先の総選挙は、日本政治における歴史的選挙となるだろう。投票によって政権交代が起こるという経験を持つことは、民主主義の発展にとって重要なことである。
「民主主義」と書いたが、そもそも、それは何だろうか。一つの答えは、「投票して多数決で決めること」である。その典型は選挙だ。これを「集計民主主義」と呼ぶ。もしも集計民主主義がなければ、特定の少数者または単独者の意思に黙って従わねばならない。投票は面倒だと思っている人でも、独裁者にすべて任せておきたいとは思わないはずだ。
しかし、近年の民主主義研究では、集計民主主義の問題点が指摘されている。理由の一つは多数決の限界である。3人で昼食に行く時、各自の第1希望がハンバーガー、寿司、フランス料理で、かつ、第2・第3希望の順序も異なるとすると、多数決では決められない。いわゆる「投票サイクル」である。あるいは、総選挙以前の「ねじれ国会」を想起してもよい。衆参両院の多数派が異なる場合、「衆議院の優越」原則があるからといって、何でも多数決では、国会運営は支障をきたす。
もう一つの理由は、集計民主主義における「人々の意思」の質の問題である。投票は匿名で行われ、いかなる理由で投票したかは問われない。有権者は、名前の書きやすさや見た目の印象という理由で投票したかもしれない。政治家は、世論調査の結果に一喜一憂する。しかし、その調査はやはり匿名で行われ、人々がどの程度真剣に考えたのかはわからないままに数値が独り歩きし、これに反すると「世論無視」と批判される。
また、「金権政治」や「利益誘導」への批判はおなじみとなっているが、政治家だけが問題なのだろうか。批判の一方で、依然として多くの人々が、政治家に「自分のために」「地元のために」何かをしてほしいと要求する。そこで政治家は、地元のために働かねばと思う。だが、その結果が「金権政治」や「利益誘導」ではなかったか。
ここで注目されるのが、熟議民主主義である。「熟議」とは、「熟慮し議論する」ということだ。自分の意見をできるだけ明確に述べるとともに、他者の異なる意見にも真摯に耳を傾け、納得したり自分の誤りに気づいたら、自分の意見を修正する。それは、「ごり押し」や「固執」や「論破」ではない。熟議民主主義は、集計民主主義の問題点を乗り越える可能性を秘めている。投票サイクルの状態は、それぞれの見解を修正し合うことでしか解決しない。現代社会には、唯一の「正解」を見出しにくい社会問題が多数存在しているとなれば、なおさらである。政治が素朴な「世論」に左右されたり、「利益誘導」の場にならないためには、何が妥当なのか、何がなされるべきなのかについて、世論そのものの質を高め、「よく練られた世論」によって政治家をコントロールすることが必要である。
熟議民主主義のための仕組みは、現実に存在する。専門家と一般市民が科学技術政策について熟議する「コンセンサス会議」(デンマーク)、無作為抽出の市民が特定のテーマを熟議し、意見の変化度合いを測定する「熟議世論調査」(米、英、豪州など)、市民参加で予算案を作成する「参加型予算」(ブラジル・ポルトアレグレ市)などである。日本でも、近年、東京の三鷹市や日野市などで、自治体と青年会議所の共催による市民討議会が開催されている。名古屋市で検討中の「地域委員会」も、参加型予算に類似したアイデアだ。
これらは、「ミニ・パブリックス」と呼ばれる。成功の鍵は制度設計だ。人々が単に集まって話し合えば、うまくいくとは限らない。そこで、ミニ・パブリックスは、特定の「大きな声」が議論の場を支配しないように、参加者が熟議する問題について十分な知識を持つことができるように、設計される必要がある。さらに、熟議に伴う心理的負担感の緩和も、重要な問題である。どうすれば、常に「忙しい」と感じている我々が、熟議のために時間を割くことができるのか。最終的には、就労のありかたの再考が必要となるだろう。
熟議など理想論だろうか。しかし、「正論」を言ったのに「理屈を言うな」と怒られ、釈然としない思いをしたことはないだろうか。人の話を聞かない相手を腹立たしく感じるのはなぜだろうか。そうだとすれば、熟議の理想にも意味がある。「政権交代のある民主主義」の理想は、ひとまず実現した。次は、熟議民主主義の理想の番である。
(2009年11月10日 朝日新聞・名古屋本社版・夕刊)
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