過去数回の国政選挙と同様に、年金問題が争点となろうとしている。各メディアでは、社会保険庁による納付記録の杜撰な管理が問題にされてきた。岩瀬達哉によれば、入力ミス等の多さは当初から知られながら、先送りされていたのである(1)。年金官僚たちの間には「本人が証拠を添えて申請できなければ、それは本人の責任」であり、「立証できなければ、掛け捨てになるのは、当然」という発想さえあったという。
未納者非難は筋違い
こうした無責任な運営によって、当然受け取れる年金の一部が「消えた」のは由々しい問題であるし、それは公的年金制度そのものへの不信につながっている。しかし盛山和夫は、年金をめぐる最大の問題は、実は記録消失でもなければ、未納者の多さでもないとする(2)。「福祉元年」と言われた1973年に、「大盤振る舞い」の受給水準を決めたために、拠出額と受給額とのバランスが維持できない、「持続不可能」な制度になってしまったことが重大だというのである。
年金危機の原因として、少子高齢化が挙げられることが多いが、盛山によれば、それは主因ではなく、そうした傾向が仮になかったとしても収支バランスはいずれ崩れる。未納者が悪いという議論もあるが、皮肉なことに、未納者がいなくなれば、「収支はかえって悪化する」。年金制度の下では、平均的には、納付者に彼らが収めた以上の額を給付しなければならないからである。「未納は他の誰の負担も増やしはしない。ただ自分の将来の年金が減るだけ」なので、未納者を非難するのは筋が違う。未納が望ましくないのは、それが本人にとってよくないからであることを、もっと周知すべきだというのである。
年金のような社会的な制度の当否は、自分たちの社会のあるべき姿についての、人々の間の合意に照らして判断するしかない。松原隆一郎が言うように、「アメリカのような個人主義社会の対極に、国民に所得の数十%もの税負担を強いるけれども、しっかりとした保障をするというスウェーデンのような福祉社会がある」(3)。そのどちらが正しいか、「普遍的な論理で論証」することなどできず、「国民が納得してそういう社会を選び取っている」かどうかが問題なのである。
ところが、日本では、この点について正面から国民の選択を問うことが回避されてきた。今回の選挙でも、現在の年金制度が持続可能かといった本質的な争点は隠され、福祉水準や、その財源についての判断が、十分に求められているとは言いがたい。今後、建設的な討論を進める上でも、盛山の分析は、前提として参照されるべきであろう。
雇用・労働環境の劣化
ただ、現在の状況では、年金のような長期にわたる問題について、一般の人々が冷静に考える条件は、急速に失われつつあるようにも見える。ちなみに、盛山は、自営業者や学生、フリーターなどの「一号被保険者」の未納率は三割以上であるが、会社が本人に変わって保険料を納付するサラリーマン等を含めた全体では、未納率は一割ほどにすぎないと指摘している。
たしかに、多くの人々が正規雇用され、ある程度長期にわたって安定的な仕事を得られるような社会なら、そうした水準が今後も維持できるかもしれない。しかし、この十年以上に及ぶ雇用の流動化の中で、非正規雇用を転々とする若者たちが、はるか先にもらえるかどうかもわからないような年金に関心がもてるだろうか。また、貧困状態にある人々には、年金について考える時間的・精神的余裕も、保険料を支払う経済的余裕もない。
岩田正美は、現在の日本社会のそこここに、貧困の影を見てとる(4)。イギリスなどで、新しい貧困が常に「再発見」されてきたのに対し、日本では「対抗勢力としての野党や労働組合、マスメディア、さまざまな市民団体も貧困に無関心であった」。最近でこそ、ワーキングプアといった言葉が定着しつつあるが、メディアは、スーツをきたホームレスという珍しい現象にばかり注目する。実際には、低学歴であるがゆえに有利な仕事に就けず、転職を繰り返し、結婚もできないうちに年齢を重ねた中高年層に、最も「不利な人々」は集中しているとする。
雨宮処凛は、フリーター生活の中で、「繰り返される即日解雇」への不安から自傷行為を重ねていた自らの経験を元に、最近の若者たちの「生きづらさ」は、彼らに「根性がない」せいではなく、雇用・労働環境の全般的な劣化によるものであると主張する(5)。フリーター歴が長くなると正社員への道は閉ざされる。しかも「正社員になったところで『明るい未来』など用意されていない」。フリーターを経て正社員となった彼女の弟が、「生存ギリギリの睡眠時間」しか与えられない中で、過労死直前まで追い込まれたことは、それを証明している。
「生活とあまりに密着した『働く』ということが、今、根こそぎ不安定になっているのだ」。「そしてそれは私たちの精神も不安定にさせている」と雨宮は言う。労働と生活をめぐる現在の不安を解消することなしに、私たちは、社会的連携を信じることもできないし、制度の持続可能性を考えることもできないだろう。
今月の注目論文
- 岩瀬達哉「年金『振り込め詐欺』の66年」(現代8月号)
- 盛山和夫『年金問題の正しい考え方』(中公新書)
- 松原隆一郎「日本をニヒリズムに陥らせた社会保険庁スキャンダル」(中央公論8月号)
- 岩田正美『現代の貧困』(ちくま書房)
- 雨宮処凛「生きづらさとプレカリアート」(フリーターズフリー01号)
- 佐藤良明「高学歴ニート大増殖 杜撰な『大学院重点化』こそ元凶だ」(諸君!8月号)
- 足立眞理子「グローバル資本主義と再生産領域」(現代思想7月号)
- 入江吉正「激増サブカルウヨクの『愛国』はホンモノか」(諸君!8月号)
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