『雇用、利子および貨幣の一般理論』(以下『一般理論』)を紐解かずに「論語読まずの論語批判」を繰り返すエコノミストや評論家は、秀明大学学頭の西部邁氏の言葉を借りれば「経済学の初歩的な教科書において歪められつつ定型化されてしまっているケインズ・モデルとやらを知っているだけ」(西部著『ケインズ』5ページ)である。それが古典の運命だとしても、『一般理論』の誕生に貢献した経済学者ジョーン・ロビンソンが述べたように、経済学を学ぶ目的が経済学者に騙されないことにあるなら、標準的なテキストや解説だけで満足するのではなく、直接古典から学ぶことを忘れてはならない。
ケインズは景気対策のためにインフレを容認したわけでもなければ、経済全体の所得(雇用量と密接に関係のある総生産)を拡大するために、穴を掘って埋めるだけの「浪費」的な公共投資をススメたわけでもない。逆に、ケインズは『一般理論』の中で「雇用の改善とともに……産出量が増加すると短期的には費用が増大するから、産出量の増加につれて(賃金単位で測った)物価も上昇する」(間宮訳上巻350ページ。以下引用部の( )内は訳者注)と言って、投資の乗数効果で雇用が増加すれば、完全雇用が達成される前にインフレが生じるかもしれないと懸念を表明している。また、資本の限界効率が低下して投資が停滞した際の対応に関しても、「ひとたび有効需要を左右する要因をわがものとした日には、分別ある社会が場当たり的でしばしば浪費的でさえあるこのような緩和策<貯蓄を用いて「地中に穴を掘ること」>に……依存し続ける理由はない」(同308〜309ページ。以下引用部の< >内は筆者注)と説いて、雇用対策を口実に無駄な公共投資を漫然と継続することには釘を刺しているのだ。
新訳が証明する「ケインズは死んではない」
この1月に『一般理論』の新訳を岩波文庫から公刊した間宮陽介氏は、訳者序文で「『ケインズは死んだ』と言われて、すでに久しい。……だが、本当に死んだのだろうか」と自問し、「決して死んではいない」と自答する。そこに定訳(塩野谷祐一訳)がある中で、間宮氏が新訳に取り組んだ理由が潜んでいる。アメリカでも昨年秋にポール・クルーグマン氏が序文を付した『一般理論』(Palgrave Macmillan刊)が出版され、クルーグマン氏が『一般理論』をどのように評価するのかに注目が集まった。クルーグマン氏は学生時代に読んで以来数十年ぶりに紐解いたと告白したうえで、『一般理論』は現在においても十分に読む価値があると賞賛し、ケインズは死んだという人は『一般理論』を読んでいないか、あるいは読んでいても理解が間違っているかどちらかだと述べている。
間宮氏やクルーグマン氏が言うように、ケインズは現代においても死んでいないとするなら、経済学の世界でどのように生きているのだろうか。ケインズ研究の第一人者である京都大学名誉教授の伊藤光晴氏は、間宮氏の新訳との同時出版を想定した岩波新書『現代に生きるケインズ』(ケインズ没後60年、『一般理論』刊行70年の2006年刊行)のなかで「ケインズ政策を批判するエコノミスト、経済学者はいても、ケインズが批判し、その死を看取った金本位制度を復活させようという人はいない。管理通貨なしに、ケインズ理論の最大の批判者フリードマンの、通貨政策はなりたたない。ケインズ以前のように、失業者を怠け者(idleman)とし、個人の責任とし、政策の対象外とする政治は復活しない」(23ページ)と指摘したうえで、「ケインズが批判した新古典派の経済学を受けついでいる経済学者も、その理論の中に、ケインズによって切り開かれた、マクロ理論を大きな柱としている。ケインズは経済学の知的枠組みを変えただけでなく、資本主義の枠組みを変えた経済の学者でもあった」(同)と述べ、ケインズの理論は現代においても生きていると主張する。
同じことはクルーグマン氏も、上記の序文の中で「現代のマクロ経済学者が行っている議論のほとんどは直接『一般理論』に負っており、ケインズが示した理論の枠組みは現在でも十分に通用する」と指摘している。間宮氏にいたっては「もしも死んでいるように見えるとするならば、それは『殺意』をもって『殺された』のである」(上巻vページ)と他殺の可能性まで示唆する。間宮氏によれば、犯人は小さな政府への回帰を標榜する新自由主義であり、動機は「新自由主義的世界とそのイデオロギーにとって<ケインズの理論は>不都合だから葬り去られた」のだという。ただ、実際に「殺された」のは「新自由主義と同じイデオロギーに格下げされ」たケインズの藁人形にすぎない。その意味でケインズの理論は「死んではいない」と間宮氏は言うのである。
厳密かつ難解な『一般理論』誕生の背景
「論語読まず」のエコノミストから大きな政府の元凶とみなされているケインズは、政策パンフレット(時論)『自由放任の終焉』で「国家のなすべきことで最も重要なのは、……個人の活動範囲外に属する諸機能や、国家以外には誰ひとりとして実行することのないような諸決定に関係している。政府にとって重要なことは、……現在のところ全然実行されていないことを行う」(宮崎義一訳)ことだと述べ、個人や企業にできることは個人や企業に任せて、政府は政府にしかできないことに徹するべきだと主張している。ケインズが批判したのは「私企業は束縛を受けなければ、社会全体の最大幸福を助長する」(同)という予定調和的な功利主義や、「生存競争によって生じる犠牲を勘案することなく、ただ最終結果のもたらす便益だけに注目」(同)する行き過ぎた(生存)競争だった。ケインズは民間の自由を抑制して政府の役割を拡大しようとしたのではない。社会的利益と対立する私的利益の追求を許すような自由放任を諫めたのである。
『一般理論』の実質的な第1章に相当する第2章「古典派経済学の公準」のかなり早い段階で、ケインズは「現行賃金の下ですべての労働者が働きたいだけ働いているという例はそうざらにあるものではない。これが現実であるのに、失業が上の部類<「摩擦的」失業と「自発的」失業の二種類>で尽きているなんて話<「非自発的」失業は存在しないという話>があるだろうか。というのも、需要さえあればふつうは現行貨幣賃金の下でも雇用量は増えるものだからである」(間宮訳上巻12ページ)と言って、現実には働きたい労働者がすべて働くことができる完全雇用は例外的であり、失業者の中には古典派が想定する原因以外で失業を強いられている「非自発的」失業者が日常的に存在すること、また、その解決には需要の創出が有効であり、それができれば雇用も増えるという『一般理論』の核心的な主張を早々に展開している。
30代から40代半ばにかけてケインズが量産した政策パンフレットなら、こうした認識に続いて貨幣供給量の増加による利子率引き下げや、公共投資の乗数効果による生産・雇用の拡大策など具体的な政策を提言したに違いない。しかし、序文で「本書の主たる読者はわが経済学者諸氏である。他の人々に読んでもらいたいのはやまやまであるが、本書の主要な目的は理論上の難題を論じることにあり、理論を実地に移すことは副次的な問題にとどまる」(間宮訳上巻xiiiページ)と宣言された『一般理論』の議論は厳密かつ慎重であり、内容も複雑かつ難解である。
ケインズがあえてアカデミックな回り道をした理由は、『一般理論』の最後に記された有名な一節「経済学者や政治哲学者の思想は、それが正しい場合も誤っている場合も、通常考えられている以上に強力である。……誰の知的影響も受けていないと信じている実務家でさえ、誰かしら過去の経済学者の奴隷である……思想というものは、……ある期間を経てはじめて人に浸透していく……二五ないし三〇歳を超えた人で、新しい理論の影響を受ける人はそれほどいない。だから役人や政治家、あるいは煽動家でさえも、彼らが眼前の出来事に適用する思想はおそらく最新のものではないだろう。だが、(最新の思想もやがて時を経る)、早晩、良くも悪くも危険になるのは、既得権益ではなく思想である」(間宮訳下巻194ページ)を読めば明らかだ。経済学者として自ら提言した政策の実現を望むなら、その政策を正当化する新しい理論を構築し、政策の決定権を有する役人や政治家および実務家にその理論を共有してもらわなければ、いくら時宜を得た提言を行っても政策には反映されないことをケインズは何度も痛感してきたからである。
特に、自らも「強く泥(なず)んできた」(間宮訳上巻xiiiページ)当時の正統派に対して、「<古典派理論の>公準が妥当するのは特殊な事例のみで一般的には妥当せず、その想定する状態はおよそ考えうる均衡状態の中の極限状態であると」(間宮訳上巻5ページ)論争を挑み、政策的な含意に関しても「古典派の教えを経験的事実に適用しようとするならば、その教えはあらぬ方向へ人を導き、悲惨な結果を招来する」(同)と批判を試みたケインズにとっては、「細部にわたって議論を正確に組み立てなければ、目論見は失敗に帰する」(前掲書クルーグマン序文)恐れがあった。「概念規定では厳密さを追求するあまり、議論の抹消部分が肥大化し、議論の道筋を見えにくくさせている」(間宮訳上巻viiページ)のは、失敗を回避したいという意気込みの現われかもしれない。
難解な議論に潜むケインズの豊かな発想
『一般理論』が難解なのは誕生の経緯を考えれば当然であり、その内容をテキスト風にわかりやすく解説しようとすれば、逆にケインズの「豊かな」発想が失われる危険がある。その典型が、多くのテキストに登場するIS―LM曲線分析である。標準的なテキストにおいては貨幣供給量を増やすと、利子率が低下し、投資額が増え、その結果、生産と雇用も増える、すなわちグラフ上でみればLM曲線がシフトし、新しい均衡点では元の均衡点と比較して利子率が低下し、所得と雇用が増えると解説されている。
だが、『一般理論』には「貨幣量の増加は、他の条件が同じであれば、利子率を低下させると期待してよいが、大衆の流動性選好が貨幣量の増加以上に増大しているならば、そのようなことは起こらない」(間宮訳上巻240ページ)、つまり貨幣量が増えても大衆が現金(貨幣)を積み増し、債券の購入額を増やさなければ利子率は低下しないと書かれている。また、「利子率の低下は、他の条件が同じであれば、投資額を増加させると期待してよいが、もしも資本の限界効率表が利子率よりも速やかに低下しているならば、そのようなこと<投資額の増加>は起こりはしないだろう」(同)と言って、たとえ利子率が低下しても、それ以上に企業家が弱気になれば投資額は増えないと述べている。さらにケインズは「投資額の増加は他の条件が同じならば雇用を増加させると期待していいけれども、もし消費性向が低下しているとしたら、そのようなことは起こらないかもしれない」(同)と言って、マクロ的には投資額が増えても消費性向の低下によって貯蓄額が増加する場合は、所得(雇用)は増えない可能性があると説くのだ。
公共投資の拡大(IS-LM分析で言えばIS曲線のシフト)がもたらす効果に関してもケインズは「政府が一〇万人を公共事業に追加雇用した場合、(先に定義した)乗数が<投資乗数と同じ>四であったとしても、総雇用が四〇万人増加するとは必ずしも言い切れない。なぜならこの新政策は他の方面において、投資に逆効果を及ぼすかもしれないからである」(間宮訳上巻165ページ)と述べて、乗数効果が理論通りに発揮されない要因についても言及している。
ケインズが古典派の発想を「人々が経済はこのようにふるまって欲しいと願うそのあり方を<古典派理論は>体現している……だが現実もそうだと仮定するのは、われわれにはなんの困難もないと最初から決めてかかるも同然である」(間宮訳上巻48ページ)と厳しく批判したのは、その予定調和的な前提があまりに非現実的だからである。ケインズが政策の効果に関してさまざまな留保条件を付したのは、将来が不確実だからであり、効果の波及に影響を与える社会構造や人間の心理が不確定だからだ。理論においても「他の条件が同じであれば」といった制約は設けずに、複雑で多様な現実を可能なかぎり理論に反映しようとケインズが努めたのも、そうした方が人々の生活している社会をより良い方向へ導くことができると確信したからである。
わかりやすい議論にはもちろん、奇をてらった議論にも落とし穴が潜んでいる。その欺瞞を見抜くためには回り道をしても、生きている古典を紐解く時間と手間を惜しんではならない。
(コラム)「景気対策の王道」
景気後退の原因をめぐる「神学論争」ほど不毛なものはない。経済学の世界では日本の「失われた10年」の原因どころか、80年近く前の大不況の原因に関しても未だに定説は存在しないからだ。ケインズが『一般理論』で取り組んだのも、どうすれば雇用を回復できるのかという理論構築であり、なぜ不況に陥ったのかという原因究明ではなかった。「景気循環の正しい救済策は・・・不況をなくし・・・永続的に半好況の状態におくこと」(間宮訳下巻97ページ)にあるとケインズはいう。その意味で、弱者に痛みを課し循環的な回復を待つだけの景気無策も、バラマキによる一時しのぎも対策としては失格だ。正解は即効性のある需要と雇用を創造すると同時に、持続的な生活の向上にも寄与する社会投資の促進であり、それが『一般理論』で示された対策の王道でもある。
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