差異超え共鳴する師弟 国民主権の内実を問う
戦後の代表的政治学者の一人、故福田歓一の論考を集めた「デモクラシーと国民国家」が刊行された。福田はホッブズやルソーなどの社会契約論の研究で知られるが、本書に収められているのは、私たちが自明の前提としてきた国民国家というものを、歴史の流れの中で距離をおいて眺めようとした一連の文章である。
私たちは目前の現象を過去に投影して、まるでそれがずっとあったかのように考えがちだが、人間を支配する機構としての国家(ステート)システムは、近代ヨーロッパに初めて出現したものにすぎない。古代ギリシャ以来の、人々の結び付きという国家のもう一つのあり方は、国民による国家という形で一部の地域では実現したが、多くの場所で裏切られてきた。そして、発祥の地ヨーロッパで地域的な連合が生まれつつあることは、国民国家の時代の黄昏を示している。
改めて驚かされたのは、福田が1960年代からこうした認識をもち続けてきたことである。憲法で国民主権が規定されたが、国民は本当の意味で主人公になっておらず、権力は官僚らが担う国家機構に奪われているのではないか。このような政治への鋭い批判意識が、淡々とした俯瞰的な分析の背後にあることがわかる。
福田の下で学び、現代の代表的政治学者となった佐々木毅の近著「政治の精神」は、その文体に関しても、扱われている論点についても、一見したところ福田の本とはかけ離れている。マックス・ウエーバーの名著「職業としての政治」の続編かと思わせる筆致で、佐々木は、政治家や政党に大きな期待を寄せる。人間はきわめて多様だからこそ、共存のためには「政治的統合」が、すなわち社会全体についての明確な意思決定が必要となる。しかも、統合は自然に生まれるものではないので、それをつくり出す政治家のリーダーシップが重要だ。私たちは政治家の権力欲にあまり目くじらを立てない代わりに、結果責任は厳しく追及すべきであるとされる。
佐々木は有権者にも変化を求める、日本政治の最大の問題は、政・官・財の結合への「お任せ政治」であった点にある。かつて丸山眞男が、政治とは「悪さ加減」の選択だという福沢諭吉の言葉を好んで引用したことに、佐々木は注意を促す。何かを失うのをおそれて何も選ばなければ、政治的統合は実現せず、事態は一歩も進まない。有権者は「権力を動かし、制度を変える原点を自らに求め」なければならないというのである。
こうした佐々木の議論は、国民主権の形骸化を告発する福田の議論と、さまざまな差異を超えて、深いところで共鳴しているのではないだろうか。自明であるかのようにされてきたものを問い、自らの手で権力を動かすことを、私たちはようやく試み始めたところである。
(北海道新聞「現代読書灯」2009年09月20日朝刊)
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