憲法的探見記 木屋町通御池下ル編

探見日:2011年7月



出張先で泊まったホテルが、偶然にも憲法判例の故郷の近くだったというのは、よくあることでしょう。

目覚めると、いわゆる京都府学連事件判決(最高裁昭和44年12月24日大法廷判決・民集23巻12号1625頁)の現場の近くにいたのでした。




原判決およびその維持した第一審判決の認定するところによれば、昭和三七年六月二一日に行なわれた本件京都府学生自治会連合主催の集団行進集団示威運動においては、被告人の属する立命館大学学生集団はその先頭集団となり、被告人はその列外最先頭に立つて行進していたが、右集団は京都市中京区木屋町通御池下る約三〇メートルの地点において、先頭より四列ないし五列目位まで七名ないし八名位の縦隊で道路のほぼ中央あたりを行進していたこと、そして、この状況は、京都府公安委員会が付した「行進隊列は四列縦隊とする」という許可条件および京都府中立売警察署長が道路交通法七七条に基づいて付した「車道の東側端を進行する」という条件に外形的に違反する状況であつたこと、そこで、許可条件違反等の違法状況の視察、採証の職務に従事していた京都府山科警察署勤務の巡査Aは、この状況を現認して、許可条件違反の事実ありと判断し、違法な行進の状態および違反者を確認するため、木屋町通の東側歩道上から前記被告人の属する集団の先頭部分の行進状況を撮影したというのであり、[略]


現場は、京都市中京区木屋町通御池下ル約30メートルの地点だといいます。現在地は、京都市中京区河原町三条上ル。

ところで、京都も札幌も中心部は「碁盤の目」と呼ばれる形ですが、住所の表し方は全く異なります。

京都は、通り(道路)の名前で場所を表します。「木屋町通御池」とは、木屋町通と御池通の交差点、「河原町三条」とは、河原町通と三条通の交差点という意味です。そこからどちらの方かを、上ル・下ル・西入・東入といった形で表します。「下ル」というのは、交差点から南下するという意味です。まるで、道順を説明されているような感じです。

これに対して、札幌の街は、道路で仕切られた各ブロックに名称があります。したがって、同じ交差点の信号機でも、どの角に設置されているかによって、付されているプレートの住所表示が4種類あることになります。

また、京都の「三条」は固有名詞なので常に「三条」と表記するはずですが、札幌の「北3条」「南3条」は、いわば座標の表示なので、縦書きなら「北三条」、横書きなら「北3条」とするのが一般的です。

閑話休題。

高裁の認定によると、許可されていたデモのコースは、「広小路通り立命館大学正門から河原町通りまでは道路の左側端を、河原町通り広小路から御池通りまでは東側車道の左側端を、御池通り河原町から木屋町通りまでは北側緩行車道の左側端を、木屋町御池から木屋町四条までは車道の東側端を、四条木屋町から祇園石段下までは北側車道の左側端を通行し円山公園内道路を経て音楽堂に至る」というものだったようです。

そして、当日の状況は、次のように記されています(カッコ数字は追加したものです)


……各証言、被告人の検察官に対する供述調書の記載を総合すると、右府学連デモ隊は立命館大学々生約一、〇〇〇名、京都大学々生約一〇〇名、同志社大学々生約一五〇名が参加し、同月二一日午後五時頃立命館大学正門を同大学々生隊を先頭にして出発し、被告人は同大学々生デモ隊の責任者として列外最先頭に立つて行進し、河原町丸太町通付近でジグザグ行進のあつたほか概ね四列縦隊で整然と行進していたが、[1]河原町御池通交差点にさしかかつた際、前記「許可条件」を熟知していなかつた被告人は右許可条件に違反し、[5]御池通の緩行車道に沿つて左折せず、その河原町を南下し、同交差点中央付近まで行進し、デモ隊もこれに追尾したため、同所付近に待機していた警察官隊に押戻され、デモ隊は混乱して渦巻状態となり、そのまま隊列を乱して [6]御池通を東進して [8]木屋町通を南下することとなつたが、同所付近において採証活動に従事していた山科警察署警備係のAがデモ隊に向つて写真撮影したことに端を発し、本件紛争が発生したものである[略]

では、この道順を辿ってみましょう。

[1] まず、「河原町御池通交差点」です。

[2] デモ隊は、河原町通を、画面の奥の方から手前の方に向かって進行してきたわけです。

[3] 河原町御池の交差点から見える建物は、京都市役所です。

[4] この庁舎は、昭和初期に完成したもののようです。

[5] デモ隊の進路に戻りましょう。ここで左折して御池通に入るはずが、そのまま交差点の真ん中あたりまで直進してしまったようです。

[6] 警察官隊に押し戻されて御池通に入り、東に進んだとされます。画像の左の方から進んできて、奥の方に向かったわけです。

[7] 現在は歩道の幅が広くなっていますが、当時は、車道が広くて緩行車線があったのかもしれません。右の高い建物を越えたところで、右折します。

[8] そこが、御池通と木屋町通の交差点です。右折して、「木屋町通を南下する」ことになります。

[9] ここが御池通と木屋町通の交差点、すなわち「木屋町通御池」です。画像の右の方からやってきて、青信号の下の道路に入ったわけです。

[10] これが、木屋町通です。河原町通や御池通に比べると、格段に狭い道路です。少なくとも北海道人の私としては、「こんな細い道だったのか!?」という気がします。

[11] このあたりが、京都市中京区木屋町通御池下ル約30メートルの地点だと思われます。

ここを、「先頭より四列ないし五列目位まで七名ないし八名位の縦隊で道路のほぼ中央あたりを行進していた」というのですが、すでに「デモ隊は混乱して渦巻状態となり、そのまま隊列を乱して」進行していたわけですから、人々が入り乱れた状態で広い道からこの狭い道に入ってきて、道幅いっぱいになってしまっていたのかもしれません。

[12] ところで、京都の街を歩くと、そこここに歴史が・・・

[13] 京都府学連事件は、「加賀藩邸前の変」だった!? ちなみに、木屋町通の横を流れている川は、あの高瀬舟の高瀬川です。

[14] もう少し南に下ると、こういうものもあります。



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〈齊藤正彰@北海道大〉