやむしろ市場経済の世界でこそ、契約当事者は自律的に行動していくことができるのである」(45頁)と書いていますが、事実上行為者の自律性を最も確保しやすいということと自律性が正義上最も強く要請されるということは論理的には別のことですから、契約法が当事者の自律性に確保に寄与する「記述的要素」を考えるのに、市場以外の場を考慮から排除することにはやや物足りなさを感じます。むしろ伝統的共同体や内部規制の強い組織などを考慮し、そこで実現されるべき当事者の「自律」にかかわる「記述的」諸要素、特に、伝統的価値という桎梏からの自由、他者の権力的介入からの自由という形での「選択肢の十分な提供」や「自意識の向上」にとって、契約法システムがなしうる寄与ということが問題にされる必要は決して小さくはないのではないでしょうか。特に日本社会を念頭に置いたときそうだと思います。

 

続いて山崎論文「家族と多元的文化規範」ですが、家族に関わる多様な問題を数多く提示しているこの論文の基軸になっているのは、おそらく、「自己決定」、「個人主義・自由主義」を基調とする「家族システムや家族形態の多様性、さらに「家族の文化規範」の多様性・多元性の承認」(56頁)の進行が潮流としてある一方で、「家族の文化規範」と相互連関している「生命倫理規範」や「環境倫理規範」(63頁)における「普遍化・共通化・一元化」要請や、夫婦や家族のアイデンティティの維持、「法的安定性」、「社会的連帯」、文化的アイデンティティの確保の要請や多様化のコストの負担の問題などが他方であり、この相反する要求・要請の間をどう調整するかが問われているということだろうと思います。

 

このこと自体は、論旨としてはわかるのですが、わからなかったのは、なぜ<あえて>、あるいは<依然として>、「家族」というユニットを、個人の自由や自己決定と社会的連帯の相剋を考える上での、立脚点にしなければならないかについて、山崎教授がどのように考えておられるのかということです。婚姻関係であれ子育てであれ生命倫理であれ環境倫理であれ、あるいは本論文では触れられていない教育であれ、自己決定という自由主義的、個人主義的原理を前に、社会的連帯、その背後にある倫理や道徳の自明性が疑問視されざるをえない状況が現出している局面は無限にあると思われるわけですが、そこであえてなお家族という個人とも地域とも国家とも地球とも異なるユニットを問題にするのか?これは、次の名和田論文があえて<コミュニティ>という領域を問題にしていることとにもあてはまるのですが、そこには、やはり一定の秩序観というか、一定の社会的連帯様式へのコミットメントがあるのではないか?家族という問題領域が問題領域としての存在意義を有し続けているという理由はどこにあるのか、その答えの中にこそ、実は家族という装置が個人と社会の接点として持つ<否定し得ない>機能や意味が見いだされるのではないか、是非山崎教授のお考えを伺いたいところであります。

 

次に名和田論文「生活世界からの法創造」ですが、コミュニティが秩序形成主体として自生的な公共性(名和田教授のいう「事実上の公共性」)を獲得しそれがいずれ国家法システムへと「転轍」されて「制度上の公共性」へと組み込まれていく「決定権限の分散」の進行の異なる発展段階を示す「ドリームハイツ地区」「テネーファー地区」「真野地区」「ブレーメン」を紹介する本論文を一読して抱いた問いは次の2つです。

 

1つは、やはり、名和田教授自身が「結びにかえて」でこれまで「意識的にとりあげないで来た」とする問題、すなわちなぜあるコミュニティは事実上であれ制度上であれ公共的秩序形成主体になるのか、それを成立させる要素は何なのか、ということです。逆に言うと、名和田教授がかねてから紹介されているドリームハイツや真野やテネーファーやブレーメンには、公害や震災やインフラの未整備や行政の積極姿勢などの要素が存在するわけですが、それは多くのコミュニティにとってはイレギュラーな要素ではないのか、もしそうだとしたら、そうした要素を欠いた、その意味ではごく普通の、しかし今や「事実上の公共性」形成以前の状態に陥っているようにみえる新興住宅地のようなコミュニティについて先の4地区の経験は何を教えるのか、考えようによってはむしろそうしたごく日常的な世界の公共性の状況、より性格には公共性の不在状況を解明してこそ、真に地域コミュニティのもつ潜在力の行方を理解できるのではないか、ということです。

 

このこととも関わるもう1つのより一般的な問題は、先に山崎論文における<家族>についても問うたことですが、名和田教授は、決定権限が分散されて地域コミュニティが秩序形成の主体としての役割を引き受けることがなぜ望ましいと考えておられるのか、また、それはなにについてどの程度引き受けるのが望ましいと考えておられるのか、という問いで、これも、名和田教授の一連の議論から答えが見えるようで見えない問いなので、お考えをうかがいたいところです。これは例えば、本論文で紹介されている4地区の中ではやはりドリームハイツよりはテネーファーが、テネーファーよりは真野が、真野よりはブレーメンが望ましいと考えておられるのか、という問いとしても提示できるかも知れません。

 

続いて、石山論文「言語政策と国家の中立性」に移ります。この論文で石山教授は、まず多言語国家が言語について「中立的言語政策」をとることは可能であることを論証します。すなわち、公用語は、それが単数であれ、複数であれ、国家機関と国民諸個人との間および国家機関内部でのコミュニケーションの便宜のため(すなわち「官庁語の統一」(114頁)のため)に設けられたにすぎない、それへの同化を目的としないものである、とその目的を限定すると同時に、当該公用語も含む「諸言語の自由競争を公平な条件の下で保障すれば」国家は言語に関して中立性を保持していられるというのです。そして、そうした諸言語の公平な競争がなりたつための条件として、さしあたり言語的マイノリティへの補償、自由競争への参入の保障、街角・職業・メディア・教育における非公用語の使用の禁止の禁止などを「必要条件」(114頁)として挙げています。

 

この論文はやはり一定の説得力を持つものですが、疑問もただちに惹起します。すなわち、まず第1に、石山教授は、この論文で、そもそも国家の中立的言語政策が可能であることを論証し得ているのか、ということがあります。今述べたように、石山教授の理論構成では、それが論証し得たというためには、公用語の目的が限定的に解されることと、諸言語の自由な競争が確保されることが必要十分条件となります。前者の、限定的な公用語の目的が、現在の多くの国における公用語の実際の設置目的に合致しているかはとりあえずここでは無視します。むしろ問題なのは、後者の、諸言語の自由な競争の確保について、石山教授はその十分条件を明らかにせず必要条件しか示していないことです。論理的には、十分条件が示されなければ、それが現に実現可能な条件か明らかにならず、従って、その条件が満たされ<うる>ことが前提となる中立的言語政策の可能性が論証されたことにはならないはずです。もちろん、「言語政策に関しても、国家の中立性の原理は適用可能である」という「むすび」にある表現が示唆しているように、石山教授が探求しているのはあくまで「適用可能論」であって、当該原理は実現可能であるかどうかわからないけれども、規範的要請としては意味を持ちうる、というのがその趣旨であったのなら話は別ですが、それでは中立性原理のいわゆる「適用不可能論」への正面からの論駁にはならないだろうと思われます。なぜなら「適用不可能論」は、国家が言語政策に関して中立的であることはありえない、という事実を問題にしており、国家に中立的言語政策を要請すべきか、いなか自体を問題にしているわけではないと思われるからです。

 

確かに、公用語があることが<ただちに>国家が言語について中立であることの不可能性を意味するわけではないという主張(104頁)は石山教授の言うとおりだろうと思われます。しかしではどうであれば<十分に>中立的であると言えるのか、石山教授は示していません。そこで私の石山論文への第二の疑問は、公用語という言語が持つ権力行使正当化機能と、象徴的意味機能をどう考えるか、ということです。公用語は官庁語にすぎないと言い換えたところで、国家の時に物理的暴力を伴う権力活動が、第一義的には公用語により正当化されることには変わりはありません。日本語・日本文化に真の権利・義務観念が内在しているかという問題を想起するまでもなく、特定の規範的認識枠組みに依拠した権力行使は被行使者にとって中立的なものといえるのでしょうか?EU研究者である私の同僚である遠藤乾助教授から示唆されたことですが、マイノリティから見た中央権力装置(たとえば中央官僚)におけるキャリアパターンと昇進における言語の役割という問題もこの問題に関わるかもしれません。また、官庁というエスタブリッシュメントが一定の言語を使用することの象徴的意味機能も問題です。帝政ロシア時代の支配層のフランス語使用や、いわゆる漢字廃止論、フランス語国語化論、あるいはインターナショナル・スクールに子供を通わせる日本人親のメンタリティに見いだされるように、支配者や強者が用いる言語には一定の意味機能が常に社会の側から付与されます。国家がこれを促進まではしないまでも黙認したとき、それは真に中立的な言語政策を実行していることになるのでしょうか?『法の臨界U』掲載の嶋津論文にも書かれているように、あることがらができることの証明はできないことの証明同様非常に困難であり、今問題になっている中立的言語政策についても現時点では双方の立場が立証責任を負っていると言えますが、経験的蓋然性は「できない」の法にあるような気もします。石山教授のお考えを伺いたいところです。

 

続いて瀧川論文「個人自己責任の原則と集合責任」に移ります。この論文で、瀧川教授は、「個人の自由・平等と内在的に関連している」(120頁)「「個人は自らの行為に対してのみ責任を負い、他者の行為に対しては責任を負わない」という個人自己責任原則に対する一定の制約として機能する」(137頁)「集合的責任」、すなわち本論文では特に「集団帰属を理由とする個人属性責任」(125頁)がいかなる条件の下に正当化されうるか論じています。そしてまず責任の内容として、「被害者と加害者の対面関係に依存せずに意味を持ちうる責任」(129頁)である「間接責任」の場合、集合責任が正当化される余地があること(逆に言えば直接責任については個人自己責任原則が貫徹されること)を指摘し、続いて、ある個人の行為がその個人が帰属するある集合体のためになされている外観を他者・被害者から見て有していればその行為の責任は当該集合体の責任となる可能性があり、また当該集合体への帰属に事実上もしくは原理上の任意性がある場合はその集合体に帰属する個人はその集合体に関わる集合的責任を負わされる可能性がある、ということを指摘します。

 

この瀧川教授の整理は大変スマートなもので、例えば戦争責任問題を考えるのにも多くの示唆を与え議論の整理に寄与するものだと思われますが、どこかしら隔靴掻痒の感が否めないのも事実です。それは、おそらく、「どのような内容の責任が集合的責任となることが正当化されるか」という「責任論」の議論として、「問責者と答責者の対面関係においてのみ意味を持つ責任」である「直接責任」(129頁)と「被害者と加害者の対面関係に依存せずに意味を持ちうる責任」である「間接責任」(同)について、前者については個人自己責任原則が貫徹されるが、後者については集合的責任が正当化される可能性があるとしている部分が、どこか言葉の言い換えにすぎないようにも見えることに起因していると思われます。つまり、集合的責任を負わされてもおかしくないような種類の責任であれば集合的責任を負わされるかも知れないよ、と言っているように読めてしまうと言うことです。むしろ我々が本当に知りたいのは、どのような内容の責任であれば間接責任の範疇にはいるのか、あるいは入らないのか、直接責任と間接責任を分ける哲学的根拠、あるいは規定要因はどこにあるのか、あるいはそれは慣習その他によって決まっている事実の問題に過ぎないのか、ということなのではないでしょうか?それが瀧川論文からは必ずしも明らかではありません。瀧川教授が指摘しているのは、直接責任の範疇に属するものには「「非難」や「謝罪」や「反省」など」(129頁)があり、間接責任の範疇に属するものには「純化された意味での「補償」」(130頁)があるということにとどまっており、両者を区別する一般的基準は示されていないのです。それが明らかにされたとき初めて、例えばどのような戦争責任を我々は負わねばならず、あるいは負わないで済むのかの哲学的説明が完結し、瀧川理論もまた完成するような気がするわけです。

 

次に宇佐美論文「政策としての法」に移ります。この意欲的な論文で、宇佐美教授は、「古典的法令」と異なり「名宛人が多様化」し、「互酬的権利義務を部分的に修正」したり「一般的権利義務に還元されない法制度を設立または改革」したりする「今日的法令」(146頁)は、もはや、「第一次的には市民が日常生活で共通に準拠し、第二次的には裁判官が紛争裁定時に拘束される行為指針として、法を捉える」「共通指針モデル」(144頁)では「捕捉」しきれないばかりか、今日的法令の増大が提起する実践的課題を認知できず、それへの取り組みが妨げ」られること、「歴史的視座の欠落」があることを指摘します。そして、法令をむしろ「公共的問題に対する手段として捉えなお」し、「第一次的に市民全般、第二次的に司法公務員という名宛人の限定をとりはら」った、(「共通指針モデルの修正」としての)法の「公共政策モデル」を提案し(151頁)、今日増大している「社会的経済的目標を掲げる」(157頁)行政法規などだけでなく、「共通指針モデル」が最も適合的な刑法や民法といった古典的法令もまたこのモデルで「捕捉」できることを論証し、さらには、「公共的問題に対する手段」としての法が成功し改善されるための「法の技法に関する知識」の枠組みを提示します。そこでは、かつての法理論で重点がおかれていた「司法実践」から「立法・執行」における実践への重心の移行が含意されているといえるでしょう(157頁)。

 

ややおおざっぱな整理になりますが、以上のような宇佐美教授の議論は、周到に考えられたものであり、かつ分野特定的で技術的な行政法規の増大などの(宇佐美教授いうところの)「歴史動態」にも整合的で、大変魅力的に映ることは確かです。しかし、ここで指摘されている「共通指針」モデルと「公共政策モデル」の関係を、後者が前者の修正である、つまりより改善されたものとして前者に置換しうるモデルであると考えるべきかどうかについては一考の余地があると考えます。確かに、共通指針モデルでは、公共政策の実現手段としての法という観点は抜け落ちているか、もしくは見えにくくなっているように思えます。しかし、146頁から147頁にかけて挙げられている医師法、行政手続法、労働基準法、借地借家法、割賦販売法、身体障害者福祉法、食品衛生法を例にして言えば、一見「一定範囲の市民に宛てられた」ように見える法規でも、それが法規である以上、他の市民がその法規に依拠して司法で当該名宛人の行動をあらそうことは出来ます。すなわち、ある医師を医師法違反で告発したり、行政手続法違反による行政行為無効確認訴訟を提起したりすることはできます。また、部分的に互酬的権利義務を修正する労働基準法・借地借家法・割賦販売法や、一般的権利義務に還元されない法制度を設立・改革する身体障害者福祉法や食品衛生法は、確かに全市民に共通の権利義務を規定するものではありませんが、やはりそれが法規である以上、特定の範疇に属する人々を対象としたこうした特別の規定内容を全市民が受容することが期待されており、その意味でやはり全市民の共通の指針であるということを意味します。当該範疇に属さない市民にとってそれに基づいて司法で直接に争うことは出来ないことが多いでしょうが、少なくとも倫理的批判の規準にはなりうるでしょう。これもまた法の重要な機能です。また、これら特定の範疇に属する人々にとっては、まさにこれらの法令は「共通の指針」として機能します。

 

つまり、共通指針モデルは「今日的法令」と「不適合」を起こすという(147頁の)指摘はやや言い過ぎで、宇佐美教授が論証するように「公共政策モデル」が「古典的法令」を「捕捉」できるのと同じように、「共通指針モデル」は「今日的法令」を「捕捉」できるように思われるわけです。ただ、先にも言ったように、公共政策の手段としての法という今日重要性を増している観点が共通指針モデルでは見えにくく、当該「法認識」の「法実践」に対しての影響が問題となることも確かです。しかし、だからといって「共通指針モデル」を「公共政策モデル」で代替してしまうと、今度は今述べたような「今日的法令」の「共通指針」的性格というのが見えにくくなってしまいます。つまり両モデルは、一方が他方に包摂・置換されるというより、お互いに補完しあう関係にあると捉える方が正確なように思われるわけです。宇佐美教授のお考えを伺いたいと思います。

 

次の守屋論文「法的紛争処理の多元化と統合」は、制度側の視点に立ち一定の静態的整合性を志向したこれまでのものとは異なり、当事者主義的視点をとり<かつ>多元化と統合という相反する契機の動態的なバランシングを前提とする新しい紛争処理システム像を提示します。すなわち、そこではまず、紛争が、「各当事者が主観的に設定した利害関心ないし価値関心を前提として、各人が自ら設定した目標を実現するために、相手方に対して譲歩を強要しようとする相互過程」(170頁)である「自己主張としての側面」と、「各人がそれぞれの当事者関係に対してどのような価値付けを与えるべきかを見つめ直し、これを通じて他者との具体的関係の中で自己を確立しようとする自己認識的な過程」(171頁)という側面とがあることが指摘され、従って当事者の「主体的な紛争終結」(173頁)に対して紛争処理システムがなすべき「援助」とは、「各人の自己主張の明確化ないし合目的化に関わる援助」(173頁)と、「各人の自己認識の深化ないし安定化に関わるもの」(同)の2つであるが、この2つは時に相反しうる課題であり、その「バランス如何が実践的な関心事となる」(174頁)こと、結局それは「それぞれに個性的な紛争処理能力をもつ各種手続きの連携の中で成立することにならざるをえない」(177頁)ことが指摘されます。そして、そのようにして紛争処理システムが「応答」することを求められている当事者の「紛争処理期待」は、紛争処理手続き利用を通じての自己主張の「正当性の確認」(180頁)の側面においても、紛争処理手続き利用により得られる「救済手続きの実効性」(182頁)の側面においても、それぞれ、「個別紛争当事者の否定形的な主観的評価」(169頁)に志向した個別化・「多元化の契機」と、個別の主張や救済を一定の普遍的基準に従って評価し暫定化する「統合化の契機」とがともに存在せざるを得ないことを指摘し、結局、紛争処理システム全体がそうした相反する契機を上手にバランスすることで「当事者の期待に応答的」であるためには、紛争処理システム自体が各種紛争処理手続きを包含して多元化しつつ、それら手続きが機能的に連携し統合されることが必要であることを結論します。

 

つまりこの論文でまず守屋教授が描き出しているのは、それ自体相反しうる紛争当事者の「自己主張」と「自己認識」とへのバランスのとれた応答もまた多元性と統合性を兼ね備えなければならないという紛争処理システムに課された負荷なわけですが、その負荷に耐えるために守屋教授が提示している処方箋は、いうなれば、システムの構造の多元化(すなわち様々な特性を持つ紛争処理手続きの分化・分業)と機能的統合(すなわち各手続きの連携)というシステム論的構想といえるでしょう。これは確かに調停や訴訟外の和解を訴訟より一段低く見るようなかつての「静態的」整合モデルよりも、裁判外の手続きの再評価の潮流にも、またそれら手続きが実際に果たしている役割にも適合的な議論のように思えます。規範的普遍化を主として志向する訴訟手続きがあるからこそ個別的処理を志向する訴訟外の手続きは活きるのであり、その逆もまた真である、どちらかを優位に置き他方を副次的なものとして扱う論理構成は、その相補的関係をかえって殺してしまう、というのは話としてもよくわかります。

 

これに対して確たる反論があるわけではないのですが、しかしこのモデルは、現在の司法改革論議などを前にしたとき、たとえば判決に至る処理が適合的なケースと和解兼弁論での処理が適合的なケースの線引きはどこにあるのか、つまるところ民事調停制度はどのような役割を担うべきなのか、家事事件における調停前置主義は維持されるべきなのかといった実践的問題につき、何か新しく有用な視点を与えうるのだろうか、という疑問というか不安を若干感じました。これらはあくまで当事者の主体的選択にゆだねられるべき問題で、システムとしてはどちらの選択にも実効的に応答できる態勢を整えておけばよい、というのが1つの考えられる(あるいは予想される)回答だとは思うのですが、しかしそれは制度の設計、維持のコストなどを考えたとき、必ずしも効率的な解とは言えないような気もします。一般に、すべてを包摂するかのように提示されるシステム論的図式の実践的有用性にも関わる問いとして、ここでは提示しておきたいと思います。

 

最後の松浦論文「法的イマジネーション」に移ります。この論文で、松浦教授は、「法的イマジネーションを解き放って、既成概念・・を変容させたり、概念を創造したりすることを通して社会的な要請・・に応えようとする面を強く持」つ(202頁)「実践」である「法解釈」同様、法哲学も、「概念操作、相反するものをも生成する法的イマジネーション、理論的結論なしの選択というような法解釈学に見られる実践的要素」(同)を有していること、特にそれは、「人間を特徴付けるためにわれわれが用いるまとまりをもった言葉群」(208頁)である「ボキャブラリー」を「変えることによって、法的イマジネーションの展開を図る」ことで「・・イマジネーション生成ゲームの一部を担」う(213頁)という形で行われていること、法解釈と法哲学という2つの実践、すなわち「世界の「見え方」を創造しようとする人間の積極的活動」である2つの実践は相互に影響を与え合う関係にあること、を指摘します。

 

この論文がそれ自体としていかなる法の臨界を露呈せしめているのかはややわからないところがあるものの、法哲学を狭い意味での「理論」に閉じこめず、「実践」として再評価し、まさに実践すべきことを主張する論旨は説得的だと思われれました。

 

実践的要素が存在すること、豊かな法的イマジネーションの操作が有意味に行われていること、世界の新しい見え方を提示していること…、これは、まさしく「法実践への提言」と題された第3巻の各論文の特長をもっとも簡潔かつ適切に言い表しているものだといえるでしょう。その意味でこの論文は、まさに本書の「編者による概観」として読まれるべきだと思いました。すなわち、これまで自明と思われてきた人間、社会、法の構造・意味・機能についてのイメージを時に大胆に転覆し、時に堅実に発展させながら、現代の日本社会において、法という装置がどのような役割を与えられるべきなのか、それは、カテゴリーとしての人間のみならず個々のアクチュアルな人間とどう関わり合うべきなのか、各領域について実践的に探求する、そのような刺激と示唆に満ちた論考群としてこの第3巻を読んだことを述べて、この報告を終えたいと思います。