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HOKKAIDO UNIVERSITY, JAPAN
 
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Essay

北大政治研究会『政治研究会会報』第26号、20056月、1-3

演奏家と思想史家のテクスト解釈


  思想史家を「再現芸術家としての演奏家」になぞらえた丸山眞男は、「思想史の本来の課題」を、作品を解釈して再構成する「過去の思想の再創造」とした(丸山「思想史の考え方について」1961年)。思想史家は、演奏家と同様に、テクストの歴史性に拘束されつつ、他方で歴史対象を自ら主体的に再構成していく。その双方の「弁証法的な緊張」を通して、過去の思想を「再現」し、自らの責任で「追創造(nachshöpfen)」することが目指されるという。演奏家と思想史家の課題は、この後も決して変わることはないであろう。しかし、テクストを媒介とする歴史と現在との二つのベクトルのもとで、彼らを取り囲む状況は、この半世紀のあいだに異なる様相をみせてきた。

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  《作者の意図》  19世紀後半からのいわゆる「指揮者の時代」、次々に現れた偉大な芸術家たちは、一時代前の古い西洋音楽を、優れた、しかし「強靱な再構成能力」をもって現代に「引き移した」という。「後期ロマン派的な理想」を有するフルトヴェングラーに丸山は傾倒したが、彼の演奏における作品解釈もその例外ではなかった。しかし、巨匠たちが演奏家主導で作品に現代的解釈を加える一方で、20世紀初頭以降、少数の演奏家によって歴史的音楽をより「作品に忠実」に演奏する試みがなされてきた。その作品は如何なる状況下で、どのような楽器のために書かれたのか。作品のオリジナルの音楽、それ自体が本来有しているメッセージはどこにあるのか。このような関心に発するオリジナル楽器を用いた演奏は、1970年代からその技術水準の上昇とともに評価を高め、オリジナル楽器かモダン楽器かという論争を脇目に、クラシック音楽界に確実に浸透し、いまやその地位を不動にした観がある。彼らオリジナル楽器を操る演奏家たちは、作曲家自身が熟知し、その表現に最も相応しいと考えていた楽器を用いるだけではない。当時の音楽観や美意識、記譜法・奏法(アーティキュレーションを含む)・編成などのその時代の演奏習慣にも最大限に配慮し、各時代の音楽的要求と美的感覚を反映した楽器を用いて、作曲家の意図した音楽を再現しようとする。
  周知のごとく、西欧の思想史研究でも、この時期、作品の著された時代の意味空間において思想の再現を試みる研究が進展した。思想家はそのテクストで広義の表現手段としてどのような言葉を用い、その時代に何を問題としていたのか。また逆に、彼らにとって自明であり、テクストに記されなかったことは何か。作品の語彙や文体に対する関心は、一つの作品分析にとどまらず、著者の他の作品や同時代の思想家たちの作品群を参考に、当時の多様な「言語慣習(convention)」に習熟し、同時期の思想の鍵概念をなす「抽象的言語群」へと研究対象を開いていった。思想史の方法をめぐる議論の一方で、それは従来の単純な思想発展史の叙述に見直しを迫り、より豊かで多様な思想世界を描くという成果を生んできたと言えるだろう。


  《自筆稿とテクスト編纂》  ヨーロッパ各地の図書館の隅で埃に埋もれていた楽譜や著作は、このようにして次々に再発見されて、演奏され、あるいは読解されていった。歴史への比重の移行によって、既知のテクスト自体もまた、演奏家や思想史家の双方の注目を集めることになる。作曲家の意図に沿う演奏を再現しようとする演奏家は、校訂者の方針によって統一・整備された全集版の現代譜に妥協せず、ファクシミリなどを援用して作曲家の自筆譜を読み込み、そこから演奏上の示唆を得ようとするという。思想史家の場合、校訂資料に依拠したテクスト解釈が一般的であり、自筆稿から解釈上の示唆を得ることは稀であろう。だが、既存の活字資料の編纂に問題がある場合、思想史家は作品解釈の再考を迫られ、自筆稿や種々の伝承写本にあたることを強いられる。
  現代日本の福澤研究者が直面しているのは、まさにこの全集の編集史批判とテクスト真贋の問題である。『福澤諭吉全集』(1958-64年)全21巻中9巻分に収録された『時事新報』論説記事を、どの程度福澤本人の著作と見なしてよいのか。近年井田進也氏によって提起された論説の資料批判は、丸山の後期福澤の解釈に対しても再検討を促し、多くの思想史研究者に改めて「歴史による被拘束性」を痛感させた(井田「福沢諭吉『時事新報』論説の再認定─丸山眞男の旧福沢選集第四巻「解題」批判」1998年)


  《テクストの解釈と創作》  テクストを前に「追創造」を課題とするのは、今日の演奏家や思想史家ばかりではない。作曲家自身が自作ばかりでなく、過去の他作品の演奏家でもあるように、思想家自身も多くの場合思想史家であり、「無からの創造」ではなく、他者のテクストの既存解釈を通して「追創造」を行っている。作曲家は、先達たちが築いた音楽の伝統に根ざしつつ、自らの創造的精神によって作品を豊かなものとする。他方、創作的契機の自由な行使は制約されるが、思想家各人にとっても、先行するテクストの解釈は、独自思想の展開のための培養基となる。思想家たちは、作者の真意や理想とする古典古代の政治社会の姿をより確かなテクストに求め、その「正典」テクスト解釈によって従来の解釈を刷新し、独創的な思考的飛躍をみせる(近世日本の事例では、仁齋の「論語」「孟子」、徂徠の「六経」、宣長の「古事記」、篤胤の「延喜式祝詞」など)。その過程で、自らの固有の「先入見(Vorurteil)」をためらうことなくテクストにぶつけ、解釈者とテクストの「地平の融合(Horizontverschmelzung)」に至る対話を繰り返している。対話の産物としての思想作品ばかりでなく、蔵書中の手沢本、その注釈ノートや書込みは、その創作過程を窺う恰好の材料となってきた。


  《聴衆と読者への意義》  もとより、テクスト周辺のこれらの素材を整備し、当時の演奏習慣や言語慣習を身につけたとしても、作品が生まれた時代と完全に同じ演奏様式や思考様式の再現は不可能である。だがそれは、解釈者が作者の意図を無視して恣意的な解釈をしてよいということにはならない。解釈者は、テクストの作者をその「他在において理解」し、作者が主張しようとしたことの「より妥当な蓋然性」を求め続けなければならないだろう。しかし他方で、演奏家が博物館の番人でないように、思想史家も、古文書館の管理人や歴史的テクストの奴隷ではなく、それぞれに個性をもち、現代という固有の時代に生きる人間である。オリジナル楽器の奏者たちも自覚するところだが、どのような楽器を用い、どれほど様式的に「正しい」演奏をおこなっても、その演奏が現代の聴衆の心に届き、感動をもたらし何らかの印象を残さなければ意味がない。歴史研究をくぐった演奏家に求められるのは、演奏する曲によって使用する楽器や奏法が変わり、それぞれに固有の響きと美をもつことを示しながら、聴衆に対して普遍的な美的価値を提示することだろう。思想史家にもまた、美的価値追求の演奏とは異なるが、時代と地域と作品に固有の経験と思想を描きつつ、なおかつ通史的な見通しの上での問題設定や普遍的諸価値の提示によって、現代社会に生きる読者に何らかの示唆を与えることが要求されている。

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  このように表現と強調点こそ違え、およそ半世紀を経ても、丸山の捉えた演奏家と思想史家のテクスト解釈の課題は、ヨーロッパと日本を問わず不変であろう。しかし、「日本政治思想史」研究の現状を顧みるとき、とりわけ17世紀から19世紀半ばまでの、近世あるいは「初期近代」の彼我のテクストをめぐる研究蓄積については、圧倒的な相違を感ぜずにはいられない。そもそも上述のヨーロッパの古典音楽史や思想史研究と比肩しうるほどに、日本の近世以降の思想史研究は進んでいるのだろうか。後代からの価値づけという近代日本思想界の「恣意的な」対象選択と、解釈を左右するテクスト編纂作業の時代的拘束は、どれほど自覚されてきたのだろうか。西洋政治理論の受容史だけに課題を限定できない「日本政治思想史」研究の場合、前近代の思想的伝統を近代的政治価値の生成史として「読みかえ」、素材に内在する構成力の弱さを補って主体的に再構成するといっても、洋装活字本のテクストに依拠する限り、そこには編者の編集意図とその時点での時代刻印という、ある種の歴史的偏向を孕まざるを得ない。日本においてなお、自筆稿とテクスト編纂過程、さらに蔵書群や手沢本を扱いながら当時の知的世界の究明に力を注がなければならない理由は、そこにある。
  筆者が、「日本政治思想史」講義において「追創造」・歴史と現在の対話からなる「地平の融合」・「読みかえ」の契機を重視しつつ、通史的に日本の政治的「伝統」の解釈を試みる一方で、研究では依然として、明治維新以前の「旧体制」に生き、のちに忘却された思想家たちを現代に「呼び起こす」作業に従事するのはなぜか。
  演奏史におけるメンデルスゾーン指揮の「マタイ受難曲」蘇演(1829年)が18世紀半ばに没したJ.S.バッハ再発見につながり、20世紀はじめのカザルスの演奏が「無伴奏チェロ組曲」再評価の契機となったことを想起するのは、あまりに不遜に過ぎるかもしれない。しかし、新たな対象の再発見と政治言語の再現によって、日本の思想的伝統に新しい解釈が生まれる余地は、なお大きいのではないだろうか。  

 
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