1.「既得権」について
──首相の顔が変わっただけで、支持率が大幅に回復しました。どう思われますか。
杉田 鳩山さんよりも、小沢幹事長の辞職の意味が大きいと思います。小沢さんは元々ダーティーなイメージがありましたが、ここにきて献金問題などをめぐって、決定的に嫌われました。鳩山さんは、当初はお金持ちという点では小沢さんと同じでも、金権というより「ボンボン」という感じで、イメージが悪くなかった。しかし、いろいろな政策の行き詰まりなどで、一旦けちがつき始めると、やっぱり金持ちには自分たちの気持ちはわからないんだ、と人心が離れ始めた。
こうした動向は、前回の総選挙で自民党が惨敗したことと底流ではつながっている気がします。つまり、「既得権」批判です。自民党は、実態はともかく、いかにも既得権の塊という感じで拒否された。いまの日本では、不況が長く続いて人々は非常に不機嫌になっている。自分たちがこんなに苦しいのに、うまいことやっている連中がいたら許さないぞ、という世論が底流にある。
もちろん、鳩山さんにしても小沢さんにしても違法行為があったとすれば問題ですし、政治は清潔であるに越したことはない。しかし、その上であえて言えば、いわゆる「政治改革」の中で、政治腐敗の浄化が前提条件として強調されすぎたことが、政策本位の政治の実現を結果的に遅らせている面もあるのではないでしょうか。これからも、誰が政権についても、様々な金銭スキャンダルを指摘され、次々に首相の座や要職を明け渡すということを続けていけば、それこそが政治的な停滞を招きかねない。
──腐敗を気にするな、ということですか。
杉田 そうではありません。いろいろなマイナスはマイナスとして記憶しておいて、選挙の時にまとめて審判するというやり方もあるでしょう。
──一方で菅さんが支持を集めたのは、普通のサラリーマンの息子で、市民運動出身ということでしょうか。
杉田 その通りです。しかも、既得権がない人なら他人の既得権にも切り込めるだろう、と見えるわけですね。
──「既得権」批判という点では、政治家以上に官僚のそれが問題にされていますね。
杉田 民主党政権になって以来、人々の関心を最も集め、また評価されてきたのは一連の「事業仕分け」ですしね。たしかに、税金の無駄遣いをやめるということは大切です。また、これまで密室でおこなわれてきた予算決定過程の一部とはいえ、表に出したことは、意義が大きい。一般の人々が、自分たちの税金の使い道について関心をもつきっかけになっている。そこから、政策論議が深まることになれば、と思います。
しかし、その一方で、行き過ぎた「公務員叩き」には懸念もあります。たとえば、公務員給与を勝手に自分のブログで公開したり、気に入らない公務員をやめさせたり、勝手放題のことをしている首長がいます。彼の存在そのものよりも、それを支持している人々が決して少なくないことの方が、私には問題だと思われます。彼ほど極端な行動には出ないまでも、「公務員叩き」の心理は日本社会に広く深く浸透している。暴走する首長らへのメディアの追及も及び腰です。
一部の公務員に見られる腐敗や、行き過ぎた天下りなどは追及されるべきでしょう。しかし、国政についても、自治体についても、財政の悪化や政策的な停滞の原因を、すべて公務員のせいにするというのはいかにもバランスを失しています。
このところ、日本政治では、誰が一番官僚に喧嘩腰かを競い合うような形になっています。官僚と結びついて、あるいは官僚にぶら下がって長期政権を維持してきた自民党までが競争に加わっているのはお笑い種ですが、一部の明確な新自由主義正統はもちろん、民主党の中にも「公務員叩き」の傾向はあります。
菅さん自身、かつてはその急先鋒でした。彼が評価されているのは、厚生大臣時代に薬害エイズ問題をめぐって官僚と戦ったというイメージが一つの要因です。政権についてからは、官僚は敵ではなく、協力して行く関係だと表現を変えているようですが。
──菅さんたちは、市民自治を進めるという観点から官僚批判をしているのであって、単なる嫉妬からくる「公務員叩き」や、市場を絶対化する新自由主義とは違うのではないですか。
杉田 そうかもしれません。にもかかわらず、結果的にそうした動向と共鳴し、連動してしまいかねない危うさがあるということなのです。
所信表明演説で自分でも指摘しておられるように、菅さんは松下圭一さんから強い影響を受けています。松下さんは半世紀くらい前から、日本の官僚支配を問題にしてきました。選挙されない官僚が主導権を握っており、本当の意味で市民による政治が実現してはいない。官僚に代わって、民意を反映する政治家が中心にならなければならない、と言い続けてきました(『市民自治の憲法理論』岩波新書ほか)。
これはきわめて重要な議論ですが、このように国家対市民社会、官僚対市民、という二分法的な枠組みで考えていると、どうしても市場という第三の領域に「漁夫の利」を与えてしまうのではないかと思っています。
市民社会の定義の仕方はいろいろありますが、国家とも市場とも異なる第三の領域というとらえ方が一般的でしょう。つまり、まずは徴税や徴兵など、強制力によって秩序をつくり出すものとしての国家がある。それを担うが官僚です。これに対して、市場はそうした強制力はもたないけれども、経済的な力の不均衡に応じて、一種の力関係をはらんでいる。ここの主人公は企業です。市民社会は、このいずれとも異なり、人々の自発的な参加によって成り立つ領域とされます。具体的にヴォランティアやNPOなどが担う部分ですね。
この三者の関係をどうとらえるかが、きわめて大きな問題です。官僚から権限を奪った後、それをどこに担わせるのかが焦点となります。論理的には、市場に移すか市民社会に移すか、二つの選択肢があります。しかし、現在のように、政府が非効率の塊とされる一方で、企業活動は本来的に効率的だという、一般的に証明されたわけではない前提が広く深く浸透している場合、よほど明示的に「市民社会に移す」と強調しない限り、官僚から奪ったものはそのまま市場に移管されることになってしまうのです。つまり、市民社会のために政府を批判していたとしても、新自由主義的な「民営化」につながりかねない。
──そうならないようにするには、どうすればいいのでしょうか。
杉田 ですから、国家批判、官僚批判をやるときには、市民社会の自立性という観点からやっているのだということを、もっとはっきりと示さなければなりません。そういう意味でも、「事業仕分け」の「仕分け人」の人選があれでいいのかどうか、非常に疑問です。
ちなみに、坂本義和さんあたりの市民社会論では、現代社会では市場の暴走こそが最大の問題だという観点から、むしろ国家と市民社会とが連携して市場に対抗すべきだとされています(『相対化の時代』岩波新書)。国家、市場、市民社会の三角関係について、どのように境界線を引くかが、いかに重要な政治的争点かはここからもわかります。
2.「現実」について
──ところで、鳩山前政権が短命に終わったことについては、政治とカネの問題に加えて、米軍普天間基地問題の迷走など、政権運営の稚拙さがあったと言われていますが。
杉田 鳩山内閣がいろいろな問題に着手しながら、思うような成果をあげられなかったことについては、「政治主導」というものを、あまりにも公式主義的に導入しようとしたことがあったと思います。
しかし、それより前に、基地問題をめぐって、まず確認しておきたいことがあります。それは、国土のわずか0.6パーセントしかない沖縄に、在日米軍基地の75パーセントが集中しているということの異常さを人々に意識させ、さらに、日米安保の意味について考えるきっかけを作ったという意味で、鳩山前首相の問題提起は評価されてしかるべきだということです。やり方がまずかったとしても、問題を示したことは重要です。
ところが、これに対する本土の大手メディアの姿勢は、きわめて問題でした。そもそも「非現実的な」ことを提起したこと自体がおかしい、といった報道を繰り返し、それが鳩山さんを追い込んでいった面も否定できないと思います。もちろん、政治は結果責任なので、政治指導者たるもの、勝算のない提案などすべきではないとはいえます。鳩山批判という文脈ではそれでいい。しかし、沖縄からの基地移転を「非現実的」と決めつけることが、どれだけ沖縄の人々を傷つけるかを、そうした報道はまったく考えていない。
結局、本土の側としては、現状維持が一番楽なわけです。現状を変えるためには、アメリカという巨大な相手と争うか、あるいは本土に基地を引き受けなければならない。どちらも面倒だ。本当は、沖縄対本土という対立軸があるわけですが、それを認めたくはない。そこで、「鳩山さんが沖縄の心を弄んだ」という話にして、本土の私たちもこの問題の当事者であるという事実を隠ぺいしたのではないでしょうか。
主要メディアがこうした報道姿勢をとる背景には、もちろん、一般の人々の態度があります。どれだけ多くの人々が、沖縄の問題を自分たちの問題として考えようとしたか、はなはだ心もとない面があります。沖縄では本土による「沖縄差別」といういい方が広まっていると聞きますが、それもやむをえないでしょう。
一連のメディア報道を見ながら、私が思い出したのは、丸山眞男さんの「「現実」主義の陥穽」(1952)という論文です(『丸山眞男セレクション』平凡社ライブラリー)。丸山さんによると、日本では、既成事実だけが「現実」とされる。事態は常に動いており、やり方次第では変えられるということは無視される。一つの方向だけが「現実的」とされ、実際にはさまざまな可能性があることは顧みられない。さらに、支配権力の主張だけが「現実的」とされ、反対派の主張は、それだけで「非現実的」とされる、というのです。
戦後の再軍備問題に関して、政府方針だけが「現実的」とされたことへの批判という文脈で、丸山さんはこれを書きました。それから60年を経て、いまだに、日米安保の見直しどころか、たった一つの基地の立地について米軍に譲歩を求めることさえ「非現実的」と見なされるというのが、この国のありようなのです。
──しかし、今回に関して言えば、「支配権力」のトップである鳩山さんの主張が「非現実的」とされた点が、丸山さんの議論とは違っていませんか。
杉田 というよりも、鳩山さんは政府のトップでありながら、既成事実とは違った、それまで「現実的」とされてきたのとは別の方向を打ち出そうとしたわけです。そのために、彼は丸山さんの議論の文脈からいえば、「反対派」として扱われたということではないでしょうか。
3.「政治主導」について
──鳩山内閣が「政治主導」にこだわりすぎた、という先ほど少しふれられた点とは、そのことはどう関係してくるのですか。「政治主導」とは首相の権力を強めることではなかったのですか。
杉田 まさにそのはずでした。しかし、逆説的なことに、政治主導というものをあまりに公式主義的に、極端な形で進めると、かえって政治の力は弱まるのではないか。そのことが鳩山政権の経験に見てとれると思います。
政治主導の必要性もまた、松下さんが長年にわたって主張してきたものです。菅さんが厚生大臣をやめてすぐに出した新書(『大臣』岩波新書)初版の末尾には、松下さん、菅さん、五十嵐敬喜さんの座談会(「行政権とは何か」初出「世界」1997年8月号)が収録されていましたが、そこでは、事務次官会議の廃止や法制局答弁の廃止の必要性といった、鳩山政権になって実行に移された論点のかなりの部分がすでに出ています。
先にふれたこととも関係しますが、こうした政治主導への関心は、主権者の意思が政治に十分に反映されていないのではないかという疑問に根ざしています。選挙の洗礼を受けていない官僚から、民意を反映した政治家へと政策決定の主導権を移すべきである。具体的には、まずは憲法によって最高機関と規定されている、国会の中心性が強調されます。主権者の意思を代表する立法機関を、行政機関より上に位置づけるのが憲法であるとして、従来の行政法学や憲法学が前提としてきたような、政治権力の中心は行政権であって、それを担うのは官僚だという考え方をまず叩くわけです。
その上で、議院内閣制を本来の意味でとらえれば、議会が選出する首相が権力行使の中心であるとされます。主権者の意思は、議会を経て首相権力という形で一旦結晶化し、それが各大臣らを通って各省の官僚たちへと下降していく、というイメージです。
松下さんや、それに近い立場の飯尾潤さんの議論(『日本の統治構造』中公新書)などでは、このように官僚への政治家の優位を明確にするだけでなく、政府と党の間の関係についても、政府(内閣)の権力をはっきりさせようとします。自民党時代に、内閣よりも前に党の政務調査会などで、いわゆる族議員が集まって実質的な政策決定がなされていたことは、一元的な政策決定を阻む「二元代表制」として批判されます。鳩山政権では、こうした考え方に沿って、党の政調が廃止されました。
さらに、議会の二院制も批判の対象にされます。日本国憲法では、いくつかの点で衆議院の優越が認められてはいるものの、参議院にかなり強い権限が与えられています。だからこそ、自民党時代に、有権者はしばしば参議院選挙を通じて与党に「お灸を据える」という行動をとれたわけですし、自民党政権の末期では、参議院で野党が過半数を占めたため、いわゆる「ねじれ」現象が生じました。私などは、「ねじれ」によってかえって争点が明確化し、充実した審議につながった面もあると思っていますが、政治主導論の人々は、こうした点には批判的です。できれば一院制にすべきところ、それが難しいとしても、参議院は自らの分をわきまえるべきだと主張しています。
──しばらく前から強調されるようになったマニフェストについては、どうなのでしょうか。
杉田 マニフェストは、一つには主権者と政治家との間の約束ということですから、政治家が主権者の意思を代表することの担保としての意味を持つでしょう。しかし、もう一つ見逃せない点として、これはたとえば佐々木毅さんが強調していることですが(『政治の精神』岩波新書)、マニフェストは決定権力の一元化を進める効果もあるものとされます。
選挙の洗礼を受けたマニフェストは、一定の正当性をもつわけですから、それに不満な地域や業界があったとしても、抵抗しづらくなります。さらに、自民党時代には、党内で党の方針とは違うことを派閥単位や個人単位で勝手に言うということがありました。マニフェストはこうしたことを不可能にし、それによって政党間対立を際立たせ、二大政党制の確立にもつながるということのようです。
──そうした政治主導論のどこに問題があるのですか。
杉田 まず強調しておきたいことは、私も政治主導に一定の意味を認めているということです。自民党政権時代、日本政治はあまりにも不透明でした。選挙されたわけではない官僚が主導的で、そこに結びついた「族議員」による利益政治が横行した。
そこでは、誰が決めているのかよくわからない、ということが確かにありました。官僚なのか、政治家なのかわからない。政治家の内部に限っても、大臣は首相の言うことをあまり聞かず、各省の官僚たちの方ばかり見ていた。さらに、内閣与党との関係でも、どちらが優位かよくわからない。加えて、利益団体の影響力が大きく、参議院という要因もある。こうした複雑な権力過程について、単なる混乱ではないか、主権者の意思による決定という民主政治の本質が歪められているのではないか、という考え方が出てきたこともある意味で当然でしょう。
また、そのような政治は、誰が責任を負うのかわからない一種の「無責任体制」となりがちであり、重大な決定は先送りされ続ける。それが日本政治の停滞をもたらしている、という考えも根強くあります。これは、先ほども名前を出した丸山さん以来ある考え方で、丸山さんは日本社会が「多頭一身の怪物」(中江兆民)となりがちなことを問題にし、政治権力の集中自体は悪いことでも何でもなく、むしろ日本では「政治的統合」が根本的に欠落しているとしました(「政治的判断」、『丸山眞男セレクション』)。
党内を一元化し、党と内閣の関係では内閣の優位を明確化し、内閣における首相のリーダーシップを確立する。このように権力を首相に集中させることで、確かに透明度は高まりますし、議会の多数派の意見がすなわち主権者の意思であるという前提に立つなら、それは民主政治の確立と言えるでしょう。
──どこに問題があるのですか。
杉田 第一に、今もふれた点、つまり多数意見を主権者の意思と等置することに伴う問題点があります。マニフェスト選挙を経て、議会の多数派によって選出された首相は、多数派を代表しているとはいえるかもしれません。しかし、そうした回路だけに一元化すると、少数意見は軽視されがちになります。従来は、与党内でのいろいろな意見の間の調整、さらには野党との話し合いなどによって、実質的に決定過程の中で少数意見が反映されるということがあった。こうした回路に対して「裏交渉」とか「談合」とかの負のレッテルを貼って、一切なくしてしまうと危険です。
──政権交代さえあれば、ある時に少数意見であったものが、次の機会に多数意見となる可能性があるのではないですか。
杉田 全体の中で絶対的に少数派である人々の意見は、なかなか多数意見になることはできません。そのことは、沖縄問題の経緯を見れば明らかではないでしょうか。
さらに、第二に指摘しなければならないのは、決定権を集中することは、政治的な決定能力を実質的に高めることには必ずしもならないということです。これまでの政治主導論は、まるで「正解」はすでにわかっているような議論になっています。マニフェストを示し、選挙が行われた時点で、もう政策決定は終わっている。あとは各省庁に大臣や副大臣、政務官など数人の政治家が乗り込んで、その実現を進めるだけだ、というイメージです。
しかし、実際には、政策決定というものはそんなに機械的なものではないし、そうであってはならない。いろいろな人々の意見にふれ、議論の設定を探りながら、よりよい結論を求めていく「熟議」という側面が、民主政治には絶対に必要なのです。
官僚についても、それを排除することが政治主導であるかのような誤解がある。官僚はなんと言ってもさまざまな情報をもっており、それを単に外すだけでは、政治はかえって空洞化してしまいます。鳩山さんの失敗の一因もそのあたりにあったのではないか。完全に浮いてしまったため、自分の側近や知人からの、断片的な情報だけで政策運営をした。
党の政調を復活させるなど、菅政権は、鳩山政権の挫折を見て、政治主導についての考え方を修正しようとしていますが、それはいいことだと思っています。
──官僚支配の復活や族議員の再登場につながるのではないかと、という見方もありますが。
杉田 周りを黙らせて押し通すような政治主導は危険であり、成果を生み出さないと言う意味では無力です。政治とは本来、「正解」などない領域であって、それぞれに一定の正しさをもつ多様な意見や立場を何とか折り合わせていく作業です。そうしたスキルを磨くことが本来の政治主導なのであって、制度的な権限を一部の政治家に集中させれば実現するようなものではありません。
(この「インタビュー」は筆者本人によって構成されたものである)
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