進む労働環境の劣悪化 誰もが潜在的な「難民」
難民といえば、自国での政治的な迫害を逃れてきた人々や、内戦などが理由で故国に帰ることができない人々を指すというのが一般的な理解であろう。すなわち、国境などの地理的な境界線を意に反して越えなければならなかった人々や、逆に意に反して越えることができない人々がその名で呼ばれる。しかし、市野川容孝は、「難民」で、この概念を大幅に拡張する。そもそも日本語の「難民」は、満州から命からがら逃れてきた引き揚げ者のような、苦難に遭った人々を指すことがあった。市野川はこれに注目し、「受難から逃れるために、今いる場所から脱出する」「避難民」、そして「今いる場所からの移動そのものが受難」となるために、移動することができない「流難民」に加えて、「耐難民」という新たな範畴を提案するのである。「耐難民」とは、「今いる場所にそのまま立ち続けることが受難と結びつく」ような存在の仕方であるという。地理的な境界線を越えなくても、自らのおかれている環境が激変した結果として、まるで遠い異国に移動したのと同じような状態になる、というのは十分にありうることである。
雨宮処凛は、「生きさせろ! 難民化する若者たち」で、私たちの社会の中に引かれた境界線の所在を指し示している。たまたま十年以上に及ぶ就職氷河期に社会に出たために、安定した職を得ることができなかった多くの若者たち。彼らは、この消費社会のただ中で、年収百万円台も珍しくないという低賃金にあえいでいる。しかも、非正規雇用の場合には、将来の昇給や待遇改善はほとんど期待できない。雨宮自身、ウエートレス、雑貨店の店員、水商売などを転々とする中で、自傷行為を繰り返した過去をもつ。やむをえずフリーターをしばらく続けると、正社員となることは極端に難しくなる。病気などで家賃が払えず、滞納を理由に追い出され、あらためて家を借りることができずにホームレスとなる人々。彼らにとっては、この社会に引かれた境界線こそが問題なのである。
イタリア語の「プレカリオ(不安定な)」と「プロレタリアート」とを組み合わせた「プレカリアート」という言葉が、数年前、「イタリアの路上に『落書き』として現れた」事情を雨宮は紹介している。「不安定さを強いられた人々」としてのプレカリアートは、私たちの社会の中から生まれた難民であろう。経済のグローバル化が喧伝され、非正規雇用の増加をはじめとする労働環境の劣悪化が進む現在、私たちは誰もがすでに潜在的な難民であると考えることもできる。かつてハンナ・アーレントは、国境線と国境線の狭間に落ちた多くの人々を念頭に、難民こそが国民国家の時代の象徴であると述べたが、今や私たちが目撃しつつあるのは、グローバル化の時代の象徴としての「耐難民」の大量発生なのかもしれない。
(現代読書灯−政治・思想− 北海道新聞2007年8月19日)
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