世界的な経済危機が深まる中、この10年以上にわたって言論の世界を支配し、人々の日常の会話にまで根を張っていた市場主義的な言説が、影をひそめつつあります。長い不況下で蓄積する不安に苛まれながら、人々はそこからの出口を市場がもたらしてくれると信じようとしました。一層の規制緩和を進め、非効率的な政府から市場へと重心を移せば、すべては解決するものと期待してきました。しかし、欲望でふくれ上がった市場が破裂した今、人々は、市場を批判し、市場主義の教祖たちを疑うようになってきました。
その一方で、社会的な連帯について語ることが一種の流行のようになっています。社会民主主義が、唯一つの正しい答であるかのように扱われる傾向もあります。政府への期待は高まり、一人一人の不幸に政府の救いの手が及ぶかどうか、人々は目をこらして見守っている状況です。
良いことではないか、という意見もあるでしょう。熱にうかされたような異常な時代が終わり、正しい政治が帰ってきたのだという声も聞きます。貧困が広がりつつあることは不幸だが、人々の目が覚めたのは良かったという評価もあります。しかし、私はそれほど素直にはなれません。つい最近まで市場主義の旗を振っていた論客がにわかに懺悔して見せると言った思想状況に鼻白んだということもあります。政府批判へと雪崩を打ったかと思うと、今度は市場批判に一挙に向かうという世論の振幅の大きさにとまどっている面もあります、しかし、それ以上に、いくつかの問題との関連で議論の仕方を立て直さないと、そのうちに大きなしっぺ返をくらいそうな気がしてなりません。
再国民化について
まずは、国民(ネーション)という単位の重要性が改めて強調され始めていることについて、考えてみたいと思います。つい最近まで「グローバル化」が動かしがたい所与の条件であるかのように語られ、国境線を越えた競争に勝ち抜かなければならないと発破をかけられ、さまざまな犠牲を強いられてきたことへの反動なのか、国境線の中で自足したいという心理が広がりを見せているようです。
生活を支え合う社会的連帯を構想するなら、さしあたりは国民を単位とする連帯以外に考えにくいという事情もあるでしょう。政治理論の政界では「リベラル・ナショナリズム」ないし「ナショナル・リベラリズム」といった議論があります(デイヴィット・ミラーら)が、そこでは、福祉国家を実現するためには国民という単位を重視すべきだと論じられています。福祉国家では、人々は自らの収入の相当部分を政府に強制的に召し上げられ、給付を必要とする人々にそれが配分されることになるわけですが、そうした再配分をしてもいいと多くの人々が考えるのは、自らと同質的であると見なしうる範囲に限られる、というのです。
リベラル・ナショナリストによれば、左派が社会的連帯を重視するにもかかわらず、これまで国民という単位に対して冷淡であり、国際主義的な考え方をしがちであったことは、正されるべき「ねじれ」なのです。左派こそがナショナリストでなければならない。もちろん、ヨーロッパ連合のような広域的(リージョナル)な単位で連帯することも不可能ではないし、グローバルな連帯も理論的には可能だと彼らも認めます。しかし、その現実的な基盤がなく、集合的なアイデンティティとしては国民ほど強固なものがまだない状況では、他の選択肢は見当らないとするのです。
こうした議論は、日本でも受け容れられる可能性があります。すでに、論壇の左右勢力の一部がナショナリズムにおいて連携する動きも見られます。近年の市場主義的な「改革」を通じて国内を縦横に走るようになった深い亀裂を少しでも修復するためには、国民的な連帯を強調するのも当然だととらえることもできるかもしれません。地域間、世代間、競争的産業分野と非競争的産業分野、正規雇用と非正規雇用など、さまざまな形で格差が生じてしまいました。こうした格差を不当なものとして告発する上では、同質的な国民という観念は、確かに力をもっています。私たちが忘れがちのことですが、かつての身分社会を否定する際に大きな役割を果たしたのも、国民概念でした。
しかしながら、国民という単位への回帰、すなわち一種の再国民化といったことは、今日においてどこまで可能なのでしょうか。また仮に実現するとして、それは手放しで評価できるものなのでしょうか。
国民というものがそもそもどのようにしてできたかについては、いろいろな意見があります。言語を共有し、共通の文化をもつ集団をつくることが、産業化の過程で便利だったから、産業化目的で国民は人為的につくられたのだという考えも有力に主張されてきました(アーネスト・ゲルナーら)。集団的な生産活動を行うには、円滑なコミュニケーションが必要とされたというのです。こうした産業化論に対しては、産業化がすでに終わったはずの先進国で、20世紀も末になってナショナリズムの噴出を見た理由が説明できない、という反論が可能です。この反論には一定の説得力がありますし、もしそれが正しければ、産業化云々とは無関係な形で、いつでも国民という単位を再編したり再強化したりすることができるはずだ、ということにもなるでしょう。
しかし、日本などの先進国で今日見られるナショナリズム現象は、実は経済のグローバル化を前提とした上で、厳しい競争の中で傷ついた心を癒されたいという、心理的な効果を期待するものにとどまっている場合が多いのではないでしょうか。だとすれば、ただちに実質的な社会的連帯の基礎をなすものとはいえないでしょう。このことを何よりも象徴的に示しているのは、他国への領土的な主張が声高になされ、国境線を維持・拡張したいという意欲が強い一方で、国境線の内側で荒廃の度を強めつつある過疎地や、国際的な価格競争の中で苦しんでいる農業地域に手を差し伸べずに、それらを切り捨てようとしているという事実です。外に対しては国民の一体性を強調するが、内側では連帯しない。ナショナリズムが常にそのようなものだったかについては置くとしても、ナショナリスティックな言説が巷にあふれていたとしても、それを福祉国家のためにすぐに転用できるとは思えません。
社会的連帯は、人々がただ市場主義を憎悪し、リスクへの不安感を高めただけで実現するわけではありません。究極的には財源の問題、つまり税金をどう集めるかという問題をクリアしなければならないのです。景気が悪い時に増税の話はできない、というのは確かにその通りですが、景気がいい時はいい時で、税の自然増収もあるし、福祉への人々の関心も弱まるので、やはり税金は論じられない。結局、いつまで経っても論じられないということになりかねません。福祉国家実現のためなら高負担も受け容れるということになるかどうかが、連帯実現の鍵です。
さらに、国民的連帯が仮に実現したとして、それには負の側面も伴います。国民として囲い込まれた人々の間でだけ連帯するとは、その外部の人々を排除するということを意味しており、これが国内に居住する外国人や移民労働者への排外的な態度につながったりすることがないように注意する必要があるでしょう。それに、グローバル化の副作用や経済危機の影響は、先進国にとって深刻である以上に、アフリカ諸国など、世界の弱い部分において一層苛酷なものとなることが予測されますが、そうした苦難への無関心が広がることも憂慮されます。
国民という集合的アイデンティティが、多くの場所で相対的に強力であることを利用して、そこに連帯の根拠を見出し、とりあえず一定の範囲内であれ支え合って行くことができるとしたら、それはそれで重要なことです。しかし、私たちは個人の「自己責任」を徹底的に追及する市場主義的なやり方か、それとも国民的連帯かという二者択一を迫られているわけではありません。国民という単位を自明化し、特権化することは避けるべきでしょう。
「ネオリベ」という「悪」
金融市場が破綻し、雇用形態の流動化などの市場主義的な政策の帰結が、非正規労働者の解雇や正規労働者を含む大規模なリストラなどの形で具体的にあらわれてくるにしたがい、人々の間には市場主義への怒りが広がっています。新自由主義(ネオリベラリズム)を略した「ネオリベ」という言葉は、今では悪の代名詞となったかのようです。
わずか数年前には、ベンチャー企業の社長らを時代の寵児としてもてはやしていた、その同じメディアが、今では彼らを含め、新自由主義を推進した政治家や企業人、エコノミストたちを、個人的な野心や貪欲さに動機づけられて行動したものと描いています。一握りの腐敗した連中のせいで、何の落ち度もない私たちに被害が及んだ。悪いのは「彼ら」であり、「われわれ」ではないというわけです。
そうした議論の何がまずいのか、政治とはそういうものだ、という考え方もあるでしょう。政治的なものの本質は敵対性にある。新自由主義が隆盛の時代には、左派が叩かれた。今度は彼らを叩く番だ、ということでしょうか。
しかし私は、「ネオリベ」批判が政治的な批判という枠をはみ出して、「悪」を名指しする道徳的な批判になっているとしたら問題だと思っています。市場の意義を強調する新自由主義も、政府の意義を強調する社会民主主義も、いずれも一つの政治的な立場であって、あくまで政治の場で相互に争うべきものです。この点で私は、政治的な競争関係と道徳的な批判とを切り離すべきだと主張している、シャンタル・ムフという政治理論家に共感しています(ただし、後で述べるように、彼女への批判もありますが)。
振り返ってみれば、悪いのは一握りの「彼ら」であるという論法を最も効果的に使ったのは、小泉純一郎元首相でした。郵政関係者の利益と国民全体の利益と、どっちが大切か、国民投票をしようと呼びかけて、彼は有権者の圧倒的な支持を得ました。これは危険な論法であり、郵政関係者のところに、他のどんな職業集団を代入しても、不等式は成り立ってしまいます。どんな集団も、彼らを除く国民全体に比べれば、少数派にすぎないからです。
こうした論法は何も小泉氏だけのものではありません。近年、マス・メディアを中心として、日本社会の諸悪の根源は官僚であるという議論が流通してきました。政治学者たちも、それを煽った面があると思っています。国や自治体の財政状態が悪くなったのは、官僚らが自己利益のために無駄な公共事業をやったからだということになりました。そこでは、公共事業中心の政治体制をつくり上げたのは官僚だけでなく、政治家も深く関与しており、しかもそうした政治家を選んだのは有権者自身であるということは無視されています。公務員は多すぎるといわれ、国際比較ではむしろ少ないくらいだという指摘が顧みられることもありません。
もちろん、官僚は大きな権限をもった存在であり、単なる無力な少数派であるはずはないでしょう。また、腐敗や怠慢は正されなければなりません。しかし、官僚たちをただ叩いていても、心理的な慰めが得られるだけで、問題の本質に迫ることはできないのではないでしょうか。
あえて比喩的な表現をすれば、私たちは自らの「内なる官僚」について考えてみるべきだと思います。日本社会で官僚が体現してきたものは、「われわれ」の外部の、「われわれ」とは何の関係もない何かなのでしょうか。少なくともその一部は私たちが望んだものであったはずです。それは「われわれ」の一部であり、したがって、切り離すには痛みが伴うことを覚悟しなければなりません。全国一律の行政が批判の的となってきましたが、それが生活水準を保証してきた側面もあります。さまざまな格差が目に付くようになったら、にわかに官僚批判がトーンダウンしてきたことも、このことと関係しています。
「ネオリベ」批判についても、ほぼ同様のことがいえるのではないかと私は考えています。「ネオリベ」とは、物欲の化身のような、「われわれ」健全な国民とは何の関係もない、単なる「悪」なのでしょうか。もしそうなら、彼らを断罪し排除することによって、私たちは、自分自身の生き方を一切変えることなしに、事態を変えることができるはずです。しかし、物事はそう単純ではないと私は思います。私たちの「内なるネオリベ」ともいうべきものを見すえる必要があります。
市場主義者たちは、国際競争が存在する以上、モノの値段はもちろん、労働力の値段すなわち賃金も、国際価格と連動せざるをえないということを強調しました。需要の増減に対応するには、雇用の流動化が必要だとしました。競争力の弱い分野よりも、競争性のある分野に力を注いだほうがいいともいいました。国際競争を勝ち抜くには、国際的な投資を集めることが不可欠であり、それには、投資家を厚遇するシステムにせざるをえないともしました。これらすべてが裏目に出た結果、賃金の低下、雇用の不安定化、地域格差の広がり、金融の崩壊などに私たちが苦しめられているのは周知の通りです。
しかし、それでは私たちは、国際競争があまりない状態、モノ、ヒト、カネの移動が少ない状態に移行することはできるのでしょうか。理論的には、それは不可能ではないでしょう。問題は、私たち自身が本当にそれを望んでいるかどうかです。この点を反省してみれば、私たち自身が、「ネオリベ」的なものと完全に切れているわけではないということが明らかになると思います。より豊かな生活がしたい。
安いものが欲しい。こうした欲望をもち、大量生産・大量消費のライフスタイルを続けている以上、経済のグローバル化や活性化を望む部分が私たちの中にもあります。
今のところ、苦難の原因は暴走した市場にあるということで、市場批判が強いですが、このままさらに経済状態が悪化した場合、苦しまぎれに、「ミニバブル」の再来を待望する世論が巻き起こってきたとしても驚くにはあたりません。市場主義は、私たちの外部ではなく、内部にあるものだからです。
また、流動化は悪いことばかりではありません。たとえばヒトの移動は、先進国と途上国との間などに存在する格差を、一定程度緩和する可能性があります。もちろん、移民は困難な経験を伴いますし、移動を強制するようなことは許されませんが、逆に単に移動を制限することにも問題があります。
政府も市場も私たちの中に内面化されているという私の議論は、何も変えられない、手も足も出ないということを意味しているのでしょうか。そうではありません。私は政府を道徳的に非難する言説にも、市場を道徳的に非難する言説にも与しないということです。問題は、私たちにとっていずれも大切なものである政府と市場を、具体的にどう折り合わせるか、です。そして、政治の領分で追求されるべきなのは、まさにそうした課題ではないでしょうか。
敵対性の多元性
国民という単位を特権化すべきでないということを先にいいました。そのこととも関連しますが、社会的連帯の基礎は自明なものとしてそこにあり、それに気付きさえすれば連帯は実現するといった思考法のもう一つの大きな弱点として、そのように考えてしまうと、現実に社会の中に存在する亀裂が見えにくくなってしまうということがあります。亀裂の存在を指摘する者は連帯を妨害する者だといった、硬直的な発想が出てきかねません。
この1、2年ほどの間に、正規労働者と非正規労働者との間の格差や差別を問題にする言説が、論壇等に登場しました。同じような仕事をしているのに、正規労働者は収入も非正規労働者より高く、雇用もはるかに安定している。これは不公平ではないか。正規労働者が国際的に見ても高い賃金を得ているつけが、低賃金や不安定性という形で非正規労働者に回されているのではないか。このような議論が、経営者団体や「ネオリベ」系のエコノミストだけでなく、一部の非正規労働者の側からもなされ、話題になりました。
問題をさらに難しくしたのは、ここに世代間対立がからんでくることです。バブル崩壊後の長い不況の中で、派遣労働の原則自由化などがなされたこともあり、若年層に非正規労働者がふえました。他方で、中高年層は日本型経営の時代に終身雇用のレールに乗った部分が大きく、両者の利害が相反しているとの指摘もあります。
こうした議論に対し、伝統的な左派は感情的とも見える反発を示し、正規と非正規の間に敵対性を見出すようなことは間違っていると主張します。彼らによれば、本当の敵対性は、一握りの富裕層と、それ以外の労働者との間にこそあり、正規も非正規も、労働者として連帯できるのです。世代間対立を煽るのも、「ネオリベ」や経営者たちの陰謀であるとされました。
確かに左派の反論にも根拠があり、近年、企業利益が上がる一方で、賃金などに回す労働分配率が低下してきたことはまぎれもない事実です。全体としての労働者の取り分をふやせば、正規と非正規の対立が緩和することは間違いありません。経営対労働という敵対性の存在は明らかです。
しかし私は、だからといって、たとえば正規と非正規の間の敵対性がいつわりのものだとも思いません。非正規労働者の雇用条件を向上させたり、賃金を同水準に高めたりすれば、正規労働者が譲らなければならない部分はおそらく出てきます。失業のリスクについても、今までよりは高まる危険性があります。同じように、世代間対立や地域間対立があると主張することは、十分に可能だと考えています。若者と中高年がそれぞれの利害を主張したり、農村部住民と都市部住民とが対立したりすることは、一方が他方を道徳的に非難するのでなく、政治的な場での争いであることを互いに合意している限りは、当然のふるまいだと思います。ある種の敵対性はにせものであり、ある種の敵対性だけが真正のものだという具合に、あらかじめ線を引くことこそが、反政治的とはいえないでしょうか。
先ほど、ムフの議論に納得できないところがあるとしたのも、この点にかかわります。ムフは、左派と右派との間の対立を、唯一の正しい敵対性と見なしているのです。もちろん、何が左派であり右派であるかは、固定的ではなく、文脈の中で変わって行くものだという立場を彼女はとってはいます。しかし、それにしても、すべての敵対性が左右対立に収斂するでしょうか。非正規労働者は正規労働者の安定性を攻撃しているという意味で、左派なのでしょうか。それとも、その主張がなぜか「ネオリベ」と共振するとすれば、彼らは実は右派だということになるのでしょうか。
あらゆる対立軸を総合する単一の敵対性があるといった考え方は、もはや採用することができないと私は思っています。むしろ、さまざまな敵対性が相互に打ち消し合ったり共振したりする、複雑な政治過程の中に私たちはいるのではないでしょうか。二分法的で単純な図式の中に政治が回収されそうに見える今こそ、立ち止まって考えてみる必要があるでしょう。
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