国境線の中の「正義」へ グローバルな問いかけ
ハーバード大学での講義がテレビ放映されて話題となり、日本でも模擬講義を行うなど、アメリカの政治哲学者マイケル・サンデルの人気が高い。講義にもとづく「これからの『正義』の話をしよう」はベストセラーとなった。ハウツー本ばかりが売れる中、「正義」という堅い話題に人々の関心を惹きつけただけでも、サンデルの功績は大きい。
しかし、彼の講義も本も特定の立場を前面に押し出しており、いろいろな立場をまんべんなく紹介するという、単なる教科書的なものではない。これを意識しないと、しらずしらずのうちに、ある考え方を植え付けられてしまいかねない。サンデルは聴講者や読者に極限状況を想定させ、「究極の選択」を迫る。一人しか救うことができない状況で、自分の子どもを救うか、他人の子どもを救うか。そうした一連の設問によって、人間には、親しい人々をより強く気遣う傾向があり、しかもそれは正しいのだと説得していくのである。
著名なアメリカの政治哲学者ジョン・ロールズの議論が、普遍主義的なようで、実は特定の社会を前提としているのではないかと指摘することで、サンデルは有名になった。そのこともあり、サンデルは、正義についてあくまで特定の社会の内部で考えようとする。
これに対し、ロールズらの議論が国境線の中に閉じこもっていると批判し、世界全体についての正義を考えていくべきだというトマス・ポッゲらの「グローバル正義」論の系譜がある。先進国の内部の格差よりも、先進国と途上国との間の格差の方がより大きいし、先進国よりも途上国で貧困はより深刻であることが、そこでは問題となる。伊藤恭彦は「貧困の放置は罪なのか」で、そうした系譜を紹介しながら、自らの論点を展開している。
国境を越えて貧しい人々を救うべきだという議論に対しては、しばしば「救命ボート」の比喩が示されてきた。私たちは定員ぎりぎりの救命ボートに乗っているのであり、周りでおぼれている人々を救えば、自分たちも沈んでしまう、というのである。しかし伊藤によれば、現実の地球の姿は、豪華客船が十分な乗船スペースを残し、パーティーの残り物を廃棄しながら、外の人々を見殺しにしている状況に近い。
人は近親者を優先するものだというまさにサンデルが提示しているような論点に対しても、伊藤は、人間の生命の平等を前提にすれば、自分たちの生活を大きく犠牲にしない範囲でグローバルな貧困が除去できる以上、恵まれた社会の人々にはそうする義務があるとしている。
たしかに、目の前の人々と私たちはまず連帯すべきである。しかし、そのことは、経済活動などを通じてすでに強くむすびついている、世界のさまざまな人々の不幸に目をふさぐ理由にはならないのではないか。サンデル流の正義論に対するグローバル正義論の問いかけはそこにある。
(北海道新聞「現代読書灯」2010年10月17日朝刊)
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