頼るべきモノない近代 熟議民主主義の可能性
現代社会においてデモクラシー(民主政治)はなぜ必要か。そして、それはいかにして可能となるのか。宇野、田村、山崎は「デモクラシーの擁護」で、現在を「再帰的近代」ととらえた上で、そこでこそデモクラシーの必要性は増していると主張する。「再帰的近代」とはすべてのものが自明性を失った状況を指す。もはや頼るべき伝統や共同体をもたない私たちは、何でも個人で決めなければならなくなっているが、これは大きな負担なので、民主的に集合的な決定をして、負担を少しでも減らすことに意味がある。
次に、今ではあまりに多くの事柄が私的なものとされてしまっているが、その中には、政治の場に持ち込むことで解決する事柄も実はあるはずである。さらに、もはや人びとが価値観を共有し合えない中で、原理主義的な勢力の激突などを避けるには、結局は話し合いしかないのではないか。こうした観点から宇野らは、「さまざまな他者との対話を通じて自己を再帰的に捉え直していく」熟議民主主義の意義を強調している。
政治学では、近年、熟議民主主義(討議民主主義ともいう)論が盛んだが、これに冷水を浴びせるのが東浩紀の「一般意志2・0」である。東によれば、人びとが公共的な空間で意識的・理性的なコミュニケーションを進んで行うという発想は、現実によって裏切られている。むしろ、ネット上を飛び交う無数のつぶやきを、その動機を問わず、討議を欠いたままデータベース化し、ちょうどグーグル検索のような形で集約すれば、そこに社会全体の無意識のようなものが現れてくるのではないか。表明された意志の集計としての「全体意志」とは別のところに「一般意志」を求めたルソーの趣旨にも、それは適うのではないか、というのである。
東自身、本の後半では若干論調を修正し、こうした「無意識民主主義」に議会等の「熟議の空間」を結合するという構想を示している。しかし、彼の討議批判は、デモクラシーは本来討論などとは無縁であり、人びとにできるのは「喝采」だけだとしたカール・シュミットを想起させる。
多数の人びとが参加する形で、しかも理性的な討論を確保することが難しいという東の指摘は重要であるが、それは熟議民主主義の可能性を否定することに成功しているだろうか。篠原一が編集した「討議デモクラシーの挑戦」は、世界各国での実践例を具体的に紹介している。注目されるのは、実際に多く行われているのが、市民の中から数十人から数百人を集めて、数日以上、できるだけ多くの客観的な情報を与えた上で、政策への意見が変化するかどうか調べる「ミニ・パブリックス」型の討議である点である。そこでの代表は、陪審員のように無作為抽出された市民である。熟議をいわば市民の義務として制度化することで実現しようとする、こうした事例の存在は、この国のデモクラシーのあり方を考える上でも示唆に富む。
(北海道新聞「現代読書灯」2012年03月04日朝刊)
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