1 はじめに
本稿掲載の『世界』が書店に並ぶとき、第22回参議院議員選挙の選挙戦も最終盤にさしかかっているであろうか。現在の連合政権構成が、参議院の政党布置によって規定されているところが大きい以上、この選挙の結果次第では政権連合の組み直しも十分にあり得よう。前回2007年の第21回選挙と同様、今回の選挙が衆参両院間での「ねじれ」を生み、政治的な混乱や混迷の開始を告げるものとなる可能性もないわけではない。あいかわらず日本政治は波乱含みであり、文字どおり「一寸先は闇」である。
しかし、筆者の見るところ、今日の日本政治は混乱や混迷からたやすく逃れられない運命にある。大物政治家の金銭スキャンダルや、政治指導者の思いつき的発言と場当たり的な逃げ口上や、連合政権内の不協和音や、強力な上院の存在による「民意」の二元化など、制度的であると非制度的であるとを問わず、いたるところに伏在する攪乱要因を除いても、標準設定〔ディフォールト〕として混迷含みなのである。なぜなら、単独政権と連合政権とにかかわらず、政権の主力をなすはずの民主党と自由民主党の二つの主要政党が、いずれも「理念」、あるいはドイツの社会学者T・ガイガーが「メンタリティ」との対照において語った意味での「イデオロギー」──それは、ある程度知的に構想され構成された、ユートピア的な色彩を備える将来構想であり、閉じた認知構造を提供するとともに、大衆動員や大衆操作の手段ともなるような、強力な信条体系である──を失い、与野党間で明確な理念的政策対立軸が形成されなくなっているからである。その必要性は、政治評論や新聞論説などで唱え続けられている。しかし、二大政党の大幅な入れ替え(あるいは自己変革)が必要となる以上、「理念なき政党政治」状況が一挙的に解消する可能性は極めて低い。おそらくことは、1回や2回の選挙でどうなるといった次元の問題ではない。
ただし世界的に見れば、「理念なき政党政治」は昨日今日始まった話ではない。公法・政治学者のO・キルヒハイマーが、旧西ドイツの社会民主党の変容を念頭におきながら、主要政党の脱イデオロギー化を指摘してから、すでに40年以上が経過している。むろん、あらゆる国のすべての政党が、一様に脱イデオロギー化しているわけではない。しかし、少なくとも先発デモクラシー国に関しては、単独で政権を担ったり連合政権を主導したりして、政党政治の基調を設定する主要政党──政治学者のG・サルトーリが言う「極」を構成する能力を備えた政党──の脱イデオロギー化は、政党研究者によっていまや確かな現象と受け止められており、逆にイデオロギー政党こそが一時的かつ例外的な存在であったとの指摘もなされている。これに対して日本の現状は、十分に理念を失った万年与党と、過剰なまでに理念的な万年野党のミスマッチが生み出した「普通でないデモクラシー」が解消し、ようやく「政権交代可能」な「普通のデモクラシー」として、世界標準に追いついたばかりというところである。
もちろん、日本における主要政党の脱イデオロギー化は、市民がこれまで下してきた選択が累積した結果である。とはいえそれは、1990年代前半に衆議院議員の選挙制度が小選挙区制中心のそれへと転換したことで、人為的に(しかし、すべて政治は多かれ少なかれ人為的である)大きく促されたとの指摘にも、あながち否定できないものがある。よって、いずれ比例代表制中心の制度へと改める、あるいは回帰する──かつての「中選挙区制」は、比例代表制的色彩を帯びていた──という制度改革構想は、根強く残るはずである。しかし、それはイデオロギー政党の存立可能性を高めるものではあり得ても、「理念を備えた政党政治」を生み出すものとは、にわかには考えにくい。単独で政権を担えるほどの大政党を目指すのであれば、選挙制度の如何にかかわらず幅広い市民からの支持を得なければならず、その際、固い「理念」は大いに邪魔となる。一方、各政党が大政党となることを諦めて「理念」にこだわれば、複数の中小政党による連合政権形成が不可避となるが、連合交渉の結果として、政権全体の「理念」は稀釈されざるを得ない以上、結局のところ「理念なき政党政治」の大幅な改善は期待簿なのである(それでもなお「理念」に固執する政党は、連合参加能力を失う)。
このように、「理念なき政党政治」状況の短期間での解消は、なかなかに難しい。そうであれば、われわれは「理念を備えた政党政治」という容易に叶えられない期待を抱き、当然のようにそれが裏切られるなかで幻滅を募らせるのではなく、むしろ「理念なき政党政治」を前提としながら、そのもとで市民としていかに政治を理解し、いかに政治的に振る舞うべきなのかを、いま一度よく考えてみるべきなのではないか。本稿の基本的な問題意識は、このようなものである。これは、一見すると敗北主義的撤退構想に見えるが、そうではない。現実を踏まえた政治構想の柔軟な練り直しであり、その結果として示されるのは、市民にかなりの高負担を要求するディマンディングな構想なのである。
ただし、その提示の前に、議論を可能な限り明確にするために、少しだけ原理的な話をしておかなければならない。
2 現代デモクラシー・選挙・現代民主政
本稿で使用するタームを確定し、いくつかの基本的な事柄を確認しておこう。
以下では、「政治」を、<特定の地理的領域内の住民を構成員とする共同体を拘束する決定を下すための、おもにその共同体の構成員による活動の総体>と理解し、この拘束的決定を「政治的決定」と、またこの政治的決定に縛られる共同体を「政治的共同体」と呼ぶ。そして、政治的決定に到達するためのルールや手続きの束を「政治体制」とし、「デモクラシー」をこの政治体制の一種と考える。
政治体制としてのデモクラシーには、「古典デモクラシー」と「現代デモクラシー」の二つがある。前者は、古代ギリシアの都市を単位とする政治的共同体(ポリス)で採用され、「デモクラティア」と呼ばれた政治体制に対し、一定の現代的理念化を施したもの、特に政治的市民の幅を、可能な限り政治的共同体構成員全員に広げる方向で修正したものである。そのエッセンスを抽出すれば、米国の政治学者R・A・ダールが「デモクラティック・プロセス」と呼ぶ、一連の拘束的決定到達手続きとなる。一方、後者の現代デモクラシーは、今日われわれが一般に「デモクラシー」と呼んでいる政治体制であり、その最大公約数的な理解をまとめれば、同じくダールが「ポリアーキー」あるいは「現代代表デモクラシー」と呼ぶルールの束になる。それは、表現の自由、政府や特定の政治集団のコントロールに服さない自主的な組織を結成する(あるいはそれに参加する)権利、同じくそうしたコントロールに服さない情報源にアクセスする権利など、最も基本的な自由権を政治的共同体の成人構成員に対してしっかり保障しながら、自由かつ公正な普通選挙で選ばれた公職者に政治的決定を委ねるような政治体制である。まさに日本国憲法が定めるところだから、われわれには馴染みの深いものである(ダール自身による、この二つの政治体制の最も簡明な説明は、『デモクラシーとは何か』[中村孝文訳、岩波書店、2001年]を参照)。
ここで留意すべきは、この二つのデモクラシーは自由な体制である以外にほとんど共通点を持たず、政治体制としてまったくの別物であるということである。古典デモクラシーでは、市民団(実際には、市民が集い投票決定を行う民会)が最高の政治的決定機関であるが、現代デモクラシーでは、市民によって選挙で選ばれた人びとが政治的決定を下す(この政治的決定を下す人びとを、以下では「政治的決定者」と呼ぶ)。つまり、現代デモクラシーにおいては、他の市民から承認を得た人びとが一定期間、政治的決定者としての資格を備えることになっているのである。そして、この市民からの承認を求め、政治的決定者を目指す人びとの間で例外なく競争が生じるが、それは殴り合いや殺し合いではなく、自由で公正で非暴力的な競争である。
なお、現代デモクラシーは民会を縮小して作る修正版の古典デモクラシーではないから(本当に縮小民会を作るのであれば、裁判員のようにランダム・サンプリングによって、市民のなかから政治的決定者を選ばなければならないはずである)、民会の対応物かのように議会を合議体として理解し、それが形骸化することを問題視するというしばしば見受けられる議論は、いささか的はずれであろう。現代デモクラシーにおいては、特に重要で包括的な政治的決定は、ほぼ例外なく法律の形でコード化されるから、形式的な意味において最高の政治的決定機関は議会である。しかし実際には、議会は政党を単位として多数派(与党)と少数派(野党)に分割されている。現代デモクラシーのもと、実質的な政治的決定者は議会(に集う全議員)ではなく、議会内で多数派を構成する政党(に所属する与党議員)なのである(大連合政権をつくり多数派と少数派を明確に分けずに済ませる「多極共存型〔コンソシエイショナル〕デモクラシー」と呼ばれる手法は、あくまでも例外的なものである)。
さて、事実上〔ディ・ファクト〕の政治的決定者ではなく制度的〔ディ・ジューリ〕なそれの存在が、古典デモクラシーと比較した場合の現代デモクラシーの最も顕著な特質であるから、政治的決定者が選ばれる選挙が、現代デモクラシーのもとでの「政治」(以下、これを「現代民主政」と呼び、古典デモクラシーのもとでの「政治」を「古典民主政」と呼ぶ)において、極めて大きな重要性を帯びるのは当然である。しかし、政治的決定者のあり方が変われば、選挙のあり方も違ってくるだろうというのは、十分理にかなった推測であろう。そして、選挙のあり方が変われば、現代民主政の動態もまた変化を免れないはずである。さらに現代民主政の動態変容は、そのもとで生きる市民に、それに応じた新たな「思想と行動」を要請することであろう。
まずは政党の脱イデオロギー化により、選挙がいかなる変容を蒙るかについて考えてみよう。
3 政党の脱イデオロギー化と選挙変容
主要政党の脱イデオロギー化により、選挙はいかなる変容を遂げ、あるいは遂げざるを得ないのか。一言で言えば、選挙は将来の政治的決定者の事前選択から、現在までの政治的決定者の事後評価へと、その基本的な性格を変えることになるものと考えられる。
そもそも選挙は、必ず将来に向かっての政治的決定者の承認である。よって、選挙についての最も自然な理解は、前向き〔プロスペクティヴ〕に、一部の市民に政治的決定の権限を付与するものという理解である。そして、将来の政治的決定者を選ぶ際、その政治的決定者が下すであろう政治的決定と、それによって生じるであろう状態についての評価が有力な基準となることは、あらためて言うまでもない。もちろん、選挙では人や人の集団に票を投ずるのだから、人的要素は必ず残る。しかし、政治的決定者の選挙は、タレントの人気投票とはわけが違う。どのタレントが人気投票で票を集めようと、本人や事務所関係者、それにファン以外には大した問題ではないが、政治的決定は政治的共同体を拘束し、時にその構成員の人生さえ大きく左右する。よって市民においては、政治的決定者はそれが下す政治的決定と切り離せないものとして評価されざるを得ないのである。
しかし、このような将来の政治的決定(者)についての事前の選択には、二つの難問がつきまとう。第一に、誰しもすぐに気づくように、これから下される政治的決定(および、それによって生じる将来の状態)を予想しながらの選択であるから、あまりアテにならない可能性がある。選挙に先だって政党が発表する政権公約は、自らが政治的決定者の地位に就けば下すはずの政治的決定のリストであり、そこには将来約束の不確かさがまとわりついている。そこで市民は、それまでの実績などを勘案しつつ、各党の政権公約を割り引かなければならない。この割引率は政党布置によっても違ってくるのであり、たとえば小党が分立する多党制では、選挙ののちの連合政権交渉の結果次第で多数派全体の政策が変わるから、割引率は大きくならざるを得ない。この観点から見る限り、多党制よりも、二党制や、二つの政権連合が対時する二ブロック制の方が、市民にとって明らかにフレンドリーである。
この割引率の上昇をくい止めるのが、イデオロギー政党である。政治的決定案が、行き当たりばったりの思いつきで得られたものではなく、あるべき世界像や大目標から演鐸的に導かれているとき、その安定性は高く、信頼性も高いであろう。政党が明確なイデオロギーを備えていれば、将来約束の本気度が違い、約束の履行率も高いはずというわけである。
そして、イデオロギー政党が競い合う選挙であることが、この事前選択選挙が抱える第二の難問、すなわち市民が下し得るのは将来の政治的決定「群」に対する一括評価でしかないという難問を、かなりの程度解消してくれる。政権公約に複数の政治的決定案が挙げられているとき、そのうちのあるものには高い評価を下しながら、あるものには低い評価を下すような市民は、有意味な選択を下しているとの意識を容易に持つことができない。特定の政治的決定について、賛成にせよ反対にせよ高い強度の選好を持つ市民であれば、それだけを基準にして、各党の公約を比較すればよい。
しかし、そうした他を圧倒するような重要性を備えた政治的決定案が見つからない市民は、投票先の選択に際し、かなり複雑な計算を求められることになる。これは、そもそもは政治的決定者の任期が長いことから生じる問題であるが、いくら任期を短くして頻繁に選挙するといっても、おのずから限界がある。
この政治的決定案の数と投票数の間の不均衡という問題が軽減されるのは、政権公約に掲げられる複数の政治的決定案が、相互の関連が定かでないような雑多な決定案の羅列なのではなく、総体としてより高次の大目標のもとで集約的・縮減的に理解することを可能とするような、統一性と相互連関性を備えている場合であろう。つまり事前選択選挙は、「保守」/「革新」、「自由」/「平等」、「資本主義」/「社会主義」といった、将来の政治的決定の大まかな方向性や路線の選択として単純化した形で行われるとき、はじめて真に実行可能となるのである。そして、かかる路線を明瞭に打ち出すことができるのが、理念を備えたイデオロギー政党にほかならない。
それでは、政党が脱イデオロギー化すればどうなるか。政党が理念や大目標から政治的決定案を演繹的に導出しなくなると、将来約束の安定性は低下し、公約の見直しも珍しい事態ではなくなる。これでは市民は、選択に際して割引率を高めに設定せざるを得ない。また、複数の政治的決定案を統一的に理解できなくなり、政権公約をパッケージとして評価できなくなるから、市民が投じる一票は往々にして分裂的性格を帯びることになる(たとえば、「子ども手当の支給には反対だが、高速道路の無料化には賛成なので、民主党に投票する」といった事態である)。こうなると、有意味な事前選択選挙は、完全に不可能とは言えないまでも、著しく困難になるであろう。
しかし、事前選択選挙が成立困難になれば、選挙そのものが無意味になるのかといえば、そうではない。選挙には事前選択だけでなく、事後評価という機能もあるからである。その場合、市民は選挙までで任期が切れる現職の政治的決定者に対し、これまでの政治的決定群とそれが生み出した状態を主たる判断材料に、後ろ向き〔レトロスペクティヴ〕に事後の評価を下す。つまり、選挙は第一義的には、現職の政治的決定者の再任/解任を決するものであり、次期の政治的決定者への権限付与は、この現職者に関する判定の反射的効果として生じるに過ぎないということになるのである(たとえば、「民主党のマニフェストはよく読んでないが、とにかく自民党がダメだから民主党に票を投じる」というやり方である)。野党としては、まずもって市民が抱く理想の政府像をできるだけ高めに誘導し、それに比べればこれまでの政府・多数派がいかに見劣りするものであるかを、市民をしてしっかり悟らせなければならない。なお、現職者を解任すべく野党に投票する際、野党が複数あれば、そのうちのどれを選ぶかが問題になる。これは、現職者の解任という主たる判断を受けての、副次的な選択にとどまるが、事後評価選挙のやりやすさという観点からは、やはり二党化あるいは二ブロック化が生じているのが望ましい。
このような選挙理解は、別段目新しいものではない。K・R・ポッパーは、この事後評価選挙をデモクラシーの根幹に位置づけたし、米国の政治学者W・ライカーは、僭主〔タイラント〕の放逐のうちに選挙の本質的機能を見出す発想を「リベラリズム」と呼び、公共選択理論の研究成果を踏まえれば、まともな選挙理解はそれ以外に成り立たないとした。また、1960年代半ば以降、こうした後ろ向きの投票行動をめぐって、特に米国を中心に(ただし経済実績への評価に幾分偏った形で)膨大な実証研究が積み重ねられてもいる。
とはいえ、事後評価選挙にはさまざまな問題がある。第一に、既述のように選挙が必ず将来の政治的決定者に権限を付与するものであり、その意味で本来は前向きであることを考えれば、これはかなり不自然な理解である。
第二に、それはいかにも心許ない。たしかに、評価の材料はすでに起きたことなので、圧倒的に確実である。しかし、すでに下されている以上、政治的決定の瞬間から選挙までの間に、その政治的決定によって人命が失われるといった取り返しのつがないことが起きている可能性は常にある。そうした場合、あとから不同意と言っても、あまり意味がないかも知れない。
そして第三に、事後評価選挙では、市民自らが政治的決定を事前に選択するという構図はまったく見えず、政治的決定者に広範な自由行動領域が保証されてしまうかに思われる。うがった見方をすれば、政党の脱イデオロギー化は、政治エリートが市民の事前選択を不可能にし、自らの自由な行動の余地を広げるための抜け道的な工夫であると解される余地がある。
しかし、このように大いに問題ぶくみではあるものの、事前選択から事後評価へと選挙の基本的な性格が変化することを、政党の脱イデオロギー化の帰結として、さしあたり不可避のものと受け止めることにしよう。そのとき市民には、いかなる政治理解と政治行動が要請されるのか。
4 政治的決定プロセス中心の民主政理解と政治的自己活性化
先に述べたように、イデオロギー政党が主流化している状況のもとでは、選挙で将来の政治的決定者を選ぶことは、大まかながら将来の政治的決定を選択することを意味する。政治的決定者は路線や方向性に還元され、人的な色彩を薄める(それだからこそ、イデオロギー政党は強いアイデンティティの対象となり、支持者を党員として組織できることにもなる)。選挙後の政治的決定局面において、政治的決定者に行動の自由が認められないわけではもちろんないが、選挙の際に提示された政治的決定案と、実際に下される政治的決定の間のズレは、一定の幅に収まることが予想できる。
そうであれば、市民は選挙で大まかな路線の選択を行ったのち、政治的決定局面において沈黙していて構わない。次の選挙における将来約束の割引率をはじき出すためだけに、現在の政治的決定局面をぼんやりと眺めていれば良いのである*。市民は選挙の際にアテンティヴで(「マニフェストを精査せよ!」)、アクティヴである(「あなたの一票が政治を変える!」)ことが要請されるだけだから、希少なエネルギーを大いに節約できることになる(投票参加のコストはゼロではないが、他の政治参加と比べれば圧倒的に低コストである)。ここに想定される政治的市民像は、「イギリス人民は、自分たちは自由だと思っているが、それは大間違いである。彼らが自由なのは、議員を選挙するあいだだけのことで、議員が選ばれてしまうと、彼らは奴隷となり、何ものでもなくなる」(作田啓一訳)という、J-J・ルソーが『社会契約論』で皮肉を込めて描いた「イギリス人民」の姿と紙一重である。しかし、決定的な違いがある。「人民」は「奴隷」ではなく、「事前の指示どおりに働いてくれる奴隷の主人」なのである。
*ただし、政党間のイデオロギー距離が過度に広がることで、路線選択の掛け金があがり、内戦状態に陥ってしまわないよう、不断に注意が必要である。固いイデオロギーで有権者を引き付ける可能性があるから、「中位投票者定理」や「ダウンズ・モデル」で安心していて良いわけがない。
時間の幅で考えれば点に過ぎない選挙が、その直後から次の選挙までの長い期間に行われる一連の政治的決定の内容を大筋で規定してしまうというのは、いささか不自然な話である。現代民主政の動態としてはかなり偏った、いわば選挙中心的なそれであると言ってよい。ところが、よりによって政党類型論では「選挙至上主義政党〔エレクトラリスト・パーティ〕」の対極に位置づけられるイデオロギー政党が、政治的決定局面の不確定性と可塑性を低下させ、選挙中心的な現代民主政の現出を可能にするのである。
これに対して事後評価選挙では、選挙中心的な現代民主政理解は成立し得ない。選挙では、将来の政治的決定(路線)が直接選択されるわけではないから、選挙に続く政治的決定局面が選挙によって規定されているとの理解が成り立たないのである。しかしこれにより、ルソーが戯画化した「奴隷」状態が出現すると考える必要はない。「奴隷」を常に監視し、指示を出し続ける「主人」というのもあり得る以上、「事前の指示どおりに働いてくれる奴隷の主人」でなくなったことは、「奴隷」に堕することを必ずしも意味するわけではない。
政治的決定局面が不確定性と可塑性を備えるのであれば、市民に要請されるのは、なによりも政治的決定局面における政治的自己活性化〔セルフ・アクティヴェイション〕であろう(文字数の節約のために「政治的自己活性化」などと小難しく言っているが、要は「指示出し」や「ダメ出し」を積極的に行うことである)。イデオロギー政党のもとでの選挙中心的な現代民主政は、市民にかかる負担の小さな政治であるが、もはやこれは成り立たない。市民には、もっと大きな負担が要求される。そして、市民がこの負担に耐えられたときに姿を現すのは、政治的決定者を判定者としながら、それに対し市民が次々と政治的要求を突きつけるような政治である。
市民は、選挙で事後評価を下すからこそ、政治的決定局面を真剣に見つめるのであり、選挙のときだけでなく、常にアテンティヴでなければならない。そして、前の選挙でたいした選択はしていないのだから、政治的決定局面において文句があれば、当然ながら声を上げる(もちろん、すべての市民が政治的に常に自己活性化する必要はなく、昔のデモクラティアのもとでの市民と同様、発言したい人が発言するのである)。一方、脱イデオロギー化した政党は、安定的な支持基盤を持たないから、そういう声に何らかの形で対応せざるを得ない。むしろ、市民間での対立する意見を前に、バランスのとれた決定を見出す能力こそが、政治的決定者に求められることとなる。そして、選挙において市民は、前回の選挙から現在までの間に下されてきた一連の政治的決定が、総体として満足できるものであったのかどうかを事後的に判断し、それをもとに現職の政治的決定者の再任/解任を決するのである。
ところで、イデオロギー政党下での事前選択選挙は、政治的決定者ではなく政治的決定路線を選択するとの認識を可能にするから、本来は別物のはずの現代デモクラシーと古典デモクラシーの間の共通性が、わずかなりとも意識されることになる(ただし、「現代民主政は古典民主政にどこまで近似化できているのか」との問いが立てられた途端、前者か後者の近似物としてはあまりにラフに過ぎることは直ちに明らかとなるから、この共通性認識は、実は現代デモクラシーにとっては大きなリスクであった)。これに対して、脱イデオロギー化した政党のもと、事後評価選挙を軸に展開する現代民主政は、投票決定中心的な古典民主政──そこで投票決定されるのは、いかに近い将来であれ、あくまでも将来の政治的決定である──との類似性を完全に失う。しかし市民は、ここに後ろめたさを感じる必要はない。市民が政治的に自己活性化し、政治的決定者を判定者としながらの間接的な市民間での討議とでも呼ぶべき政治が展開するのであれば、むしろそれは、分業体制をとらない古典民主政が不可避的に直面せざるを得ない難問を回避できる優れた政治であると、胸を張って良い。
というのも、そもそも投票決定中心的な古典民主政は、深刻な欠陥を抱えている。K・アロウの定理としてよく知られているように、完全に民主的と皆が納得できるような投票決定方式が見つからないのである。ただしこれは、さしあたり選択肢を二つに絞れば解消できる(ただし、いかに二つに絞るかが、実は大問題である)。とはいえ、選択肢が二つの場合でも、多数決は暴力的に過ぎることがしばしばある。反対なり賛成なりの選好強度を、十分に考慮に入れられないからである。そして、こうして投票決定中心の古典民主政が、結局は数の支配(あるいは「多数の専政」)に陥ることへのまことにもっともな不安が、リベラリズムを要請するとともに、コンセンサス形成を志向する討議的な古典民主政論を生んだと言っても過言ではない(投票決定中心の古典民主政と討議中心の古典民主政は、政治体制としてはどちらも古典デモクラシーのもとにあるが、そこに展開する「政治」のあり方が大きく異なる)。ところが、討議的古典民主政もまた、深刻な欠陥を抱えている。時間の制約のせいで、討議による完全なコンセンサスの形成が見込めないとき、「いつ決定を下すのか」が必ず大問題となるのである(ただし、話し合えば話し合うほど意見対立が尖鋭化することもあるので、時間の制約がないからといってコンセンサス形成が容易になるとは限らない)。これに対して、上述のような動態を示す現代民主政では、政治的決定者が責任をとる形で決定を下すために、とりあえずこの難問を回避できる(それが市民によって承認されるかどうかは、次の選挙で審判が下る)。これは、たしかに便宜的かつ一時的とはいえ、討議的古典民主政が抱えるアポリアを迂回するための、ひとつの便法なのであり、分業体制をとることの強みなのである**。
**ここで想定する現代民主政は、政治的決定局面というプロセスを中心に展開するものであり、この点において、実は討議的な古典民主政と接点を有している。イデオロギー政党下での選挙中心的な現代民主政への対抗構想が、投票決定中心の古典民主政であるのとパラレルに、脱イデオロギー政党下での現代民主政への対抗構想は、プロセス重視という点で軌を一にする討議的な古典民主政なのである。
5 おわりに
「理念なき政党政治」が理念型として描くのは、安定性を欠き、予見可能性のない政治である。長期的な視野に立った政治的決定など、どだい無理な話なのかもしれない。強いリーダーシップを発揮する指導者も登場しそうにない。市民に要求される政治参加のコストは大きく、市民が強いられる緊張感も大きい。対するイデオロギー政党モデルは、比較的予見可能で、いくらか安定した政治動態を想定する。そして何よりも、市民に求められる負担が小さい。「理念を備えた政党政治」を求める声は、まさにこうした政治の実現を唱えているのである。
しかしながら、政治とは本来、混迷し、混乱し、漂流するものではないのか。政治体制の如何を問わず、混迷しなかった政治の具体例を挙げるのは、本当に難しい。そして、古典と現代とを問わず、自由な政治体制であるデモクラシーのもとでは、なおさらそうなることが十分に予想されるのであり、むしろそのもとでの政治が粛々と展開する方が、説明を要する異常な事態と考えるべきであろう。プラトンによれば、古典デモクラシーは(正確には古典デモクラシーの原モデルたるデモクラティァは)、自由の風潮がすみずみに行き渡ることを許してしまう体制である。ルソーのように、およそ人間にふさわしくないとまでは言い切れないにしても、少なくとも混迷や混乱に耐えられるだけの精神的な強靭さを備えた人びと以外には、お勧めしてはならない政治体制であろう。そして、あくまでも別物とはいえ、今日の大規模な政治的共同体において採用可能な政治体制のなかでは、現代デモクラシーがそれに最も近いから、あまりお勧めできない点では同断のはずである。しかし、確実性とか予見可能性とかへの人びとの願望は、なかなかに根強い。H・アレントの言う「政治」とは、複数の自由人による「活動」であり、それは端的に古典と現代とを問わずデモクラシーのもとでの「政治」であるが、「活動」の無制限性やその結果の不可予言性に正面から向き合った彼女の議論が、デモクラシー論としてはいまだに少数説にとどまっている所以であろう。
とはいえ、われわれは「理念なき政党政治」状況を数回の選挙で劇的に変えられるなどと思ってはならないし、混迷のない予見可能で安定した政治の世界が遠からず実現するなどと期待してもいけない。もちろん、政党間に理念的対立があろうとなかろうと、選挙は重要である(その機能が異なることは、先に述べたとおりである)。しかし、「理念なき政党政治」のもとでは、基本的に選挙は未来を選択するものたり得ない。よって、市民は選挙の終了とともに、その政治的役割を終えてはならない。選挙が終わったまさにその瞬間、新たな政治的決定者とともに政治的決定局面に臨む心構えをしっかり整えなければならないのである。市民にとっての死活問題は、政治的決定──それは、政治的共同体の全構成員を、有無を言わさず拘束する──の内容だからである。
そもそも現代民主政において、「政治の季節」を「選挙の季節」に限定しなければならない謂れは、どこにもない。そして、「理念なき政党政治」のもとでは、かかる限定はむしろ行ってはならないのである。むろん、選挙でイデオロギー政党を見放しておきながら、政治的決定局面において「理念なき政党政治」を嘆くというのは、深刻な自己矛盾である。
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