希代の論客に潜む、一抹の危惧
著者の宮台は、いうまでもなく現代日本における希代の論客である。書き下ろしの本書であつかう論点は、ナンパにおける無害さの効用から農業安全保障の重要性、ロスジェネ論者の浅薄さから裁判員制度の危険に至るまで縦横に広がり、鋭い洞察がいたるところに散見される。
この著者はまた、華麗なレトリシャンでもある。煌びやかなキーワードの提示、目も眩むような概念の操作、眩暈のするような抽象・具体レベルの乱高下に圧倒される読者が多いに違いない。なかには、某アザブ高校出身者にありがちな、溢れるまでの自信が気になる人もいよう。しかし、それはあまり重要ではない。
いたって真摯な本書の視線は、底の抜けてしまった日本社会の再建の一点に注がれる。それは、国土や農村、したがって社会の荒廃をいかに反転させ、システム世界の浸透に対して生活世界を再構築し、信頼ベースの包摂的な関係性を取り戻すかという―著者いわく柳田國男的な―問題群と地続きである。
われわれが生きるポストモダンの再帰的性格は、共同体をはじめあらゆるものの自明性が失われることを意味する。すべてが恣意性に満ち、相対主義がはびこり、価値へのコミットメントが希薄化するとき、それを重々知りながら社会と現実に対するコミットメントを作り直さねばならない。
そういう著者が注目するのが、利他的な本当にスゴイ奴の感染的模倣(ミメーシス)の力、あるいは死や子育てや教育の現場における肯定的な世界体験の重要性である。そのような処方箋を通じて、社会全体が個人へ価値コミットメントを埋め込み(「社会化」)、ちょっとやそっとでは路頭に迷わない包摂型の大きな社会を樹立するのだ。そうすれば社会は(再び)回るようになる。
他方、著者の中では首尾一貫しているのだが、そのような社会(再建)へのコミットメントは、国家への貢献という(失われた)エトスとも接続する。重武装し、憲法改正することで、米国への追従をやめ、そうすることで初めて国土と社会の回復が可能となると説く。
しかし、社会化(利他性の道徳感情の刷り込み)の単位を日本国家に固定した上で価値コミットメントを奨励し、他国(とりわけ米国や中国)との泥沼の争いを引き受けるとするとき、それは機能的には、(競争的あるいは闘争的?)ネーション再建とさして変わらない。この最後の点で、ゆとり教育の推進過程での判断ミスを認めるこの天才的論者が、再度間違えていない保証はどこにもない。
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