「殺す」一方で「生かす」 権力の複雑な作用考察
いまを考える上で参照されるべき思想家として、ミシェル・フーコーの名前を逸することはできないだろう。フーコーはもう終わったと何度も言われたが、終わっていない。近年、ジョルジョ・アガンベンやアントニオ・ネグリといった人びとが、彼の大きな影響の下に独自の議論を展開しているということもある。
しかし、それ以上に、3・11以降の日本列島に生きる私たちにとって、フーコーが切り開いた権力論は、もはや他人事ではない。フーコー以前には、権力とはもっぱら権力者が揮う迷惑なもので、権力は小さければ小さいほどいいという自由主義的な理解が一般的であった。これに対しフーコーは、権力はもっと複雑で、一筋縄ではいかないということを示した。とりわけ「生権力」をめぐる彼の議論は、権力が人びとを殺す一方で、人びとを生かし人口をふやす生産的な面もあるという点を強調した。大災害と原発事故を経て、私たちは、生き延びるためには権力が人を移動させたり、土地利用を制限したりしてもやむをえないと考えるようになった。そして、生活の再建・保障という積極的な作用を権力に対して求めざるをえない自分たちの姿を見つめている。
檜垣立哉編「生権力論の現在」は、生権力的なものが今日、どのような局面に現れるかを、若手研究者たちが追究した論集である。たとえば臓器移植をめぐって、それが患者を生かすと同時に、脳死の人びとを潜在的な「資源」と見なし、その死を望むような方向につながりかねないという指摘。少子化の中でクローズアップされる移民政策について、「人種」にもとづく対象の選別はもちろんのこと、個人の能力にもとづく選別であっても、人びとを経済合理性の観点から区分するものであるという指摘。人の生活や生殖の場である家族や、その暮らす場としての住居の権力性が、フーコーらによって十分に分析されてこなかったという指摘など、さまざまな論点が挙げられており、今後の分析の発展が期待される。
もっとも、同書の執筆者たちも述べているように、フーコーはいろいろな事例分析の中で主権的権力、規律権力、生権力、統治性といった概念をばらばらに提示しただけで、それらの間の関係についてあまり明確にしていない。権力論を体系的な形で示してくれてはいないのである。この点でフーコーを批判する議論もあるが、重田園江「ミシェル・フーコー」は、逆にそうした複雑さ、安易な図式化を許さない豊穣さこそがフーコーの魅力であると主張する。入門書を標榜した同書で、重田は「監獄の誕生」一冊のみを取り上げる。その上で、監獄を例にとった規律権力論と紹介されがちな「監獄の誕生」が、そんなに簡単に割り切れるものではなく、そこには他の権力へのまなざしも混在してるし、規律権力の失敗についての記述さえあると強調するのである。重田の記述は行ったり来たりで要約しづらいが、これは、この本自体がそうしたフーコーのやり方を再演する試みだからなのであろう。
(北海道新聞「現代読書灯」2011年10月23日朝刊)
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