「私のもの」は、本当に私のものなのか
注文した料理がテーブルに運ばれ、いざ食べようとしたとき突然他人が隣の席に座り横から私の料理を食べ始めたら、なぜ「私のもの」を勝手に食べるのかと多くの人は怒るのではないか。そのとき、相手から「お前ひとりで食べるのは不当だ」と言われても簡単には納得できない。「西洋独特の私的所有概念」から見れば、私の料理は「私のもの」だからだ。
だが、突然現れた人がとても貧しく飢えている人だと知ったら私は、「私のもの」を分け与えるかもしれない。また、昔ながらの友人なら運ばれてきた料理だけではなく、追加注文をして、結果的に食べた料理の量が2人の間で差があっても、会計は割り勘で済ませたり、私が「彼/彼女」の分を奢ったりすることも珍しくはない。
しかし、それ以上に社会学者の立岩真也氏が10年ほど前に「何が私のものとされるのか、何を私のものとするのか」と問うた『私的所有論』(勁草書房)の議論を思い起こすなら、所有論の背景には予想外に奥深い問題が潜んでいる。なぜなら「私のもの」はどこまで私のものかをめぐる議論は生命や遺伝子の決定権や処分権にまで及ぶからだ。
文化人類学の観点から所有論の研究を続ける著者は、エチオピアの農村で土地の権利や穀物のトウモロコシあるいは換金作物のコーヒーなどの所有や分配がどのように行われているのかを、現地の人と実際に生活を共にしながら調査した本書で、「自分のものを自分だけで消費することを認める私的所有の原則が……例外に近いことに、われわれはもっと思いを馳せるべき」だと指摘する。確かに、多くの経済学者は「世界の一割の人間で全世界の八割を超える富を独占」しても正当だというが、人類学者は「ほんとうに……正当なのだろうか」と疑問を呈する。
著者は本書を「『私的所有』という命題へのささやかな挑戦」だと控えめに語るが、評者には私有財産権を盾にして格差の拡大を看過し、すべてを自己責任に帰する主流派経済学者への痛烈な挑戦に見えるのである。
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