死刑執行をめぐる鳩山邦夫法務大臣の発言が、波紋を広げている。「大臣が判子を押すか押さないかが議論になるのが良いことと思えない」とし、「ベルトコンベヤー」などにふれつつ、執行の自動化ともとれる指摘をしたことに、多くの批判が寄せられた。
しかし、井上達夫によれば、鳩山の表現は不適切だが、そこには貴重な問題提起が含まれていた(1)。現行制度では、判決確定後6カ月以内の執行が定められているのに、法相の個人的な信条によって執行が左右されるのでは、「人の支配」であり、本来の「法の支配」とは言えないのではないか。
死刑の是非のような重大な問題は、「究極の責任主体である主権者国民とその政治的意思を代表する立法府」が決めるべきであって、法相の裁量に委ねることは、倫理的・政治的な責任の放棄である。死刑の実態をふまえつつ、国民的な議論を進める必要がある、と井上は述べている。
8割程度が死刑支持という、今の日本の厳罰主義的な世論が形成される上で転回点となったのが、オウム真理教事件であるが、森達也は、オウム元幹部の死刑囚たちに取材する中で、死刑について考え始めたという(2)。
当事者たちの苦悩
井上と同様に森も、多くの人々が当事者意識をもたず、「視界の端にこの死刑を認めながら」、「目を逸(そ)らし続けている」ことを問題にする。廃止運動家、執行にあたる刑務官、教誨(きょうかい)師、弁護人、元検事、元死刑囚、被害者遺族など、あらゆる立場の人々に接触し、悩み続けるのである。
森も指摘するように、存置か廃止かの論点は、法律論としてはほぼ出尽くしている。存置論者は、いわゆる一般予防すなわち見せしめによる犯罪の抑止効果を挙げる。併せて、特別予防、すなわち同一犯による再犯防止という点で、死刑が究極の対策であると言う。さらに存置論者は、被害者感情を重視する。犯罪被害者やその家族に対しては、従来の司法があまりに冷淡であったことへの反動として、近年は同情する世論が高まっている。
これに対し廃止論者がまず挙げるのは、冤罪・誤判の場合に、取り返しがつかないことである。また、死刑の一般予防効果は、何ら証明されていないと言う。浜井浩一は、「統計上、死刑には抑止効果よりも」、逆に「人の命が軽んじられる風潮」を強め、「殺人を助長する効果」の方が大きいというアメリカでの研究を紹介している(3)。特別予防についても、廃止論者は、再犯防止には終身刑が適切とする。彼らは存置論者ほどには被害者の応報感情を強調せず、国家による殺人が倫理的に正当化できるかを問うのである。
世界的には、廃止に向かう流れは明らかである。ヨーロッパ連合がその加盟条件として死刑の廃止を挙げていることは知られているが、それ以外にも廃止国は多く、代表的な存置国とされるアメリカでさえ、事実上停止している州が多い。
隣の韓国でも、死刑制度は法的には存続しているが、過去10年執行されておらず、「実質的死刑廃止国」となっていると佐藤大介は報告する(4)。韓国が「人権先進国」である証左という見方もできるが、戦後半世紀間の処刑者の「約4割が政治犯だったとされる」という事情も関係していよう。
死刑論議が難しいのは、それが法律論の枠に収まりきらないからである。20世紀初めに、ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは、死刑廃止論は究極的には、「法そのものを根源から攻撃するもの」になるとした(『暴力批判論 他10篇』岩波文庫)。ベンヤミンは「法の根源」としての暴力が最も明確な形であらわれたのが死刑であると言い、法自体を暴力と結びついたものとして批判する。浜井は存置論の背後に「刑罰信仰」があるとするが、廃止論の背後に、倫理・宗教といった非暴力的なものへの期待を見ることもできるだろう。
倫理的「不治」と権力
今月は医療問題を取り上げる論考も多く、末期患者の尊厳死を認めるか否かをめぐる論争が目を引いた。推進派の荒川迪生は、懐疑派の小松美彦との対談(5)で、延命治療の中止による尊厳死は、一種の自然死であり、人為的に死をもたらしているのではないので、不治・末期・自己決定という条件で認められるべきだとする。
一方、小松は、何が不治・末期であり尊厳の喪失であるかは、容易には決められないと言う。人が「生きるに値する/しない」の線引きこそは、「権力の正体」である。国家が決めるのも危険だが、自己決定の形をとっても、強制がそこに介在することになるのではないか、と危惧するのである。
もちろん死刑と尊厳死とは別だが、考えてみれば、死刑囚とは、更生不能な、倫理的に「不治」と宣告された人々である。しかるに森が紹介するところでは、「日々改悛(かいしゅん)の情を深め、遺族に心から詫び」ながら、結局処刑された死刑囚が多く存在する。これは、死刑の前提の破綻を示すのか。それとも、死刑判決の効果のあらわれなのか。
長い取材の後に森は、どんな殺人犯であれ「それでも殺すことは嫌だ」という「結論」に到達する。これに対しては、死刑囚を「生きるに値しない」と見なすのは当然だという意見もありえよう。現状から「目を逸ら」すことなく、議論を始める時である。
今月の注目論文
- 井上達夫「『死刑』を直視し、国民的欺瞞(ぎまん)を克服せよ」(論座3月号)
- 森達也『死刑』(朝日新聞社)
- 浜井浩一「死刑という『情緒』の前に」(論座3月号)
- 佐藤大介「『実質的死刑廃止国』へ踏み出した韓国」(世界3月号)
- 小松美彦・荒川迪生「尊厳死をめぐる闘争」(現代思想2月号)
- 山口二郎・宮本太郎「日本人はどのような社会経済システムを望んでいるのか」(世界3月号)
- 藤原帰一「外交は世論に従うべきか」(論座3月号)
- 和田伸一郎「民衆に政治をできなくさせる置き換えの手法について」(思想2月号)
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