ほぼ半世紀にわたる一党支配はついに終わりを迎えた。投票率も高く、事前の予想に対する「揺り戻し」もなかった、自民党の歴史的大敗は、新政権への期待の高さというよりも「反現状」の感覚がかなりの水位にまで達していたことを明らかにした。それは、ともかく現状を変えたいという気持ちの表れであり、民主党の掲げた「政権交代」は、人々のいだくさまざまな不満や要求の間に連鎖をはる政治的シンボルとして有効に作用した。
「選挙のときだけ人は自由である」と語ったのは18世紀のルソーだが、選挙の後、私たちはその自由をどのように維持しうるだろうか。この点について、今回の選挙には注目すべき要素がいくつかあるように思う。
一つは、社会保障を柱とする生活保障の制度への市民の関心と理解が確実に深まっているということである。この間の「構造改革」が社会保障と雇用保障を大幅に後退させ、貧困という言葉がリアルに響くまでに生活基盤を損なったことがもちろんその背景にある。不況のなかでも景気対策以上に市民が関心を示したのは、たんに生活をまもるだけでなく、教育機会の保障など、生活の展望をひらくことを可能にし、支援する制度の(再)構築である。会社や家族などの保護機能が低下し、政治によって生活が直接左右される経験を重ねるなか、市民は政治への感度を確実に高めつつある。この選挙は、「政治は二流でもかまわない」という時代の終わりを告げているように思う。
第二に、現状への否は、「官僚主導」「官僚依存」と形容される政策形成−利益分配システムの慣性に終止符を打ちたいという強い思いの表れでもある。このシステムが硬直し、すでに立ちゆかなくなっているという判断が、「政治主導」を掲げた民主党の勝因の一つである。この判断には、たんに政と官の力関係を変えたいというだけではなく、市民によるアジェンダ形成と政治家による意思決定の間に確実な連係プレーをつくりだしたいという期待と意欲も込められている。
今回の選挙では、各党が示したマニフェストにもメディアや有権者の注目があつまった。各党が政策を競うという要素が導入され、望ましい姿に一歩近づいたとはいえる。とはいえ、個々の政策を方向づけ、それらに整合性を与える政策理念は必ずしも明確ではなかった。マニフェストを重視するのであれば、その作成過程を公開し、公共の議論を喚起することが不可欠だが、それも十分ではなかった。そのため、たとえば児童手当の拡充が「ばらまき」と受け取られる面もあった。
政策理念とはけっして抽象的、観念的なものではない。それは、人々のどの要求を正当なものとみなすか、限られた資源を用いてどの政策の実現を優先するかの判断基準とその理由を示す思想であり、代表する者はそれをもって代表される者の意思(民意)にはたらきかけなければならない。それがなければ、マニフェストは受けのいい政策の羅列に終わる。
政権交代という標語によってはられた不満や要求の連鎖は間もなくほどけるだろう。これまでの包括的な要求充足のシステムに訣別した以上、自分の要求が思うようには充たされないことへの失望も生まれるだろう。それがシニシズム、他者への憎悪やルサンチマンに傾斜しないようにする新政権の責任は重い。またそうした不満にどのように応じるかについては、今後の自民党のスタンスも問われる。
精一杯働いても生活の見通しが立たないのはおかしい……。「これはおかしい」というさまざまな思いが、この選挙においては強くはたらいた。自分たちのいだく不満や憤懣の感情にどのような理由があるか、どのような期待がそこに宿されているかを解釈し、考えていくことは私たち自身の政治的責任でもある。互いの感情にはらまれている正当な期待と要求を明らかにし、それも政策形成につなげていくこと。「情」か「理」かではなく、「情がふくむ理」を汲んでいくことがこれからのデモクラシーの課題である。
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