対米同盟に求められる覚悟と戦略とは
アメリカとどう付き合うか。誰もが考える難題である。
その前提としてよく言われるのが、アメリカは振り子のように振れる国だということだ。ネオコンの世は長くは続かない。たしかにオバマがやってきた。
だからいまはおおむねよい。しかし、この言説はアメリカが再び逆に振れるということをも意味する。宗教的保守主義の根強さをばねにして、2〜3代に1代の大統領は、初期のレーガンや9・11後のブッシュのように、軍事力を振りかざし、自国が善と考えることを外に投射するのだろうか。
アメリカが落ちぶれゆく衰退国なら放っておける。かつてもいまも、アメリカはいたるところで「衰退」を語られてきた(最近の例だとポール・スタロビン『アメリカ帝国の衰亡』新潮社、2009年を参照)。しかしかの国は、誰もが知るように、軍事、経済、文化などの指標で、いまだに圧倒的な資源を抱える。
だとすると、この国との付き合いが重要視されるのは当然のことだ。日米安保を不可変・不可欠な月や川のように実体視するためではない。かの国がまずい方向に振れるとき、他国、とりわけ同盟国は振り回されるからである。
その際、必要なのは、帝国の力をリアルに見極め、何ができるのかをきちんとサバ読むことであろう。やや神話化された感があるが、かつての外相の椎名悦三郎は、アメリカを「番犬様」と呼んだ。帝国の尻に敷かれてなお平然とし、それを利用しいなす文化は、どこかで消えうせてしまったのだろうか。
この日本で、多くの場合、アメリカとの付き合い方の手本となってきたのは、同国との「特別な関係」を自認するイギリスだった。
そのモデルによれば、アメリカが何をしでかそうと、他の同盟国に先駆けて支持する。そう振舞うことで、帝国の懐に飛び込み、それによって飼い馴らすのだ、と。
しかし、以前から不思議であった。それは破綻し続けたディスモデルではないだろうか。最近、細谷雄一(『倫理的な戦争』慶應義塾大学出版会、2009年、第6章以下)が詳細に叙述したように、イラク戦争時のブレアはまさにそれを試み、明らかに失敗した。
『同盟の相剋』を通じて著者の水本は、対米断絶と全面追従のあいだにあり、二枚腰、三枚腰の対米外交を繰り広げるイギリスを抽出してみせる。
場はインドシナ。時は、戦後から1960年代末。
マクミランは、(完遂する気のない)対米軍事協力をケネディに確約することで、ビルマ中立化に向けた外交余地を拡大した。それにより、すでに混迷を深めつつあった南ベトナムの問題(および介入を深めるアメリカ)から同国を切り離すことに成功したのである。
ヒュームからウィルソンに首相が変わり、ますますアメリカがベトナムへの軍事介入を強めるなか、マレーシア紛争を抱え、財政難のただ中にあったイギリスの苦悩は深まる。ウィルソンは、ベトナム派兵を一貫して拒否し、英米関係は極度に冷え込んだ。しかし他方で彼は、和平に向けて汗をかき、軍事対立の激化とアメリカの孤立の双方を緩和するよう尽力するのである。
ここから導かれるのは、対米同盟の長期的な持続のためには、時折訪れる不和や摩擦を、大局的な観点から耐えねばならないという覚悟である。それはまた、アメリカの振舞いのなかに、世界を不安定化させるリスクを見て取るリアルな認識を求める。これは、危ないと判断する軍事的冒険に命運を共にすることとは真逆の態度である。
忘れてはならないのは、イギリスが、対米関係における外交資源の構築にきわめて自覚的に取り組んでいる点である。
水本が重視するコモンウェルス要因はその一つであろう。(小さな国連と模される)コモンウェルス諸国との関係を後ろ盾にモノを言い、そのネットワークを外交に生かす。また、ジュネーブ会議の共同議長という制度枠も、イギリスがソ連という当時のもう片方の超大国を動かし、米英関係に集約されない足場を提供した。
水本は、膨大な二次文献を整理した上で、イギリスを中心とした外交文書を丁寧に読み込み、そのように説く。その際、ときに本場イギリスで展開される外交史研究を批判しながら、歴代のイギリス外交を政権横断的に内在的に理解するのである。
この第一級の外交史研究は、表層的なイギリスモデルの外交論と距離をとりつつ、日米外交を考える上で恰好の材料を提供する。同時期に出版された比較同盟論であり、先月号の本書評欄で取り上げられた森聡『ヴェトナム戦争と同盟外交』(東京大学出版会)とともに、ぜひ手に取ってほしい良書である。
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