『旧約聖書』(中沢洽樹訳)中公クラシックス、2004年(もともと『聖書』中公バックス・世界の名著13、1978年所収)
犬養道子『旧約聖書物語』(増補版)新潮社、1977年(もともと1969年)
旅先でアッシジを訪れた誰もが立ち寄る大聖堂で、駆け出しの大学院生だったわたしはジォットに見入っていた。声をかけてくれた日本人の神父さんは、たいへんにやさしい人だった。ローマに向かう道中をご一緒したこともあり、貧乏学生をテルミナ駅そばのピッツァリアに連れて行ってくれた。
けれどもいまにいたるまで最も鮮明に覚えているのは、フレンドリーな会話の間ただいっとき緊張した場面である。その神父さんは、「ところで君はキリスト者なの」と尋ねられた。わたしは、当時ベルギーの大学街にあって確かに道ばたで佇むマリア像に感じ入り、神学部の図書館で見たこともない巨大な蔵書を眺めては一人おののいていたものの、信者ではなかった。どこか照れかくしもあり、和英辞典から直接抜きだしてきたような横文字で「アテイスト(無信教徒)です」と答えたのだが、そのわたしを待っていたのは「アテイストっていうのは大変なことなんだよ。君はそういえるほど毎日神を信じないという努力を払っているのかね」という衝撃的な再問だった。
八百万の神の世界に無意識に身をおいていたわたしは、この瞬間、神を信じ畏れることの激しさと、その裏返しとしてのアテイズムの緊張感を垣間見た。爾来、カトリシズム、キリスト教、そしてひろくイスラム教やユダヤ教を含めた一神教が頭から離れない。
そののち手始めに、おずおずと聖書をめくってみた記憶がある。いくばくか説教臭い『新約聖書』の世界に深く入り込むことはなかった一方で、不条理なドラマに満ち、神の峻厳さに触れることのできる『旧約聖書』には惹きつけられた。正確に言うと、その世界にいざなってくれたのは犬養道子の『旧約聖書物語』であり、それを手引きに中沢洽樹の達意な訳による『旧約聖書』をひもといたのである。
いうまでもなく、犬養は日本における有数のカトリック知識人である。国際政治の世俗的な出来事に目を奪われていたわたしは、おそらく大学3年次に初めて、彼女の名前を難民関係の小冊子(『飢餓と難民』岩波ブックレット、1988年)で目にしたのだと思う。そのうち、留学先でECの研究をしていた時に出会った『ヨーロッパの心』(岩波新書、1991年)は心に沁み入るようだった。そこには、人によっては鼻につくほどにまで、カトリシズムが色濃く映し出されていた。アッシジに出向いたのはそんなときだったか。
あれからかれこれ20年近く。この間、宗教はいたるところで原理主義化した。ムスリム同胞団、ヒンドゥー・ナショナリズム、キリスト教福音主義などなど。これは、国内政治においてリベラルな政教分離を掲げ、国際政治において国ごとに宗教と国制を決め不問とする体制となった近代という時代への反逆に他ならない。気がついたら、宗教は国内外を問わず政治のリアルなトピックになってしまった。
宗教、とりわけ一神教へのあこがれは薄れた。他方、あのどこか穏健で主知主義的なカトリシズムへの思い入れは、なぜか残ったままである。かつて漱石が、仏門の前に佇むばかりで中に入り込めなかったように、聖書と教会はそばにあり、まだまだ遠い。
(『外交フォーラム』No. 246、2009年1月号、103頁)
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