北大・市民社会研究プロジェクト企画シンポジウム「岐路に立つ戦後日本」が、二十一日に同大で開かれる。戦後のさまざまな枠組みが揺らいでいる現状をにらみつつ、今後の日本を展望する狙いだ。パネリストとして道外から参加する法政大の杉田敦教授と、元外務省主任分析官の佐藤優氏にシンポジウムの焦点となる点などを寄稿してもらった。 |
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参議院選挙で、二十九ある一人区のうち六つでしか自民党が議席を得ることができなかった事実に象徴されるように、自民党は地方から激しい異議申し立てを受けており、農村部に基盤をもつ政党という昔日の面影はもはやない。
「自民党をぶっこわす」という小泉前首相の宣言が、そのレトリックとしての性格を超えて、実現したという見方もできるだろう。小泉氏や竹中元大臣らは、郵政民営化をはじめ、あらゆる分野への市場主義の導入を進めた。その中では、地域間格差を縮めて国民生活の生活水準を平準化するという、かつての自民党政治が担っていた平等化路線は放棄された。
都市部でも、富裕層と貧困層との乖離が進み、とりわけ不安定な非正規雇用に就く人々は、生活の現在と将来に大きな不安を抱いている。こうした人々の放つ悲鳴が、大都市圏などで自民党候補の苦戦につながった面もある。
小泉・竹中氏らの路線は、新・自由主義と呼ばれることが多い。新・自由主義とはそもそもどのようなものか。十九世紀イギリスで、営業の自由や自由貿易を重視する自由主義が確立したが、経済学とも密接なかかわりをもつ古典的な自由主義は、実は現在の新・自由主義とよく似ている。
それではなぜ、わざわざ新・自由主義と呼ばれるのか。二十世紀前半のアメリカで、一つの意味転換が起こった。一九二九年の世界大恐慌を受けて、経済を市場の自律性にゆだねるだけでは、景気循環の中で混乱は避けがたいという考えが広まった。こうして、不況期における政府の介入を正当化するケインズ主義や、競争の中で傷ついた人々を救済する福祉国家の理念が出されるが、この方向性が、アメリカでリベラリズム(自由主義)と呼ばれることになったのである。
こうしたアメリカのリベラリズムは、ヨーロッパの文脈ではむしろ社会民主主義に近く、イギリスの古典的な自由主義とは大きく対立するものであった。ところが、最近になって、こうした社規民主主義的なリベラリズムとは異なる意味で自由主義を主張しようとする人々が出現し、彼らが新・自由主義と呼ばれるに至ったのである。アメリカのレーガン大統領、イギリスのサッチャー首相らの政策が、このような方向性にあることはよく知られている。
他方、安倍首相が昨年以来示してきた政治姿勢は、新・保守主義的と呼ばれることがある。安倍氏は、小泉路線を継承しながら、それがもたらす負の側面をどう隠蔽するかに専念してきた。安倍政権はこの間に、通常であれば国会審議が停まるような、憲法改正のための国民投票法や、愛国心を強調する教育基本法などを、強行採決によって通してきた。外交についても近隣諸国に対して強い姿勢で臨むなど、国民のナショナリズムに訴えようとしている。
ここで注目したいのは、新・自由主義と新・保守主義とで、国家の位置づけが対照的とさえいえるほど異なる点である。前者があらゆる領域を市場に任せ、国家の担う領域を極力縮めようとするのに対し、後者は改めて国家の役割を強調する。にもかかわらず、サッチャー時代などにも、二つの主義は相伴う形で出現した。
それは、新・自由主義が推進する競争社会の犠牲者たちを、福祉によって救済するのでなく、新・保守主義的な「愛国心」の注入によってなだめようとするなど、両者が連携したからである。しかしながら、こうした一種の「共犯関係」にもかかわらず、新・自由主義と新・保守主義との間の、構造的な緊張関係がなくなるわけではない。
端的に言って、ナショナリズムを鼓舞し、「愛国心」教育を学校などでどんなに行おうと、若者たちが不安定な職しか得られず、格差社会の中で貧困に苦しみ、老後に十分な年金さえ受け取れないとすれば、「愛国心」をもつことなど不可能だからである。このように、新・自由主義と新・保守主義とを結びつけようとする現在の保守政治は、重大なジレンマを抱えているが、安倍氏をはじめとする政治家たちは、今度の選挙で、ようやくその深刻さの一端にふれたようだ。グローバル化の中で、社会的連携の意義が問われている。
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