憲法的探見記 猿払村の郵便局と軍事施設編

探見日:2019年5月、2005年5月



最北端の地・宗谷岬には、やはり男のロマンがある──日本特急旅行ゲームで苦杯を嘗めた想い出のある人なら、分かってくれるでしょう。しかし、目的とする郵便局は、ここではありません。

北海道最北の街・稚内市の南隣(北海道地図をイメージすれば右下)に、北海道最大の村・猿払村があります──全国でも奈良県の十津川村に次ぐ面積を有しますが、その8割は森林であるとされます。

ちなみに、「北海道にいるのに、まだ猿払に行かないのか?」と言われたりしましたが、札幌から猿払村まで直行したとして、距離は345kmです。これは、東名高速道路の起点から終点まで(346.8 km)に匹敵します。

さて、稚内を出発してオホーツク海側の国道238号線を南下し、漁港のある浜鬼志別から道道138号線(北海道だから県道ではなく道道)へ右折して、内陸にある鬼志別の市街地に向かいます。

「鬼志別」という綴りは怖そうですが、もちろん、アイヌ語に漢字を当てたものです。

浜鬼志別から鬼志別の間は人家もまばらです。

鬼志別の市街地が見えてきました。

あれです、郵便局です。


もちろん、「猿払郵便局」ではありません。


〈最高裁昭和49年11月6日大法廷判決〉

 本件公訴事実の要旨は、被告人は、北海道宗谷郡猿払村の鬼志別郵便局に勤務する郵政事務官で、猿払地区労働組合協議会事務局長を勤めていたものであるが、昭和四二年一月八日告示の第三一回衆議院議員選挙に際し、右協議会の決定にしたがい、日本社会党を支持する目的をもつて、同日同党公認候補者の選挙用ポスター六枚を自ら公営掲示場に掲示したほか、その頃四回にわたり、右ポスター合計約一八四枚の掲示方を他に依頼して配布した、というものである。



実は、この郵便局には、しばらく前に1度来たことがありました。

郵政民営化前で、現在とは看板のデザインが違います。


鬼志別郵便局です。猿払事件の当時と同じ局舎ではないでしょうけれども。

猿払村史編纂発行委員会編『猿払村史』(1976年)に、「鬼志別郵便局」として、このような写真が載っていました。

郵便局の前を通り過ぎて、中心部へ向かいます。

次の十字路には、左に行くと鬼志別駅という表示があります。直進すると、内陸部を通って稚内に行けます。左折します。

いわば、駅前通り。ちなみに、猿払村には鉄道の駅はありません。

かつては、国鉄/JR北海道の天北線(てんぽくせん)が通じていましたが、1989年(平成元年)5月1日に廃止されました。

鬼志別駅は、急行停車駅でした。駅の跡地は、宗谷バスの鬼志別ターミナルとなっています。

さきほどの十字路に戻ると、

角には農協の建物があり、1階は農協スーパーになっていました(2005年5月3日撮影)

この角に、市街案内図がありました。この地図では、南が上になっています。

この地図も南が上ですが、右上に駅跡のバスターミナル、下部やや左に郵便局があります。

この十字路から郵便局とは反対方向に進むと、

猿払村役場が見えてきます。

立派な建物です。

猿払事件が起きる前頃までには、水産資源の減少、林業の衰退、炭鉱の閉山などによって、猿払村は北海道内で最も貧しいといわれる状況だったようです。しかし、「地撒き(じまき)」と呼ばれる、ホタテ(帆立)の稚貝放流事業(1年間育てた稚貝を海に放流し、海の中で2〜4年間自然に成長させた後に漁獲する)によって、1980年代には豊富なホタテ水揚げ量を維持することが可能となり、豊かな自治体となったといわれます。

ホタテ工場。崎陽軒のシウマイには、猿払村産の干帆立貝柱が使われているとか。

ホタテに関心のある方は、道の駅さるふつ公園へ、どうぞ。

道の駅弁ホタテめし

宿泊施設も併設

道の駅は、オホーツク海沿岸の国道沿い(浜鬼志別)にありますが、そこから国道を南下すると、

猿払パーキングシェルター。吹雪でホワイトアウトになったら、ここに逃げ込むわけです。前が見えないからといって、道路上で不用意に停車すると、追突されるおそれがあります。前車のテールライトを必死で追いかけるしかありません。下向きの矢印は、冬期に路肩の位置を示すためのものです。

さらに南下すると、浜猿払の市街地があります。そこには、猿払簡易郵便局があります。

閑話休題。

役場前の道道を、さらに内陸方向に進むと、

こんな看板が。

陸上自衛隊の鬼志別演習場です。

カーナビの表示です。

市街地から、それほど離れていません。


猿払村史編纂発行委員会編『猿払村史』(1976年)

 本村の村役場裏の丘陵、通称大倉山約800haの村有地を自衛隊演習地に売却しようとする動きは、昭和32年にみられ、村議会の協賛のもと時の村長Aが政治折衝に乗り出していた。当時の村の方針としてはその売却費をもって新庁舎建設費に当てられるはずであったが、……同年11月、潜在赤字の責めを負ってA村長が辞任、新らしく村長になったBによってこの売却代は潜在赤字の解消に振り向けられた
 自衛隊演習地域は、折衝段階において一部民有地も含められるなどの曲折を経たが、同34年実現に運ばれるまでに次のような推移をたどった。[略]
434頁(一部改変)


鬼志別の市街地に、演習を行う自衛隊員のための鬼志別宿営地のカマボコ形の隊舎があります(2005年5月3日撮影)

道路左側の住宅の先に、村立鬼志別小学校があります。小学校前で右折して真っ直ぐ行くと、郵便局です。

さきほどの市街案内図で見ると、こうなっています。



演習場内から流れ出て、オホーツク海に注ぐ川です。

前出の旧国鉄/JRの天北線には、猿払村内に「飛行場前」という駅(国鉄時代は旭川鉄道管理局による仮乗降場だったというような話の詳細は省く)がありました。子どもの頃、時刻表の路線図を見て、「空港なんかない所に、なぜこんな名前の駅が?」と不思議に思っていました。


猿払村史編纂発行委員会編『猿払村史』(1976年)

 更に本村における特筆すべき軍事施設は、浅茅野陸軍第1飛行場と浅茅野陸軍第2飛行場の建設であった。
 浅茅野第1陸軍飛行場は昭和18年9月11日陸軍省がC外所有の浅茅野原野342番地の12haを買収し、また第2飛行場は同年12月22日陸軍省はDの所有地浜鬼志別原野211番地の33haを買収し、それぞれ飛行場の建設を進めることになった。
439頁(一部改変)

 両飛行場の工事内容は、滑走路は地ならし、誘導路は角材または厚板を地面に敷き詰めて造り、掩体壕造りといった極く簡単なものであったが、簡単とはいっても広大な飛行場建設、決して生優しい労働ではなく、しかも食糧事情が悪いのに加え、戦局も切迫している折でもあり建設は夜昼となくつづけられた。そして栄養失調と過労が原因で病死する者が増え、とくにこの工事に従事していた朝鮮人徴用者のあいだに犠牲者が相次いだ。中には逃亡途中で変死をとげる者があった。
 両飛行場建設で犠牲になった朝鮮人は、第1飛行場82人、第2飛行場3人の多きにのぼった[略]
440頁



国土地理院地図・空中写真閲覧サービスで空中写真を見てみると、


1947年9月の空中写真では、滑走路らしきものと掩体壕と思われるものが見えます。画像上端中央から右下に向かって斜めに走る直線が、天北線の線路です。しかし、飛行場前駅(当時は仮乗降場)が開業したのは、戦後の1955年12月とされています。その頃には、旧陸軍飛行場関連の施設も撤去されていたようです。

『猿払村史』の続きを見てみましょう。


猿払村史編纂発行委員会編『猿払村史』(1976年)

 先に触れた浅茅野飛行場建設にあたって配備された陸軍特設警備隊の歩みをみよう。
 日本海軍が雌雄を挑んだミッドウェー作戦が大敗に終わり、陸軍が死守したガタルカナル島も敗退のやむなきに至って、南方海域に点在する日本占領基地の島々が、次々と奪取されはじめた昭和18年、大本営は国土防衛の必要性を感じ、国内の要地に「陸軍特設警備隊」を創設することになった。
   [略]
 キスカ撤収作戦は、不思議な霧の現象によって、奇跡的に成功したのであったが、北方の制空、制海権も失ってゆくかかる戦況から、北域防衛の重要性は極度に強まってきた。ここにおいて、千島、樺太、北海道等北辺各地に、民間人で編成した監視所までも窮極策として置くようになったが、特設警備隊を急速に創設し始めた。
 この地方では、同18年6月25日、利尻、礼文、浜頓別に特設警備中隊が置かれ、翌19年6月4日には、本村の浅茅野陸軍飛行場に、特設警備隊工兵隊が併置されたのである。
 これら特設警備隊は、苦肉の策で編成したものではなかろうが、強力な兵備ではなかったようである。元旭川第7師団の将校であった示村貞夫はその著書に、特設警備隊は歩兵と工兵の2兵種で、構成人員は、大隊で500名前後、中隊では126名、このうち将校と下士官の若干名が要地に常駐し、兵員の多くは在郷軍人であった。この在郷軍人も警備召集によって集められ、所要の訓練か作業が終わると自宅に帰され、平素は生産等の諸業務に従事し、一旦敵がその地区に来攻すると戦闘に参加するといった、いわば昭和の屯田兵というべきものであったと述べている。
 宗谷要塞司令部の指揮下にあった浅茅野特設警備隊工兵隊もしかりで、地元本村からはE、F、G、Hらが入隊しているが、ほとんどが応召兵であり、勤務は浅茅野飛行場を増設、整備する工事人夫の監督にあたったり、諸作業に従事することであった。
 兵器装備も最新式の優秀なものは少なく、小銃などは旧式のもので、なかには学校教練用のような粗末なものもあった。 戦争犠牲者は、満洲、支那事変以前は不明であるが、本村出身者戦没者は陸軍103人、海軍26人(いずれも軍属含む)に及ぶ。[略]
442-443頁(一部改変)




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〈齊藤正彰@北海道大〉