冷戦とその終焉を単純な勝ち負けの論理で語ってはならない。変革のプロセスの多様性と多層性を見つめながら、私たちが忘れ、誤解し、あるいは避けてきた論点――歴史とユートピアを鮮やかに描き出す。
「経験はあることが何で構成されているのか教えてくれるけれど、それが他の何かで構成される可能性がなかったかどうかを決して証明しはしないのだ」(カント) |
筆者が初めて海外へ出たのは、大学2年生の1986年夏、ソ連に旅立ったときだった。ドストエフスキーの小説がもつ陰影にひかれ、なぜか憧れたシベリア鉄道に乗りたくて、チェルノブイリの後遺症も気にせずに、横浜から船でナホトカに向かった。
当時は、ゴルバチョフ書記長によるペレストロイカ(改革)が緒についたばかりで、まだアルコール規制などが巷で話題に上っていた時期である。たしかに、屋根のないディスコとやらを訪ねると、目の前でウォトカの密売人がつかまった。
半ば管理下にある旅程をこなすなかで、不思議な通訳の日本女性に会った。その女性は「ソ連はいい国です。いい国です」と通訳の合間に繰り返すのだった。しかしその傍らで、ソ連の若者が(当時最新鋭の)ダブルカセットデッキやウォークマンに文字通り群がってくる。バイカル湖に同行した東ドイツの旅行者は、お互いのカメラを見比べ、首をすくめては自虐的なジョークを連発した。
消費への渇望と公式のレトリックとのギャップは、「この国、持つんだろうか」という程度の会話にはつながった。もちろん、商品であふれる日本の尺度で測るな、と何人かに帰国後たしなめられた。だが3年後、動乱のニュースに接した時、ずっと引っかかっていたこのギャップがまっさきに頭に浮かぶこととなる。
何が終わったのか
1989年秋から始まった2年にわたる変動は、世界の風景を劇的に変えた。これは「革命」の言辞にふさわしい。
それは、ちょうど200年前のフランス大革命に比べると、(ルーマニアなどを除いて)おおむね平和裡に終始し、J・J・ルソーに相当する急進的な思想家に動かされたわけでもなかった。ふたを開けてみると、旧体制のエリートが新体制に移行していた例にも事欠かない。それゆえ、「改革命(リフォルーション)」(ティモシー・ガートン=アッシュ)ともいわれる。
しかし、1989年11月のベルリンの壁の崩壊、同年末までドミノ状に続いた東欧共産主義政権の崩壊、90年のドイツ統一、91年末のソ連の解体に至る一連の過程は、それ以前の70年ものあいだ共産イデオロギーの総本山だったソ連、40年に及んだ米ソ冷戦と体制競争、そしてヨーロッパとドイツの東西分断を終焉させたのである。
なかでも、米ソを頂点とした軍事的な東西対立は、核兵器による大量破壊のリアルな可能性と背中合わせであった。冷戦中長らく続いたその状況を振り返り、元米国務長官のヘンリー・キッシンジャーは、「何千発もの核ミサイルがお互いに向けられていた時代に郷愁など感じようがない」とかつて発言した。この冷戦を「平和」と形容する論者が多い中、その回想は真に迫っている。
冷戦は、単に力のある二国家の対立ではなかった。それは、お互いに普遍的なイデオロギーによって武装され、世界各地の内政にまで介入し、自陣営のイデオロギーを輸出する用意のある二国の体系的な対立だったのである。
したがって、この対立がなくなったとき、影響を受けなかった地域は世界のどこにもなかった。国内外を問わず、戦後の前提の多くが一瞬のうちに蒸発した。
どう終わったのか
それはどのようにして起きたのか。この20年、旧ソ連・東欧諸国の公文書が相当開いたこともあり、われわれは今や多くのことを知っている。
たとえば、1989年11月17日のチェコスロバキアで、最初に「撃たれた」とされる「学生」は、実は体制内改革派の指示で倒れたふりをした秘密警察の人間であった。このでっち上げの「事件」をてこに、共産党の改革派は守旧派との権力闘争を有利に進めようとしたのだ。彼らの誤算は、ベルベット革命に向かううねりの強さを見誤っていた点にあった。
しかし、こうした個別の知識の増大はけっして「あの革命」の解釈の統一を意味しない。一方で、アメリカにおける新保守主義者(ネオコン)たちは、冷戦に勝利したと考えた。ここでは、レーガン大統領の大軍拡に、経済で行き詰ったソ連がついていけなかったのが「勝因」とされる。
他方で、いわゆるリベラルな論者は、市場の浸透力、産業競争力や技術革新といった経済的要因の重要性を強調する。これは確かに、わが目で見た東側市民の消費や富への渇望と符合する。またリベラル派は、ヨーロッパ内のデタント形成能力と国際的な組織の影響力にも注目する。筆頭に挙げられるのが当時の欧州安全保障協力会議(CSCE、現在の機構OSCE)であろう。巧みに忍び込ませた人権バスケットや関連規定が、東側諸国の反体制派を勇気づけ、逆に抑圧的な体制から正統性を奪う役割を果たしたとする。
国内の要因を重視する人たちの間にも、当然に解釈のばらつきがみられる。非暴力による、下からの自発的な運動を強調する市民派は、1980年代を通じて実践されたポーランドの自主労組「連帯」の意義を高く評価するだろう。政労間でもたれた「円卓(会議)」という手法は、その後世界中で非暴力的な体制改革の象徴となった。これは、フランス革命の象徴が「ギロチン」だった点と好対照をなす。この平和的変革の契機を重視すれば、東欧革命は、いわば「革命(手法)の革命」(ガートン=アッシュ)でもあった。
これとの関係でもうひとつ革新的だったのは、この革命、とりわけベルリンの壁の崩壊に至る過程が、アルベール・ハーシュマンのいう「退出(exit)」により本格化したことである。プラカードを掲げ、「声(voice)」を上げて、武装警官や軍隊と衝突する伝統的な「革命」もみられたが、東ドイツの国民がハンガリー経由でオーストリアに脱出したことが、壁の崩壊の引き金を引いたのだった。このとき、東ドイツという国家は見捨てられ、人の流出による出血多量死を迎えつつあった。
ほかにも忘れるわけにいかないのが、「ゴルバチョフ要因」(アーチー・ブラウン)である。1985年の書記長就任以降ゴルバチョフがもたらしたものは数多くあるが、1989年末以降の革命にひきつけていえば、二点が決定的に重要である。一つは、1987年初夏のウラジオストック演説である。万国の労働者の連帯と解放を基礎とする階級史観はここに後景に退き、核や環境などの地球的問題群が前景に躍り出た。それは、人類共通の利益という(資本家と資本主義陣営をも貫徹する)紐帯を指さしていた。これは、米ソ対立の体系性を形づくったイデオロギー対決が終焉したことを強く示唆したのである。
もう一つは、1988年に定式化されたいわゆるシナトラ・ドクトリンである。それによれば、東欧諸国は自らが信じる道を行けばよく、一つひとつモスクワにお伺いを立てる必要がないとされた。長らくソ連の支配下にあった旧東欧諸国が、1950年代半ばのスターリン批判の後とは状況が異なってソ連が本気で各国の自主性を重んじるのだ、と信じるまでには時間も必要であったが、その認識は80年代後半に徐々に広がっていった。上記のような東欧諸国の市民社会の活性化も、あるいは市民の国外「退出」も、こうした外部環境のなかでフルに開花することになるのである。
国内と国際の双方におけるこれらの要因が共鳴し、この革命がおおむね平和裡に進行することを可能にしたといえよう。加えて、1989年6月の天安門事件を念頭に置きながら、東欧諸国の指導者の多くは、政権・在野を問わず、非暴力を意識していた。またソ連による一方的な軍縮や(特に東独における)暴力行使の抑制は、前述のシナトラ・ドクトリンとともに、平和的な体制移行を後押ししたのである。
ソ連・東欧革命は、こうして複数の要因が重なることで引き起こされた。その解釈に決着がついていないのは、フランス革命の歴史的解釈の確定が20世紀後半でも「まだ早すぎ」(周恩来)たとすると、当然のことかもしれない。
ただし留意すべきは、こうした革命解釈の相違が、象牙の塔での論争をはるかに越えて、実際の政策に大きな影響を与えることである。市民社会の復権、「民主主義の平和」(ブルース・ラセット)、国連ルネッサンス、あるいは地球的問題群など、冷戦後の世界はこれらの解釈から派生したアジェンダに事欠かなかった。他方で、解釈の多様性(と現場で起きていることの複層性)に対する感覚のないネオコンのような勢力が、21世紀に入ってイラク侵攻にまでたどり着いたのは、記憶に新しい。
何がどう変わったのか
――帝国とグローバル化
収縮する超大国としてのソ連は、冷戦終結後しばらくの間、もう片方の超大国アメリカのパートナーのようであった。イラクのクウェート侵攻に伴う湾岸危機の当初、先代のブッシュ米大統領とゴルバチョフ・ソ連大統領、ベーカー国務長官とシュワルナゼ外相は、それぞれ盟友のように振る舞っていた。
しかし、ソ連は急速に分解し、とって代わったロシアでは、エリツィン大統領のもとでしばし国内改革に目を向けざるを得なくなる。欧州共同体(EC)は欧州連合(EU)に衣替えする最中で、やはり内向きだった。一時冷戦の真の勝者とも謳われた日本は、たしかにバブル経済の絶頂期にあったが、政治的・軍事的な野心を持たなかった。
ライバルのいないアメリカもまた、とりわけクリントン民主党政権のもと、軸足を自国経済の発展に移していった。内向きの経済中心主義は、外に対する攻撃的な貿易政策に容易に転化された。のちのブッシュ共和党政権が一国行動主義の代名詞になったことから、今からだとかすんで見えるが、このクリントン政権もまた、スーパー301条の活用などにみられたように、十分に一国主義的であった。
両超大国が引いていった地域では、エスニシティの岩盤が露出し、ユーゴスラビアをはじめ、各地で凄惨な民族紛争が続発した。これに対し、唯一の超大国アメリカは選択的に介入し、その正統化にあまり頓着せずに都合よく国連や北大西洋条約機構(NATO)などの場を使い、いわゆる「フォーラム・ショッピング」を繰り広げた。この過程で、冷戦終結直後に存在した国連ユーフォリアは徐々に消え、人道的介入への期待も薄れていった。
逆に、アメリカの一極支配は、徐々に誰の目にも明らかになる。水面下では、軍事革命(RMA)が進行し、この分野では他国の追随を許さなかった。スーパー・パワー(超大国)は、いつのまにか「ハイパー・パワー」(ユベール・ヴェドリーヌ仏外相)となっていた。
植民地支配の消滅とともに後景に退いていた「帝国」というタームが復活したのは、この文脈のもとであった。一時注目されたアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『帝国』(原著2000年)の大部分は、後代のブッシュ政権が誕生する前に執筆されたのである。もちろん、誕生後の同政権は、ネオコンの跋扈ともあいまって、「帝国」言説のインフレーションをもたらした。
しかし、その「帝国」ブームの絶頂期に起きた9・11同時多発テロ事件とその後の展開は、「帝国アメリカ」の基盤を深く掘り崩した。
まず9・11は、その直後に世界中からアメリカに向けられた同情心と直後からみられたアメリカ自身のすさまじい攻撃性の影に隠れていたが、大きな転換点をなしていた。なぜならば、それまで1世紀にわたり問題を抱える外地へ救済に出ていくとされていたアメリカが、自ら攻撃され他から助けられる存在になったからである。またそれは、RMAなどの革新に軍事的にキャッチアップするのが困難でも、テロリストが安価で深刻な脅威を作り出すのが十分に可能なことを劇的に見せつけた。
その後、周知のように、イラク戦争では大義とされた大量破壊兵器が発見されず、グァンタナモやアブグレイブ基地での不法な拷問・拘束が明らかになるにつれ、アメリカは「正しさ」イメージを喪失していった。さらに、ハリケーン・カトリーナは、同国の社会的惨状を世界にさらした。そして最後にとどめのように、アメリカにおけるサブプライムローンに端を発する世界恐慌が起きた。これは、それまでの通貨危機がアメリカの外で起き、「ワシントン・コンセンサス」で処方箋を描いていたのと、根本的に構図を異にする。
軍事、政治、経済、社会にまたがるこれらの出来事はどれも、アメリカが最強・最良モデルではなく、むしろ世界の深刻な問題の一部であることを示した。
もちろん、アメリカほどその「終焉」や「衰退」を語られ、そのたびにそうではないことを証明してきた国もないかもしれない。いまだにアメリカは、軍事から経済や文化までのさまざまな指標で比類なき資源を抱えた国である。さらに、ブッシュ政権の後を襲ったオバマ大統領は、その身体・表現・人格をもって、失われた「正しさ」の回復に部分的に成功したといえよう。しかしながら、アメリカはもう十分に傷ついた。皆がついていこうと考える存在でなくなったとき、「帝国」の帝国性は失われている。
一極集中の時代が短命であったのは、他の要因にも依っている。まもなく世界第二位の経済大国となる中国、石油をはじめとする諸資源と経済成長をバックに自信を深めるブラジル、そして同じく高度成長を続けるインドなどのいわゆるBRICsの台頭がそれである。もともと「帝国アメリカ」にあっても、世界の隅々にまで一方的に法を科すことのできるほど強力な存在ではなかったが、こうした新興国の存在はそれをますます困難にする。
EUもまた、市場と通貨を統一し、外交安全保障や司法警察協力に権能を広げ、メンバーを旧東欧にまで拡大し、一国では得られない影響力を全体として高めてきた。もちろん、イラク戦争のような死活的に重要な局面でみられる分裂傾向や民主的な正統性の問題などを内に抱えるものの、EUは世界政治経済の運営上、特にグローバル・スタンダードの設定やそれに伴う規制といった場面で、無視のできない存在になりつつある。
これらのBRICsやEUの台頭は、世界経済のグローバル化のなかで起きた現象でもある。実際のところ、冷戦終結後の20年間は、帝国同様、グローバル化の時代でもあったのである。
グローバル化は、ヒト、モノ、金、情報、疫病などあらゆるものが「より遠くへ、より速く、より安く、より深く」(トーマス・フリードマン)越境してゆく現象を指す。これがまったく新奇な現象かどうかは疑問なしとしない。はるか以前からこれらは越境してきたし、それをどう管理するのかという制度枠組みの模索も19世紀から本格化していた。ヨーロッパ主要国の貿易依存度などの指標を取っても、第一次大戦以前の相互依存の水準は非常に高かった(その水準に戻るのは1970年代のことである)。したがって、グローバル化を最現代の現象とだけ意識するのは、浅薄な印象を免れない。
ただし、それでは、われわれは太古の昔から同じようなグローバル化を生きているのかというと、そうともいえないだろう。越境の容量・速度・濃度の違いがそこには横たわっている。あらゆるものが瞬時にリンクする結果、かつて縁遠く周辺的と思われた他国・他地域の問題が、以前より頻繁かつ急激に世界共通の問題として浮上しがちだ。1997年のアジア通貨危機ではタイの通貨バーツが、2001年の9・11事件ではアフガニスタンにいたイスラーム原理主義者が、そして03年には中国南部の田舎から香港経由で重症急性呼吸器症候群(SARS)が、それぞれ世界的な通貨、政治、衛生の危機を引き起こした。08年以降の世界恐慌もまた、カリフォルニア郊外における借金だらけの家計が起点であった。
こうしてグローバル化時代にあっては、周辺や極小の単位におけるガバナンスが、大きな問題になる。SARSの場合、たとえばべトナムの病院や香港のホテルにおけるマネジメントのあり方が、世界中に影響を与える格好となった。それは、通貨危機の起点となったタイの金融市場のあり方についてもいえることであった。そこで生じた金融不安は、コンピューターのネットワークに乗り、投資ファンドや格付け会社などを介して、他の金融市場にあっという間に波及していった。
グローバル・ガバナンスは、こうしてリアルな課題として登場した。そこでは、脱領域的なマネジメントが要請され、他国の事柄であっても必要に応じて介入しなければならない。その結果、主権国家システムによる内/外の峻別があいまいになる。言うまでもなく主権国家システムでは、国内外で統治原理を変更する。国内は、管轄の対象であり、統御が行き届く(べき)世界とされるのに対して、国外は基本的に他国にゆだねられ、外交などの協調回路を除けば、統御不能ないし不可とイメージされてきた。ところが、グローバル・ガバナンスでは、その領域内外にまたがる現象に着目し、越境するアクターや場を奨励することで、全体を包摂しようとするのである。
先の例に倣えば、感染症の温床と疑われる中国南部は、国境の「外」にあるものの、グローバル・ガバナンスの「内」側に位置し、制御の必要に応じて規制や介入の対象となる。タイ金融市場における短期資本も、アフガニスタンのイスラーム原理主義者も、同様である。
越境する問題の対処には、多様なアクターで臨むことになろう。主権国家の政府機能は相変わらず大事でも、その上に国際機関が、下には市民社会や地方政府といった諸アクターが、統治を引き受けている。先の感染症の事例だと、世界保健機関、各国政府から病院、空港、大学に至るまで、全体として課題をマネージする統治構造(ガバナンス)が生成する。
誤解のなきように付言すれば、こうしたグローバル化やそのガバナンスの登場は、主権国家の役割低下とセットにして語られがちであるが、たいていの場合それは神話である。というのも、越境する問題群のマネジメントに国家は不可欠な中心アクターだからである。それどころか、問題が越境すればするほど、その問題をある領域内に閉じ込めておく門番の機能を当該国家に担ってもらわねばならない。その機能が果たせない国家は、脆弱・失敗国家とみなされ、外部からの勢力(大国であれ国際機関であれ)による再建ないし補強の対象となる。そうして浮上したのが、平和構築というテーマであった。同様に、他国家にガバナンス能力の向上を「教授」する仕組みもまた、包括的経済連携協定といった枠組みのなかに創り出されてゆく。
こうしてわれわれは、問題やアクターが拡散するグローバル化時代を、主権国家システムという、ますます重要な問題隔離・アクター集約のメカニズムを活用しながら、生きている。
何が終わらなかったのか
――歴史とユートピア
さて、冷戦終結によって終わったとされるが、そうではないテーマがある。それは、歴史とユートピアである。この二つの検討は、冷戦後に何が始まったのかを考察する手掛かりをも提供するだろう。
フランシス・フクヤマの「歴史の終焉」は、すでにサンドバッグのようにたたかれており、ここでそれを再現したいのではない。そもそも、批判の多くはフクヤマの主張の誤解に由来していた。彼は、ヘーゲル=コジェーヴに倣い、ソ連と共産主義の崩壊によって自由民主主義というイデオロギー闘争上の終着点についたと主張していたのだ。それに対し、特に解放された東欧における民族やエスニシティなどの経験的復権を指さして「歴史の回復」とし、「反論」しても議論はかみ合わない。
しかし、フクヤマが西洋哲学の伝統に忠実に、近代啓蒙思想を引き継ぐ形で、「歴史の終焉」を定式化した点を掘り下げるとき、「終焉」したのは何だったのか、歴史それ自体だったのか、それとも何か特定の歴史だったのではないか、といった疑問が生じうる。その結果、死角に入っていた現象もまたあったのではないか。
ここで具体的に念頭にあるのは宗教である。もともと、一つの神を信じる宗教には、神の意思を読み取り、現世での穏健な生に寄与するおおむね合理的な側面と、神への帰依という非合理的な側面とが同居するが、前者の側面は啓蒙思想の中に取り込みやすいのに対し、後者の側面の扱いは厄介なものとなる。
西洋近代の伝統では、この後者の側面が公的生活を脅かさないよう、内外で宗教を切り離す。すなわち、国内政治においては、国家が特定宗教によって左右されないよう、政教分離の原則が確立される。他方、国際政治においても、(ウェストファリア条約の通説的解釈によれば)国ごとに宗教と国制を決め、不問とする体制にいると了解されている。
しかし、宗教は至るところで原理主義化し、ふたたび政治の主題になった。ムスリム同胞団、ヒンドゥー・ナショナリズム、キリスト教福音主義など、内外における政教分離を無化する思想や運動は枚挙にいとまがない。とりわけ、イスラーム原理主義は、中近東における欧米の「占領」「介入」「浸透」「ダブル・スタンダード」など日々の不正義(感覚)を肥やしにして、近年膨張した。9・11はその延長上に起きたことである。いわば、近代という時代にいったん切り離した宗教から、いま逆襲を受けているのだ。
歴史が自由民主主義の終着点で終焉しなかったとすると、宗教イデオロギーによる挑戦を受けているからである。もちろん、前述のように、宗教が穏健化し、神の(善なる)メッセージを人間が読み取り、合理的に生きることで、再び自由民主主義に戻ってゆく可能性がないわけではない。じっさい、フクヤマは、9・11が起きた後も「歴史の終焉」テーゼを保持し続けているが、それは宗教を深刻な対抗イデオロギーとみなさない近代啓蒙の思考様式を示している。
なお、この問題が、冷戦終結直後のもう一つの黙示録的な課題設定であった「文明の衝突」(サミュエル・ハンチントン)と接続するかどうかは論者によって意見が割れる。ハンチントンによる「文明」の定義はあいまいかつ恣意的で、しかも彼の論考はフクヤマによるイデア論議と次元の異なる性格のものであった。また、この議論が冷戦後の対立軸を投機的に指し示すことで、敵対的契機を重視する右派を自ら助長するイデオロギー的な色彩を帯びていたのは間違いない。それとの関連でさらにいうと、文明間の対話可能性に道を閉ざしているのは問題である。ただし、ハンチントンが1993年の段階で、「文明」の最大の構成要素を宗教とし、記述の多くをイスラームに費やして、冷戦後の課題としていたことには留意が必要と思われる。
ともあれ、アフガニスタンのタリバンから、ヨーロッパにおける「自生(ホーム・グローン)テロリスト」まで、宗教原理主義は強靭に生き延びている。これが自由民主主義の対抗イデオロギーとなるのかどうか。ここに、今後の「歴史」を占う一つの重要テーマがある。
本当は何が始まったのか
――外交ユートピアを競え
冷戦とともに死んだとされるもう一つは、ユートピアである――これは最大の集団的誤解といってよい。というのも、ソ連と一緒に消え去ったのは、その裏返しのディストピアであって、ユートピアではないからである。
元来、ユートピアとは、現状における問題への鋭い批判をばねに、それを反面鏡のように映して描き出す「どこにもない世界」であった。そのことばの創始者であるトマス・モアは、自らの社会で羊が人間を食い殺す現状を描写し、それを反転させたものである。言ってみればそれは、現状との緊張の中で存在超越的なフィクションを抽出する知的営為なのである。
しかし、トマソ・カンパネラからフランシス・ベーコンへと脈々と続くユートピア文学の伝統は、オルダス・ハクスリーの『素晴らしき新世界』などに典型的に表れたように、20世紀にはおぞましい未来を描くディストピア文学へと変調する。いうまでもなく、背景には、全体主義、世界戦争、破壊力を増した科学技術などがあった。
ジョージ・オーウェルの小説『1984』や『動物農場』も、そうしたディストピアの潮流に位置づけられよう。それらが、スターリン主義の下にあるソ連をモデルとしていたのは周知の事実である。
ソ連解体と冷戦終結は、このディストピアの死を意味した。変わりゆく現状の問題点を鋭く観察し、それをばねに未来構想を描く行為が否定されたと考えるのは、ユートピア史への無理解がなせる業である。ところが、ユートピアは至るところで、せいぜいのところ現状を知らない能天気なお絵かき、作動しない未来図、はては全体主義と集団抹殺にいたる危険な設計図として貶められたままである。
このユートピアに対する否定的評価がどこよりも激しいのが、外交の世界であろう。それは徹頭徹尾経験的で、相手があり、従って流動的な、何らかの設計図を持っても決して作動しない世界である、と。そのようなものを持ち込めば、逆に国家と国民を危険な道へ招き入れる、とされる。
本当にそうであろうか。カール・マンハイムが述べたように、「ユートピアを消し去った時、人間は歴史を形作る意志、それとともに歴史を変革する能力を失う」のではなかろうか。
共産主義による抑圧に引き続いて、ネオコンによる世界変革に辟易し、左右にかかわらず設計図なるものへの疑義が宿るのは健全なことである。しかし、その反動なのだろうか。近年の外交や国際政治の教科書はみな、「経験」の契機を強調する。「進歩」や「改善」は禁句となり、「責任」のことばの下に「継続」を一斉に志向する、「軽い全体主義(Totalitarianism-Lite)」に陥っているようにさえ見える。皮肉なことに、「経験」を検証するはずの外交史・国際政治史研究の一部は、過去から材料を都合よくひきはがし、「理想的」な外交官や政治家を祭りあげるロマンティシズムに陥ってはいないだろうか。
一度立ち止まって問うてみるべきだろう。「継続」で本当にいいのだろうか。沖縄に集中した米軍基地、中国の台頭、北朝鮮による拉致や核兵器、宗教原理主義の強靭性、地球問題の重要性の増大などの問題は、過去からの「継続」で対処可能かどうか。ユートピア殺しの旗印のもとで、「経験」の重要性(のみ)を説き、「進歩」への期待を戒めることが、「大人」の論調としてもてはやされる一方で、現状の問題を自己永続化する方向に作用しないかどうか。
実のところは、現状を精査し、そのネガを描くユートピアの努力なしに、現状の問題を乗り越える契機は見出せないのである。すでに核廃絶、地球環境、東アジア共同体などのテーマが議論の俎上に載っている。それらは、現状が抱える問題点との関係で、ばらばらに提示されるべきではない。沖縄の基地も北朝鮮の核も中国の軍事的台頭も、世界的な軍縮やガバナンス、あるいはまた地域構想の絵のなかで位置づけ直すべきである。そうしなければ、沖縄が典型例だが、アメリカとそのアソシエーツが戦後綿々と蓄積してきた「経験」イデオロギーに、あっという間に飲み込まれていく。
真の外交ルネッサンスはユートピアを競うところから始まる。それらは二律背反ではないのだ。政権交代は絶好の機会を提供している。冷戦後20年が節目になるかどうか、まだまだ未来はオープンである。
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