議論の本筋がずれている。介入の倫理が定まらぬ中、法形式主義と国際社会追従論に引っ張られ、本来すべき議論がなされていない。
火に包まれている家屋に消防隊員は入るべきか。そのとき議論すべきは、消火や救出を授権する決議や法令か。アフガニスタンの国際治安支援部隊(ISAF)参加を巡る議論は、憲法や国連決議にばかり気をとられており、このような比喩を想起させる。
同様に、そのような状況で家屋に入れという周り(いわゆる国際社会)の声は的を得ているか。闇雲に中に入ればいいというものではない。火はどの程度回っているか、家屋の構造を把握しているか、使用する消火剤は適切か、それはむしろ火に油を注いできたのではないかなど、重要な検討課題が軽視されている。
いまここで改めて、ISAF参加の是非を巡り、議論の本位を定るべきである。具体的には、法的正当性や国際社会の動向だけでなく、現状把握から出発し、参加の効能から考え直す必要があろう。特に、アフガンの現状と現地の利益、ISAFの成功の見込み、日本の能力と参加リスクの3つの観点が大切である。そこから導き出される結論は、ISAF参加への反対である。
第一に、現在のアフガンは、統治能力を失いつつある危険地帯である。タリバンは息を吹き返した。それは、宗教原理主義、反米感情、そして民生悪化を栄養素に勢力を回復し、国土の三分の一を抑え、カブールに迫っている。多数派であるスンニ派のパシュトゥン人を主体とするタリバンは、シーア派の他部族を蔑視しており、内戦は激化している。同じくスンニ派のアル=カーエダは、そのような構図のもとで指導層が生き延び、タリバンや英仏のムスリムに戦術・訓練を授ける一方、世界各地で自生的に組織されるイスラム原理主義運動にブランド化して影響力を及ぼし続けている。
無視できないのは、タリバンやアル=カーエダの復活を後押ししているのがパキスタンとその情報部ISIだということである。タリバンの拠点は、パキスタン領内でパシュトゥン人が多いクェッタと北西部ワジリスタンだ。特に後者の山岳地帯をパキスタン政府は抑えられていない。それどころか、今年七月の神学校への強行突入を経て、ムシャラフ大統領の権力基盤は流動化しており、対テロ戦争の拠点としてのパキスタンはますます当てにならなくなっている。米国は、ムシャラフ大統領とブット元首相との間の親米世俗化連携によりてこ入れを図っているが、ブット氏帰国直後の自爆テロに見られるように、それはさらに内部対立をあおっている。
第二に、ISAFが成功する見込みは薄れている。まずその前提たる「国際社会」は一枚岩には程遠い。英国は自国でのテロを警戒し、テロ情報を得るのにISIに頼らざるを得ない。従ってタリバンへの態度には、英米間にすら温度差がある。また、ISAFの枠内でカナダやドイツ等に多くの犠牲者が出ている(各々70人、20人超)。当然これらの国は、治安維持を目的とする部隊が何故これだけの犠牲者を出すのか訝しがっている。そもそも、2001年末にトラボラ渓谷で捕捉可能だったビン=ラディンらを逃がし、そののち大義のないイラクへと優先順位を移し変え、いまなお空爆・拘束・拷問によりムスリム世界に反米感情を植えつけ続ける米国の尻拭いを何故させられるのかという不満も大きい。
他方、当初小規模だったアフガン駐留多国籍軍は、今年初めには3万3千強のNATO軍(含む1万4千の米軍)とその指揮外の米軍約8千人にまで増強され、その後も増えている。加えて4万のアフガン国軍が7万へと増員する手はずになっている。注意すべきは、にもかかわらずタリバンの約8千の兵を抑えられないという事実だ。現地の最も権威ある情報源であるA・ラシッドによると、昨年末、パキスタンの外務大臣はNATO加盟国の外相に対し、タリバンは勝利しNATOは失敗するだろうと伝えるに至ったという。
これらは、アフガン政府や国際社会がアフガン国民の人心をつかめておらず、6年以上に及ぶ軍事偏重のテロ対策が破綻しつつあることを物語っている。
第三に、こうした傾向を日本のISAF参加が反転させうるか。それは、控えめに見積もっても困難なことである。もしできたとしても、その人命上、財政的なコストは莫大なものとなろう。まずISAFに自衛隊を派遣する場合、先述のような状況から、犠牲者が出る確率は相当に高い。アフガン情勢を一変させるような大規模派兵をすれば、それだけ犠牲者は増える。たとえ軽微な兵站輸送にかかわる参加であっても、これまで培ってきた民生大国としての「美しい誤解」(伊勢崎賢治)は消失し、より直接的に米軍と一体化した存在として、民間人を含め、標的にされるに違いない。このリスクは、ISAFに民生支援の形で参加しても余り変わらないだろう。工兵・衛生隊を派遣した韓国の例に見られるように、韓国籍の民間人は殺害・拘束の対象となっているためである。
これらのリスクを避けるのは、針の穴に糸を通すような作業となる。日本はそのための外交インテリジェンスを持ち合わせているのか。学者、元国連政務官、外務官僚、元自衛隊員、あるいはジャーナリストを総動員しても、現地の言語や部族に精通した人間はそう多くない。19世紀以降英米ソなどの大国を手こずらせた誇り高き地のアフガンに介入するにあたり、日本の知的・外交インフラには一抹の不安が伴う。
さらに、ISAFへの参加は、実質的に現地の利益になってきた日本人の活動を邪魔し、その最前線で働いている団体の立場を危うくする。ペシャワール会の中村哲医師は、現地益になる作業(例えば灌漑)に従事するとき、住民は守ってくれるという。そうしたときの日の丸は、従来ポジティヴな象徴であったのだが、イラク戦争(への参加)を契機に、それはネガティヴに転じた。治安が悪化する現在のアフガンにおいて日本政府がISAFに参加すれば、しわ寄せが行くのはこうした市民社会の地道な活動だ。国際社会なる場からの感謝を語る前に、現地住民の感謝がどこに向けられているのかをまず考えるべきである。その際、ISAFと現地益とのギャップから目を背けてはならない。
以上からいえるのは、介入の是非をめぐる議論を、法的正当性や国際社会の支持に還元すべきでないということである。仮に憲法と国連決議の双方に合致していたとしても、介入してはならないときがある。その介入が現地益にならず、むしろ害になり、自らが負うリスクを徒に増大させる場合である。
小沢一郎民主党代表が政権掌握後に実現すると明言したアフガンのISAFへの日本の参加は、まさにそうしたケースに他ならない。それは、国連の決議に基づく分、法的正当性の高いものとなろう。と同時にそれは、現地の情勢把握から出発し現地益の考慮やリスクの計算を尽くしたものではなく、むしろ湾岸戦争時のトラウマから抜け出すために編み出された法的思考を映し出している。
もちろん、小沢氏が提起した問題には奥行きがある。現行憲法の下で、国連の授権があるとき、日本は国際平和のために何をできるのか。この問題提起は、一方で平和主義と九条を孤立主義的に解釈してきた勢力に再考を迫る。他方それは、法的基準を明確にすることで、国益の名の下に米国益に追従し、詭弁を弄して無原則に自衛隊を海外へ送り出す論者への有効な反論ともなる。しかしながら、日本のISAF参加は、益が乏しい割にリスクが大きく、現実には機能しない、政治的に愚かなシナリオだ。実際の参加決定は、時の政権の「政治判断」によるという小沢氏自身のことばに忠実になるのならば、ISAF参加のような枢要な政策構想は、その政治判断の基準を示しつつ提案すべきではなかろうか。
なお付言すれば、洋上給油については、右記から直ちに、ISAF参加よりましで、だから実施すべきだということにはならない。それはそれで、国連決議のような法的正当性と、アフガン現地や国際社会への実質的効果(や逆効果)の観点から、改めて検討するべきだ。幸いまだ時間がある。今こそ、ISAF参加の是非につき、議論の本位を定るときである。
*小沢一郎「今こそ国際安全保障の原則確立を」(「世界」11月号掲載)
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