中国研究を通じて近代日本を論じ、30年前に没した、竹内好への関心が高まっている。西洋は東洋を侵すことで、東洋はそれに抵抗することで、アイデンティティーを確立した。その中で日本は、どちらにも徹しきれなかったために、「何ものでもな」くなったのではないか。子安宣邦は、竹内の問題意識をこう描く(1)。
子安によれば、竹内は、中国の作家魯迅のような「ほんもの」の抵抗者が「ドレイであることを拒否し、同時に解放の幻想を拒否」しようとしたのに対し、日本は「もう一人の主人に支配されながら、自分がドレイであることさえ知らない、いわばにせもの主人というドレイ」であると考えた。
「大東亜戦争」の意味
小林敏明は、日本近代思想を、「近代そのものをまるごと否定し、その乗り越えをはかる」「超克派」と、「近代の内部にとどまりつつ、その漸進的改革をはかる」「修正派」とに二分する(2)。戦中に「大東亜共栄圏」の世界史的意義などを論じ、戦後にほとんど袋だたきになった座談会「近代の超克」に前者の名は由来するが、その範囲はマルクス主義にまで及ぶ。
西洋という中心でもなく、かといって周辺でもない「半周辺」(ウォーラーステイン)ないし「半開」(福沢諭吉)として出発した日本では、近代に「一歩足を踏み入れながら、それへの対抗、抵抗、反撥(はんぱつ)としてナショナリズム」が出てくると小林は指摘する。しかも、そうしたナショナリズムと超克派型の近代批判は、いずれも中心への反撥なので、結合しうる。
半周辺は、西洋という「大文字の他者」の「臣下」になりつつ、同時に西洋を内面化し、「主体」になっていくが、それにも限界があり、西洋は「疎遠な他者として意識されつづける」。それへの反撥が、超克派的な言説となって、繰り返し噴出してくると言うのである。
日本の立場の両義性を反映して、「大東亜戦争」は「自立のための戦争と侵略のための戦争という二重構造」をもっていたので、部分的には擁護されうると竹内は主張した。論壇で、このような立場への批判の中心にあったのが丸山眞男である。福沢などに依拠しつつ修正派的な立場を示した丸山には、しかし小林によれば、超克派的な面もあり、その緊張関係こそが彼の思想を生きたものにしているのである。
最近では、中島岳志の『パール判事』(白水社)をきっかけに、戦争責任論が改めて争点になっている。東京裁判でのインドのパール判事の少数意見は、事後法の禁止など法律的見地からの「日本無罪論」であり、日本の戦争を正当化したという保守論壇的な見方は誤りだと中島は主張した。これに対し牛村圭は、中島の資料操作は恣意(しい)的であるし、右派のパール論だけを問題にし、左派のパール批判の一面性を見ていないとした(3)。戦争肯定論の文脈でパール判決を不当に用いたと中島に言われた小林よしのりは、「サピオ」での連載等で中島批判を強めている。
そうした中、西部邁は両陣営に割って入り、小林は戦争肯定論についてはパールに依拠せず、「独自の見解として展開」しているので、中島の批判は見当はずれだとする(4)。中島がパールを9条護憲論に結びつけたことにも、資料上の根拠がないと述べる。その一方で、保守派が戦争全面肯定の文脈でパールに言及する「瑕疵(かし)」は中島の指摘通りだと言う。
戦争責任については、西部は「ジャングルめいた世界環境にあって、日本国家が西洋に伍(ご)して帝国主義の牙を研いだのは、不可避」であるばかりか部分的に肯定されうるが、中国・朝鮮に対しては侵略の要素が大きかったと認める。ここに竹内と似た「二重構造」論があると言えよう。興味深いのは、西部がパールを徹底した「法律至上主義者」、「近代主義者」と呼ぶ一方、反「近代主義」的ガンジー主義者ともしていることである。パールもまた、西洋を高度に内面化しつつ、それに反撥するという、超克派的な側面をもっていたのだろうか。
今も思想として息づく
ところで、近代の超克論は、「自立」を賭けて国民国家が争い合うナショナリズムの時代に特有なのか。白井聡はまず、アーネスト・ゲルナーの古典的な議論を引きつつ、ナショナリズムの成立を説明する(5)。産業化を進めるのに必要な「読み書き」能力の共有が、国家による教育などを通じて実現され、同質的な国民がつくり出された。20世紀には、経済は閉じた国民経済を単位としていたので、富を労働者にも配分して消費させることが資本家にとっても合理的であり、階級対立は緩和されていた、と白井は言う。
ところが、その後の経済のグローバル化がすべてを変えた。国際的な競争力の違いなどに応じて、国民の間には亀裂が走り、われわれは今や「別々の船に分かれて乗っている」。こうしたネーションの解体状況で必要なのは、再統合でも単なる階級闘争でもないとしつつ、白井は、「現にある秩序を全面的に虚偽のものとして認識し、根本的に異なった世界をリアルな実在として感じ取ることのできる意識、ひとことで言えば、〈外部〉の意識」を求める。ここに超克派的な響きを聞き取るのは容易であろう。近代の超克は、今なお「思想としては過ぎ去っていない」(竹内)のかもしれない。
今月の注目論文
- 子安宣邦「ドレイ論的日本近代批判」(現代思想12月号)
- 小林敏明「『近代の超克』とは何か―竹内好と丸山眞男の場合」(RATIO04号)
- 牛村圭「中島岳志著『パール判事』には看過できない矛盾がある」(諸君!1月号)
- 西部邁「パール判事は保守派の友たりえない」(正論1月号)
- 白井聡「ナショナリズムの過去・現在・未来」(神奈川大学評論58号)
- 棚瀬孝雄、大沼保昭「国際法の法的性質を探る」(法学セミナー1月号)
- 藤井誠二、芹沢一也「『殺された側の論理』と『犯罪不安社会』のゆくえ」(論座1月号)
- 篠原一「ねじれ国会の政治的意味」(世界1月号)
- 待鳥聡史「『多数主義』時代の二院制を再考する」(論座1月号)
- 中村哲「パキスタン、そしてアフガニスタンへ」(SIGHT冬号)
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