情報化される個人とその管理
昨年の北海道洞爺湖サミットの際、当時札幌にいた私は、島根県警の若い警官が、自宅のテラスにロケット弾がないか捜索させてくれと尋ねるのを見て仰天した。中国領事館の近所という事情もあるのだろうが、いくらなんでも長年平和裡に暮らしてきた住民に対してやりすぎだろうと追い返したのだが、このとき感じた、国家権力に侵害されるプライバシーへの懸念は、随分と古典的なものらしい。
社会学者の著者によれば、最現代のプライバシーは、社会の変化を背景に、変容し比重を移した。それはかつて、他者(先の例だと国家)から個人の私生活を守るべく語られた。しかし今は違う。守るべき対象は個人の手から離れている。それは個人情報として、どこかのデータベースに分散して保存されているのだ。
重要なのは、今日のプライバシーが、そうして他に散逸した自己の分身(データ)を個人の制御のもとに取り戻すというよりもむしろ、その情報の適正性と安全な管理を問うものとなったことである。確かにわれわれは、いまや多くの場合、監視カメラ(CCTV)が知らぬ間に映像を撮ったり、ヤフーやグーグルなどのネット関連企業が膨大な量の私的メールを扱ったり、クレジットカード会社が購買情報を蓄積していることにあまり頓着しない。困惑し怒るのは、その個人情報が漏洩されたり、間違って自他が混同された場合である。ここで守るべき聖域として意識されるのは、かつての個人の私生活ではなく、個人の手を離れて偏在する個人データそのものなのだ。この変転の背後には、監視や管理を他者に求めるポスト近代人の心性がある。一人暮らしが増え、近所付き合いが希薄になるなか、逆に社会や政府へ安心を求めるのだ。それは、かつてプライバシーの牙城であった親密圏の監視をも意味するだろう。
自分個人は自分で作る。そんな近代の前提を本書は揺るがす。「自分」は、データの束となってどこかで作られ認識されている。ポスト近代人にとってそれは安心のもとでもある。このポスト・プライバシーの世界は、守るべき伝統的な個人像からでなく、情報生産の観点にたって初めて活写されうる、と著者は説く。含意の豊かな、実に考えさせられる一冊である。
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