鳩山前政権の挫折の一因は、決定過程の一元化としての「政治主導」をあまり公式主義的に導入しようとしたことにあったのではないか。
主権者の意思を議会が代表し、議会の選出する首相が決定権力を握る。この単一の回路を特権化して、権力の集中を図るべきだということは、政治学や政治メディアなどで主張されてきたが、それが実行に移されようとした。
そこでは、公式の回路の外から政治的決定に何らかの影響力を及ぼしかねないものは、「雑音」と見なされる。官僚たちは、黙って内閣のいう通りにするよう求められる。法制局官僚の国会答弁は、政治家の憲法解釈を制約するものとして禁止された。
沈黙させられるのは官僚だけではない。与党が内閣の外で政策を論じること自体、不当な「二元代表制」につながると問題にされ、前内閣時には党の政調は廃止された。二院制も批判の的で、「ねじれ」現象は不正常とされ、参議院はあくまで衆議院を立てて、おとなしくしているべきだと論じられる。
マニフェストも、中心への「政治的統合」を進めるものと期待された。選挙の洗礼を受けたマニフェストは、官僚、野党、地域や業界、さらには与党内の「抵抗勢力」への盾となるものと考えられた。
少数意見を軽視
かつての日本政治があまりに不透明であったことへの反省が、こうした動きの背景にはある。選挙によって選ばれたわけでない官僚が主導し、利益団体と族議員との裏交渉で物事が決まっていくようなことでいいのか。そうした批判が、わかりやすい政治を求める世論に結晶化した。
たしかに決定権の所在を明確にできれば、透明度は高まるし、民意に根ざすという意味では民主的になるはずであろう。しかし、「政治的統合」を進めすぎると、いくつかの弊害が出てくる。
一つは、少数意見が無視されがちになることである。主権者の意思といっても、実際には一枚岩ではない。政権交代さえあれば、どんな意見もいずれは代表されるので問題ないという考え方もあるが、絶対的な少数派の声が、多数派の(しばしば無言の)圧力によって封殺され続けることは、沖縄をめぐる問題を見れば明らかであろう。
空洞化招く集中
次に、決定権の集中は実際には政策決定の空洞化につながりかねない。官僚に代わるスタッフを十分に確保しないまま、副大臣など数人の政治家が役所に乗り込んでも、必ずしも有効な政策立案にはつながらない。
いわゆる官邸機能の強化がなされた現在でも、首相がすべてを決められるわけではない。鳩山前首相が、米軍基地問題に限らず、多くの本質的な問題を提起しながら、前に進めることができなかったのは、「政治主導」という言葉に幻惑され、さまざまな人々との交渉や調整を軽視したからではないか。
菅直人首相がかねてより「政治主導」を主唱してきた一人であるにもかかわらず、前内閣の経験をふまえて、その見直しを行おうとしていることは評価できる。
そもそも、誰が主導権を握るのかだけに注目する点に、これまでの「政治主導」論の限界がある。多様な意見が出会い、ぶつかり合い、お互いに接点を探りながら交渉する「熟議」の場という側面を織り込む形で、再定義されていくべきである。
参議院選挙を目前に、個別政策と共に、これからの政治のスタイルに関する論議も深まることを希望したい。
|