憲法的探見記 箕面忠魂碑編

探見日:2006年11月



著名な憲法判例の故郷を訪ねることにしました。今回は、いわゆる箕面忠魂碑訴訟(最高裁平成5年2月16日第三小法廷判決・民集47巻3号1687頁)です。資料集などの小さな白黒写真でしか見たことのない、あの忠魂碑です。

原審の適法に確定した事実関係の大要は、次のとおりである。
 [略]
旧帝国在郷軍人会篠山支部箕面村分会(以下「分会」という。)は、大正五年四月一〇日、会員の勤労奉仕により、箕面小学校用地に隣接した箕面村役場の敷地内に忠魂碑を建立した(以下、……本件敷地上に移設される以前のものを「旧忠魂碑」といい、移設後のものを「本件忠魂碑」という。)。分会は、旧忠魂碑の建立に際し、箕面村に対し、当時箕面村役場の敷地であった土地の一部(大阪府豊能郡箕面村大字牧落字山ノ鼻五〇七番ノ二のうち四九坪)の無償貸与を申し入れた。これに対し、箕面村は、分会に対し、村会の議決を経た上で旧忠魂碑の敷地として右土地を無償かつ無期限で貸し付けることとし、また、分会が旧忠魂碑の前で慰霊祭をする際に貸与地の周囲約一〇〇坪の空き地を利用することを許諾した。

大阪の梅田駅から、阪急電鉄の宝塚線の電車に乗ります。大阪と宝塚のほぼ中間、石橋駅で箕面線に乗り換えます。

 

箕面線の電車には、箕面市の市制施行50周年を祝うヘッドマークが付けられていました(2006年11月当時)

 

箕面線の終点・箕面駅で下車。

 

箕面は、紅葉の名所のようです。野口英世先生にもお会いしたいですが、行かねばならないところがあります。

 


戦後、昭和二〇年一二月一五日、連合国軍最高司令官総司令部から政府にあてて、いわゆる神道指令(……)が発せられ、これにより、我が国において政教分離が実現されることになった。政府は、右総司令部の占領政策を受けて、……「忠霊塔忠魂碑等の措置について」(昭和二一年一一月二七日内務省警保局長通達)の各通達を発し、学校及びその構内並びに公共建造物及びその構内又は公共用地に存する忠魂碑等を撤去する方針を打ち出したことから、旧忠魂碑は、昭和二二年三月末ころ、分会員の手により、その碑石部分だけが取り外されてその付近の地中に埋められ、基台部分はそのままの状態で装置されるに至った。その後、戦没者遺族等の間でこれを再建する話が持ち上がり、昭和二六年ころ、埋められた碑石が掘り出され、旧忠魂碑が元どおりに再建された。……。その後、……箕面市戦没者遺族会(以下「市遺族会」という。)……の下部組織である箕面地区戦没者遺族会(以下「地区遺族会」という。)の会員が旧忠魂碑を清掃管理し、昭和三〇年ころから、同遺族会が主催して、毎年四月ころ、碑前で神社神職又は僧侶の主宰の下に神式、仏式隔年交替でそれぞれの儀式の方式に従い、慰霊祭を営んできた。

箕面駅前は、こういう感じでした。

 

休日の朝で、バス乗り場にバスがいないこともあって、ガランとした感じの駅前広場。温泉街への道も、まだ朝早いせいか、人影まばら。

 


箕面市においては、箕面小学校の児童数が昭和四〇年以降急増し、……同小学校の校舎の建替え、増築、校庭の拡張をすることが急務となった。箕面市がこれを行うためには、同小学校用地に隣接する前記役場敷地内の旧忠魂碑を他に移転し、その敷地の明渡しを受けてこれを学校用地に編入する必要があった。そこで、……箕面市と市遺族会との間で、旧忠魂碑を現状有姿のまま、かつ、碑前で慰霊祭を行うために必要な広さを確保するなどの条件で本件敷地に移設する旨の合意が成立した。

さて、忠魂碑は、どこにあるのでしょうか? 残念ながら、観光案内には載っていません。上記の最高裁判決ではよく分かりませんが、高裁判決には次のような記述がありました。

本件忠魂碑の碑石及びその基壇は、昭和五〇年一〇月ころまでは箕面市百楽荘一丁目七番二の箕面小学校庭内の一隅に建てられていた

市が公社から借り受けていた公社土地につき、西小学校の仮運動場としての用に供することを決定し、右用途に供していたところ、昭和五〇年五月ころ、公社土地の一部である本件土地内の本件敷地に旧忠魂碑を移設するため、本件土地の仮運動場としての用途を廃止する旨の決定(……)をした。

さらに、忠魂碑訴訟の地裁判決は次のように認定していました。

本件忠魂碑は、今もなお聖域として西小学校校門前に特殊な一区画を形成している

どうやら、「西小学校」を捜せばよさそうです。周辺の詳しい地図を持参していなかったので、駅構内にあった周辺地図で西小学校の場所を確認します。これだ!

   

「事前の準備が足りないのではないか?」と御指摘を受けそうですが、学会出張に出かける直前に、学会の会場から意外と近いことに気づいたという次第で……。

方向を定めて歩き始めると、各所に箕面温泉の案内看板が立っています。

   

しかし、山上に見える温泉施設には背を向けて進みます。

   

しばらく歩くと、第一中学校の前に出ました。中学校の敷地を回るように進むと、ついに西小学校が見えてきました。しかし、ここは通用門のようです。「特殊な一区画を形成している」という校門がありそうな場所を求めて歩いていくと、あれは・・・

  

資料集などの写真から想像していたのと違って、やや唐突に、視界に飛び込んできました。たしかに、地裁判決は、「その周囲とは区画された一画をなし、鎮守の森のような聖域的雰囲気をかもし出している」と認定していました。

  


本件忠魂碑は、二重の石積の基台の上に台石を配し、その上に幅約一・五メートル、厚さ約〇・四メートル、高さ約二・五メートルの碑石が安置されており、地上から碑石最高部までの高さは六・三メートルである。その周囲は、切石積で囲まれ、正面と両側面前部には御影石の玉垣、背面と両側面後部にはキンモクセイの生け垣が巡らされており、右切石積の囲い内部には、カイヅカイブキ、マツ、サツキ等が随所に植えられ、白砂利が敷きつめられている。

道路を挟んで向かいが、箕面市立西小学校の校門です。忠魂碑の敷地の隣には、グラウンドのような広場があります。前掲の高裁判決の記述によれば、西小学校の仮運動場として供用されていた土地の一部を使って、忠魂碑を移設したのでした。

  

細い道路の左側が上記の広場、右側が西小学校です。白い門の向こうに見える木々の所が、忠魂碑の敷地です。

  

忠魂碑の敷地の横(広場の反対側)と後ろ側は、細い道路を挟んですぐに住宅街です。


忠魂碑、招魂碑等の文字を刻した碑は、幕末期に国事に殉じた者を慰霊、顕彰する目的で幕末期ないし明治初年ころから建立され始め、西南の役における戦没者のために各地で盛んに建立された。特に、多数の戦死者を出した日露戦争後には、おびただしい数の戦没者の慰霊、顕彰のための碑が建立され、その碑銘として、忠魂碑の名称が一般化した。



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〈齊藤正彰@北海道大〉