組織の「歯車」を理由に免責されぬ個人の行い
科学的な実験という名目で普通の人々を集め、誤答をした「生徒」に電気ショックを与え続けるように求めると、「先生」役を割り当てられた人々の多くが、抵抗を感じながらもその役割を果たしてしまう。こうした知見を紹介しながら、社会心理学者の小坂井敏晶は、人間は自己の意思決定にもとづいて行動する主体であるという、近代社会で共有されている前提を根底から問う(『責任という虚構』)。
この実験が「アイヒマン実験」と呼ばれるのは、ホロコースト実施の責任を問われた元ナチス高官ルドルフ・アイヒマンにちなむ。アイヒマンは法廷で、自らは巨大な組織の「歯車」にすぎず、大きな動きを止めることなどできなかったと主張した。先の実験が深刻なのは、ホロコーストのような動きに巻き込まれれば、誰もがそれに協力しかねないということを示唆しているからである。
人をそのように流されやすい存在と見なすことは、責任追及の根拠そのものをゆるがすのではないか。近代の理念からすれば、自己の意志をもたない存在に、責任は問えないからである。しかし小坂井は、主体概念と切り離す形で、責任を再定義しようとする。彼によれば責任とは、社会秩序が乱れた時に、その原因を誰かに帰属させることによって秩序を回復させるためにある。その帰責には多くの場合、飛躍や無理があり、その意味で責任は常に虚構であるが、それは必要な虚構なのである。
アイヒマン裁判の傍聴記(『イェルサレムのアイヒマン』)を残したことでも知られるハンナ・アレントは、近年編纂された遺稿集『責任と判断』の中で、個人責任を追及することの重要性について述べている。アレントによれば、アイヒマンが言うように、大組織の中で個々の人々は歯車にすぎないかもしれないが、だからといって個人の行いが免責されるわけではない。協力しなければ殺されたとしても、それは「情状」にすぎないのである。
ここでアレントも、たとえ虚構性を帯びてはいても責任概念が必要だという判断をしているように見える。しかし彼女は同時に、判断の根拠を個人に置いており、責任概念と社会秩序との癒着に警戒的であった。ナチス体制への協力者たちが、自分たちは内部にとどまって「より小さな悪」を実現しようとした責任ある人々であり、単に非協力的であった人々は「無責任」であると主張したことに対し、アレントは、自己反省し続けた(それゆえに、しばし殺された)人々の「無責任」にこそ希望を見いだす。
さまざまなものに規定されているが、同時に一定の判断を行っていると見なしうる。人間存在のこうした両義性について考える上で、責任論の展開は注目される。
(北海道新聞「現代読書灯」 2008年9月14日朝刊)
|