普遍性と多元性の共存 平和を模索する前提に
オバマ大統領が、ノーベル平和賞受賞の際に、アフガン戦争を「正しい戦争」とあえて正当化したように、正戦論は根強い。戦争が普遍的理念に結びつけられるとかえって泥沼化しかねないとした、20世紀の憲法学者・政治学者カール・シュミットの議論が、近年あらためて注目されている背景には、こうした正戦論への疑いがあるようだ。
ただし、ナチスを当初支持したこの人物の危険さは否定できないし、謎も多い。国民国家という単位にこだわったかと思えば、国家を超えた広域秩序を構想し、さらにはパルチザン勢力に一定の評価を与えるといった立場の変化も謎の一つである。大竹弘二の「正戦と内戦」は、シュミットの膨大な著作を歩猟しつつ、「場所喪失」をキーワードとして、そこに一貫した思考様式を見いだそうとする。
大竹によれば、特定の場に根ざした、同質的な人々の間でしか秩序は成立しないとシュミットは信じていた。同質性の単位は国家よりも広くてもいい。しかし、第1次大戦後のヴェルサイユ体制のような普遍主義的な秩序構想は受け入れられなかった。世界全体について普遍的なルールを決めようとすれば、イデオロギー対立が激化し、(冷戦のような)「世界内戦」につながりかねない。それよりは、土地にこだわり自らの場を回復しようとするパルチザン闘争のほうが、はるかに健全なものとされたのである。
現代における普遍主義の一つの典型が、ブッシュ大統領を支えた新保守主義者(ネオコン)の考え方、すなわちイスラム世界にアメリカ流のデモクラシーを輸出せよといった議論であろう。ネオコンについては、ナチスの迫害をのがれてアメリカに渡った20世紀の政治思想家レオ・シュトラウスの影響が指摘されることが多いが、柴田寿子は、遺稿集「リベラル・デモクラシーと神権政治」で、その文脈を否定する。シュトラウスは、それぞれの思想的・宗教的伝統の重要性を強調した点で、普遍主義とは無縁だとするのである。
今日の世界では、公的領域と私的領域とを明確に分け、宗教などを私的領域に押し込めることによって共存を図る、自由主義的な考え方が主流を成しているが、柴田はスピノザ研究にもとづいて、それを相対化しようとする。自由主義は普遍性を掲げながら、実際には、公私二分になじむプロテスタント的な考え方を、他の宗教や伝統に押し付けているのではないか。かつてのユダヤ教徒への迫害、そして現在のイスラム教徒への不当な扱いが、その結果として生じている、というのである。
普遍主義が対立を招いたり、世界の多元性を押しつぶしたりするリスクを、十分に意識すべきだろう。しかし、他方で、差異だけを過度に強調すれば新たな「宗教戦争」につながりかねないことも事実である。柴田らの問題提起を受け止めながら、普遍性と多元性を折り合わせる道を探して行かなければならない。
(北海道新聞「現代読書灯」2010年03月07日朝刊)
|