悪や矛盾の存在こそが キリスト教の信仰確立
罪もない人々が次々に海にさらわれ、無数の人々が一瞬にして家族や家を失った東日本大震災と大津波。伝えられる惨状や、映し出される荒涼たる被災地の風景に、「神も仏もない」という思いを禁じえなかった。
世界中から東北への共感の声が届いたが、さまざまな宗教的背景をもつ人々は、この天災をどう受け止めたのだろうか。ヨーロッパでも、かつて18世紀中葉にリスボン市街をほぼ壊滅させる大地震・大津波が起きた後には、神の存在をめぐる深刻な論争が生じたと言われている。
橋爪大三郎と大澤真幸は「ふしぎなキリスト教」で、キリスト教の教義や、ユダヤ教、イスラム教との関係などについて語り合うが、そこでの主要な問題の一つが、悪や矛盾の存在が、信仰の基礎を掘り崩さないのかという点である。日本のような多神教的世界なら、納得できない苦難の原因を一部神のせいにすることもできようが、単一の神が世界を創造したとする一神教では、神そのものへの疑念につながるのではないか。
しかし橋爪らは、キリスト教史をふり返りながら、むしろそうした疑問こそが神との「不断の対話」としての祈りを動機づけ、信仰を確立した面があるとする。
大自然の圧倒的な力は、神への疑いを呼び起こす一方で、逆に人知の限界を意識するきっかけともなりうる。今回、天災に伴って原発事故が発生したことは、科学技術文明への信頼をゆるがしている。しかし、橋爪らの対談では、科学とキリスト教との関係についても、興味深い指摘がある。両者は一見、相性が悪いが、実はキリスト教において、神と被造物とが厳密に区別されたことが、自然科学の発達を可能にした面がある。「神は世界を創造したあと、出て行ってしまった」とされたからこそ、人間が、被造物としての自然を自由に管理できるようになったというのである。
天災で信仰が揺らぐとか、科学と宗教とが対立すると考えること自体が、一神教に縁遠い日本の宗教事情を反映しているのかもしれない。マイケル・サンデルの1990年代の著作「民主政の不満」の翻訳が最近出た。元来は共同体への帰属意識を大切にしていたアメリカ社会が、すべてを個人の選択とする社会へと次第に変化したことを、アメリカ史を追いながらサンデルは批判するが、その際、彼が告発するのは、信仰を個人の選択の結果とするプロテスタント的な宗教観がいつの間にか標準化したことである。ある種の宗教では、信者は神によって選ばれているのであり、信者が神を選んでいるわけではない。信仰は義務であり、選択の対象ではない。そのことが見失われているというのである。
あらかじめ神によって選ばれていないらしき、日本の大多数の人々にとって、3・11は精神史的な転機となるか。それとも「神も仏もない」まま歩み出すことになるのだろうか。
(北海道新聞「現代読書灯」2011年07月03日朝刊)
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