論壇ではようやく先の参議院選挙の総括が出揃(そろ)う中、選挙での惨敗にもかかわらず続投を決めていた安倍前首相が、健康上の理由などから突然政権を投げ出し、福田康夫政権が成立した。政界のあわただしい動きに目が奪われがちだが、この国の政治の深いところでは、何が問われているのだろうか。
安倍政権による強行採決の連発などの強引な手法や、疑惑隠しと取られかねないような説明不足が、政治不信を招いたことは広く指摘されている。飯尾潤は、安倍の言葉が国民に届かない原因は、彼の「会話性のなさではないか。安倍首相には、自分の立場を固定しておいて、それを時間をかけて説明すればわかるはずだという先入観があるように感じられる」という(1)。内田樹も、安倍を「ネゴシエーションができない人」と呼び、「自分の敵や反対者を含めて」代表するという構えがないとする(2)。しかも、そうした傾向は「安倍さんだけでなく、今の政治家」の通弊であるという。
小泉改革への不信任
選挙にあらわれた民意は何か。今井亮佑と蒲島郁夫の数量的な分析によれば、自民党の敗因は大きく三つある(3)。第1に、小泉構造改革の負の遺産として、「『格差』の拡大や地方の疲弊が生じ」、とりわけ1人区では批判が噴出した。第2に、「郵政選挙」の後遺症として、「刺客」を送り込まれた選挙区では、自民党への反発が強かった。そして第3に、統一地方選挙と参議院選挙が重なる年には、地方議員が自らの選挙で疲れて十分に動かないという、いわゆる「亥年現象」が、今回も生じたというのである。
この第2と第3の要因だけなら、辞任前の安倍が主張したように、「政策が否定されたわけではない」と言えるかもしれない。しかし、今井と蒲島によれば、それらの要因による部分を除いて試算しても、「自民党が逆転する一人区は三つ」にすぎないのであり、選挙結果は、小泉改革を継承する安倍路線への不信任であった。
もっとも、このような指摘に対しては、いわゆる構造改革路線以外に取りうる選択肢があるか、という反論がある。小川有美が指摘するように、「90年代以降の先進国にとってネオリベラル型政策を逸脱する選択肢は」ないという意見は根強い(4)。小泉以前の日本政治では、「政官財・選挙民を結ぶ恩顧庇護(ひご)政治(クライエンテリズム)」、すなわち、政治家が地元に利益を誘導して支持を得るという関係が顕著であり、それが日本の「前デモクラシー」的な後進性とされてきた。
ところが、小泉以降の政治は、一挙に「ポスト・デモクラシー(デモクラシー以降)」に向かいつつあるようにも見える。「民主主義の基盤であるべき『平等』が空洞化」し、「政治家はビジネス・リーダーの関心にのみ応答し、それ以外の人々は政治プロセスから疎外され」、「全(すべ)ての社会制度が企業をモデルとする」状態への移行である。もちろん、クライエンテリズムによる「前デモクラシーはもはや持続不可能である」。しかし、たとえばスウェーデンで、政権交代の中でも一貫して「公的福祉国家への信頼度は高い」ように、国の基本的枠組みとしての「レジーム」を人々が自覚的に選択することもできると小川は主張する。
重田園江も、社会的な連帯から「自己責任」へという流れは、不可避ではないとする(5)。フランス等では、一律に保険料を負担する社会保険制度から、「加入者のリスクに応じて払い込み金額が決まる」民間保険への移行も、一部で論じられている。社会保険は、個人のリスクの算定が技術的に困難であった過去の遺物だという見方もある。しかし、実際には社会保険成立当初にも「リスクが皆同じでないことは知られていた」し、逆に今日、個人のリスクが完全に予測可能であるというのも誤りである。連帯を重視する制度の採否は、技術的・経済的に規定される必然ではなく、リスクを社会全体が負担するのが公正だと考える「社会的な視点」を人々が持つかどうかにかかっている、と重田は言うのである。
生存は自己責任か
構造改革のもたらす影を象徴するものとして、北九州市で生活保護の止まった人が孤独死するという事件があった。市野川容孝は、フランスの哲学者フーコーの、「生きさせるか、死の中へ廃棄する」権力としての「生―権力」という用語に改めて注目する(6)。現代の権力は、人を恣意(しい)的に殺すかつての権力とは異なり、むしろ人々の生存を促す側面を持っており、福祉国家こそは、そのあらわれである。しかし、そこでは、ある集団を生きさせる代わりに、別の集団は死ぬに任せるということが行われている。生活に必要な資源を供給しないという「不作為」による殺害。それを傍観する私たちの責任を市野川は指弾する。
フーコーは「生けるものと死すべきものという切断」を社会の中に持ち込むことを、「人種主義」と呼んだ。リスクが高い個人は、自らの責任でそれに対処できない限り、保護を受けられなくても構わない。こうした視点が、動かしがたいものと意識されているとすれば問題であろう。クライエンテリズムの復活ではない形で、社会的な連帯を再興するにはどうするか。「戦後レジーム」の単なる否定でも維持でもない、新たな「レジーム」への構想力が試されている。
今月の注目論文
- 飯尾潤「総理の資質とは何か」(現代10月号)
- 内田樹「小泉・安倍政治は何を失ったのか?」(SIGHT秋号)
- 今井亮佑、蒲島郁夫「なぜ自民党は一人区で惨敗したのか」(中央公論10月号)
- 小川有美「民意のスウィングの先にあるもの」(世界10月号)
- 重田園江「連帯の哲学」(現代思想9月号)
- 市野川容孝「生―権力再論」(現代思想9月号)
- 竹森俊平「世界にばらまかれた不確実性」(中央公論10月号)
- 「特集 原発大解剖」(週刊ダイアモンド9月1日号)
- 飯田泰之「善意は他のだれかを地獄に落とすかもしれない」(論座10月号)
以下論壇合評会選
- 小野浩「成熟期の日本、手本は北欧か米国か」(エコノミスト9月18日号)
- 高岡直絵、松岡かよ子ほか「CS患者座談会 有害化学物質に汚染された社会を生き抜く」(世界10月号)
- 小松秀樹「医療における『罪』の定義」(論座10月号)
- 奥野修司「病院を壊すのは誰だ ルポ医療崩壊」(文芸春秋10月号)
- コリン・ジョイス「東京特派員の告白」ニューズウィーク9月19日号)
- 石橋克彦「基準地震動を考える(1)および2007年新潟県中越沖地震」(科学9月号)
- 「特集 近代日本の学者101」(大航海第64号)
- 「特集 デキるあなたに忍び寄る『うつ』」(エコノミスト8月28日号)
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