一国の首相が、2人連続して、十分な説明なしに中途で政権を投げ出すという事態をどう考えればよいのか。暴力的な政変なしには政治指導者を追い出せないような国に比べれば、自分から辞めてくれるだけマシと言うべきなのだろうか。そうとも言い切れない。辞める理由がはっきりしない限り、政治の将来にもつながらないからである。
そもそも首相は最高権力者と位置づけられている。さらに、内閣機能の強化や選挙制度改革などによって、小泉時代までに首相の権力は制度的に確立したとも言われてきた。しかし、安倍・福田両氏の首相としての軌跡は、そのようには見受けられない。絶えず無力感に苛まれたあげく、「自爆」的な行動に出たようにしか見えない。なぜ、このようなことになるのか。
福田氏の辞任会見でも「決めるべきことがなかなか決まらない」国会状況が批判されていたが、衆参のいわゆる「ねじれ」状態が元凶であり、そのため首相が本来もつ権力が発揮できなくなっているという考え方もあろう。そこから、「大連立」論や政界再編論議も出てくる。
しかしながら、大統領と議会多数派が別の党派であることなどは、諸外国ではむしろ常態である。一筋縄ではいかない困難な状況の中で、さまざまな交渉によって、何とか物事を進めていくというのが、政治家の腕の見せところではないのか。長期にわたって衆参で圧倒的な多数派を制した、かつての自民党政権のような状態を、前提とすることの方がおかしい。
90年代以来の政治改革論議では、制度的な条件整備だけが強調されてきた。しかし、政治が人間の営みである以上、政策を説明する能力や、人を説得する能力などの比重はきわめて大きい。なかなか制度論に還元できない、こうした政治的なスキルを磨き、継承することに、現在の政党は成功していないのではないか。
今回の福田氏辞任の背景に、総選挙が近づく中で、早めに「選挙の顔」を準備しようとする与党内の動きがあるともいわれている。そこで期待されているのは、2005年の郵政選挙の時の小泉氏のような政治家であろう。実際にそうした政治家が登場するかどうかはともかく、ショーアップされた形の、「わかりやすい」政治への需要が有権者の側にあるとすれば、それもまた大きな問題である。
近年人気のある「わかりやすい」議論は、たとえば、赤字がふえたのは公務員が多すぎるからだ、というものである。しかし、実際には、公共事業等で赤字をつくったのは公務員だけではなく、政策を決めた政治家、さらには政治家を選んだ有権者全体の責任もあるはずである。一方、福祉や生活保障の面で政府に大きな役割を求めるが、税金を上げることは一切認めないといった議論も、耳には心地よくても実現は難しいだろう。
政治的な交渉能力に加えて、複雑な間題を過度に単純化せずに、現実にある選択肢をきちんと説明するような、誠意と能力のある政治家が求められているのである。
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