理不尽な組織の「大義」に抗し続けて
作家・城山三郎は、この3月22日に茅ケ崎の病院にて亡くなった。享年79。遺稿集『嬉しうて、そして…』のあとがきで、最後の2カ月を一緒に過ごした娘の井上紀子さんは「一番心配していた長患いをすることもなく……さらりと逝ってしまった」と書いている。紀子さんによれば、城山は経済小説家として有名だが「原点は戦争でした」(『城山三郎が娘に語った戦争』)という。
17歳の城山が徴兵猶予を返上し「一身を国に捧(ささ)げ」る覚悟で、海軍特別幹部練習生として志願入隊したのは敗戦の3カ月前である。そこで城山が体験したのは「ただ狂ったように、部下を撲(なぐ)りつけるだけ」の非人間的な帝国海軍と、「玉砕と呼ばれる事態を繰り返す他なかった戦争末期」の狂乱だった。戦争とは国民という個人に対する国家という組織の「裏切り」である。言論の自由がなければ個人は組織の理不尽な「大義」に抵抗できない。晩年の城山がテレビに出演したりデモに参加したりして、個人情報保護法に激しく反対したのも同法が「運用次第では言論統制法につなが」る危惧(きぐ)を覚えたからだ。
城山の小説には、組織の「大義」や時代の流れに抗して生きた男たちが多く登場する。その男たちが『官僚たちの夏』や『乗取り』のようなフィクションから、次第に『雄気堂々』の渋沢栄一のようなノンフィクションへと変わった背景について、城山は佐高信氏との対談(『城山三郎の遺志』〈岩波書店〉所収)で「存在そのものが美学であるというような人……を知って、書いてみようという気持ちがだんだん強くなってき」たと述べている。旧平価で金輸出の解禁を断行した浜口雄幸と井上準之助を『男子の本懐』で取り上げたのも、膨張する軍の予算を抑えるためには国民にデフレの痛みを強いても「それしかない」と、命を賭して決断した2人の「覚悟」を書きたかったからである。
00年にかけがえのない容子夫人を亡くしてから、城山の視点は「大切な人を失って、なお生き続けなければならない者」へ移ったと紀子さんは回顧する。そのとき、城山は改めて戦争の理不尽さを実感したのかもしれない。夫人の死後に書き上げた『指揮官たちの特攻』には、共に23歳で世を去った最初と最後の特攻隊員の「花びらのようにはかなかった」幸せな新婚生活の後で、残された家族が敗戦後に送らざるを得なかった長く、切ない余生が綴(つづ)られている。
指導者としての浜口と井上の「覚悟」をテーマにした講演で、城山はイギリスの経済学者J・S・ミルの言葉“My work is done(我が仕事は為(な)せり)”を引用し「この一言を残して世を去りたい」と願いを述べた。それが叶(かな)ったことは、紀子さんの「とてもやすらかに、ほっとしたような顔で亡くなりました」という言葉に表れている。城山は逝ったが、城山の作品は生きている。自らの筆によるエッセーと紀子さんに語った積年の思いを通して人間・城山の日常と心の奥を知ることは、作家・城山の作品に対する読者の理解をいっそう深めるに違いない。
|